インテグラル・ヨーガより

慈悲喜捨

 他の幸福を喜び(慈)不幸を憐れみ(悲)
他の有徳を欣(よろこ)び(喜)不徳を捨てる(捨)
態度を培うことによって、心は乱れなき静澄を保つ。
(ヨーガスートラI−33)


出典:「インテグラル・ヨーガ」パタンジャリのヨーガ・スートラ スワミ・サッチダーナンダ著

 私は、サマーデイに至ることに関心のある人にも、ヨーガなどやるつもりはないという人にも、少なくともこのスートラだけは覚えておくよう勧めたい。それが日常生活の中で心を安らかに保つのに非常に役に立つからである。たとえあなたが人生に特にこれといった大きな目標はないというのであっても、いいからちょっとこのスートラに虚心に従ってみよう。そうすればその効能を納得する。私自身の経験では、このスートラが常に心の静澄を保つための導きの灯となった——。心が常に静澄であることを望まない人が居るだろうか?そこでパタンジャリは、この、慈(友愛)・悲(憐憫)・喜(欣喜)・捨(捨離)の四つの鍵をさし出す。この世に下ろされている錠前は四つだけだ。だからいつもこれら四つの鍵を持っていよ。そうすれば、四つの錠のうちのどれかに出くわしたときでも、あなたにはそれを開けることのできる鍵がある。

 四つの錠とは何だろう?それは‘スカー’、‘ドゥッカ’、‘プンニャ’、‘アプンニャ’つまり、幸福な人、不幸な人、有徳の人、不徳の人である。どんな人のどんな一瞬をとってみても、それは必ずこの四つの範疇のうちのどれかに当てはまる。

 幸福な人に出会ったら、‘友愛’の鍵を使え——。しかしパタンジャリはなぜこんなことを言わねばならなかったのだろう?それは、四千年前でも、他人の幸福を見て喜べない人々がいたからに違いない。それは今でも同じである。たとえば、ある人がすごい車に乗って宮殿みたいな彼の屋敷の前で止まり、そこで降りる。その光景を、数人の人が見ていたとする。疲れて、灼けつくような舗道の上に立って。そんなとき、そのうちの何人が心楽しいだろうか?そう多くはあるまい。彼らは言うだろう、「見ろよ、すごい車だぜ。奴は労働者の血を吸っているのさ」。そういう人は、わりとよくいる。彼らはいつも妬んでいる。誰かが名声や名誉や高い地位を得ると、必ずそれにケチをつける。「知らなかったのかい?やつの兄が何某で、間違いなくそいつが裏で糸を引いているのさ。」彼らは、その人が自分自身の力でそうなったのだとは絶対に認めない。だがそんなふうに嫉妬したところで、当の本人はちっともこたえやしないのだ、逆にこちらが自分の平静を乱しているだけのことで。彼はただ車から降りて家の中へ入って行っただけなのに、こちらの内面は煮えたぎっている……。そうではなく、「ああ、彼は果報者だなぁ。もし誰もがあんなふうだったら、この世はどんなに素晴らしいだろう。どうか誰もがそういう喜びを得られるように、神が祝福されんことを……。そして、私もいつかそうなろう」と考えよ。その人をあなたの友とせよ。そういう対応が、ほとんどの場合、なされない。個人と個人の間でも、国と国との間でも。ある国が繁栄すると、隣の国はそれを妬んで、そこの経済をつぶしてやりたいと思ってしまう。だから、われわれはいつも、幸福な人を見たら友愛の鍵を手にするべきだ。

 そして次の錠、不幸な人々の場合はどうか——?「確かスワミは、誰にでもその人自身の‘カルマ’があるとおっしゃっていましたね。あの人もきっと前世で何か悪いことをしたのでしょう。だから、今苦しくても、それは仕方がない——。」これはわれわれのとるべき態度ではない。たしかにその人は以前の悪いカルマのために今苦しんでいるのかもしれない、だがわれわれは憫みの心をもつべきだ。もし手を貸すことができるのなら、それをせよ。一山のパンを半分分け与えることができるのなら、それを与えよ。常に慈悲深くあれ。それをすることによって、あなたはあなたの心の平安と均衡を保持するだろう。われわれの目的は心の静穏を保つことなのだ。われわれの同情によってその人が救われようと救われまいと、憫れみを感じることで少なくともわれわれ自身が救われる——。

