アーカイブ: 介護

*まるっと◎なんくるないさぁ~* あい∞ん在宅看取り介護4

 なるべく普段の生活をしようと努めておられたお父様を、付かず離れずで見守っておられた、あい∞んさん。ガン切除で退院されてから3年になろうとする頃、次第にお父様の不調が目立つようになりました。
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

————————————————————————
あい∞ん在宅看取り介護4

Q.住み慣れた環境で、なるべく薬に頼らず、お父様が心地良い食事や日常を楽しまれるよう配慮されながら、気づくと3年になろうとしていました。この頃から次第に体調の変化があったそうですね。

患部の痛みが次第に強くなってきたようで、お尻の腫瘍を圧迫しないように立っていても、それでも痛みが続いていたようです。平成30年の暮れには、痛みのために横になっている時間が長くなり始めました。この時期から血尿や患部からの出血も見られるようになりました。ついに食事やテレビを観るのも、座るのではなく立ったままで過ごすようになりました。


2月頃の寒い時季、ふと気になって父の部屋をのぞいたことがありました。すると箪笥に寄りかかったまま父はじっと立っていました。
「大丈夫かね?」と聞いたら「ああ」と言ったので私は部屋を後に。

数時間後、また気になってドアを開けると、やはり、ぼーっと虚ろな感じで立ったままで、すごくびっくりしたことがありました。父が虚ろな感じに見えたのは、きっと一人で痛みに向き合って辛抱していたのだろうと思います。ものすごく忍耐強い人でした。

そしてこの頃から、なんとなく家の中に父の気配が感じられなくなっていました。これまでは、父が夜中にトイレに行く時など足音やドアの音で気付いていました。けれども痛みのために動きがゆっくりになり、父は壁に沿って手で支えながら足を引くように歩いていました。



Q.一緒に住むということは、意識のどこかに家族の動きを感じているものなのですね。

食欲が減り、横になって寝ている時間が長くなり、それまで楽しみの1つだったおやつも食べなくなり、さらに自分で小まめに記録していた排尿や排便の記録も書けなくなりました。
心のどこかで「父の死」を意識するようになりました。


平成31年3月下旬、私の携帯電話に一本の電話が入りました。
それは、毎週月曜日に訪問看護に来て下さっている総合病院の主任看護師さんからでした。

看護師「お父