 そして3番目、有徳の人。徳の高い人に出会ったら、欣喜せよ。「ああ、彼はなんて立派なのだろう。彼こそ私の手本とするべき人物だ。私はその素晴らしさを見習わなければならない。」その人を羨むなかれ、おとしめようとするなかれ。彼の中の美質を讃え、自らの人生にそれらの美質を育もうとせよ。

 そして最後に、不徳の人である。邪な人々と言うのも確かにいる。それは否定できない。ではそういう時われわれはどういう態度をとるべきか?無関心である。「そう、そういう人もいるだろう。だが昨日の私もそうではなかったか?そして、今日の私は多少ましになってはいないか?その人も、明日には多少ましになっているだろう。」彼に忠告しようとするなかれ。邪な人間というものは、まずその忠告は取り合わない。彼に忠告しようとすれば、こちらの平安が失われる——。

 私は子供の頃に聞かされた『パンチャ・タントラ』の中の小話を、今でも思い出す。
ある雨の日のこと、一匹の猿が、全身ずぶぬれで木の枝に座っていた。同じ木の、ちょうど向かい合わせになった小さな枝に、一つの巣がぶら下がっていて、中に1羽の雀がいた。雀はだいたい枝の先端に巣を作るものなので、それは垂れ下がっていて、微風の中でゆらゆら回転する。巣は、中がちゃんとした部屋になっていて、上は小部屋と応接室、下は寝室と、新しく子供が生まれてきたときのために、子供部屋まである。いや本当にそうなのだ。雀の巣というのは必見の代物で、実によくできている——

 それで、その雀が暖かくて居心地のいい巣の中から外を眺めていると、その哀れな猿の姿が目に入った。そこで雀は、
「ねえ君、僕はとっても小さいだろ。君みたいに手もないし……。小さなくちばしだけしかね。でもそのくちばしだけで、こんな雨の日もあろうかと思って、ちょっとした家を作っておいたんだ。この中にいれば、雨が何日も降り続いたって、暖かいしね。何でもダーウィンとかいう人が、君たち猿は人間の祖先だって言ったんだってね。だったらどうして頭を使わないの?雨をしのげるような小屋を、ちょっとどこかに作ったら?」
それを聞いたときの猿の顔ときたら、ものすごい形相で、
「何だと、このチビ助め!俺にお説教しようってのか。自分は巣の中にいて気持ちがいいもんだから、俺をからかっているのか?ようし見てろ、どういうことになるか思い知らせてやる!」
そういうと猿は、その巣をずたずたに引き裂いてしまった。哀れな雀は雨の中に飛び出して逃げ、猿と同じようにずぶぬれになってしまった——

 これは私が小さいときに聞いた話だが、今でもよく憶えている。というわけでこういう猿にはときどき出くわすものだが、そこであなたが意見をすれば、それは侮辱と受け取られる。彼らには、あなたが自分の立場を誇っているように見えるのだ。もしある人の中に少しでもそういう気配を感じたら、離れていよう。彼らはいずれ彼ら自身の経験によって学ばねばならない。そういう人に忠告すると、あなた自身が平安を失ってしまうだけだ。

 その他に何か思いつく範疇があるだろうか?パタンジャリはすべての個人の在り方を、幸福、不幸、有徳、不徳の四つのグループに分けた。だからこれら四つの心構え——友愛(慈)、同情(悲)、欣喜(喜)、無関心(捨)を備えていよう。これら四つの鍵をいつもあなたのポケットに入れておこう。相応の鍵を相応の人に用いれば、あなたはあなたの平安を保持することができる。そのとき、あなたを動転させることのできるものは何もない。覚えておこう、われわれの目標は静かな心を保つことなのだ——。それは『ヨーガ・スートラ』の冒頭からすでに感じさせられることだが、このスートラは特に大きな助けになる。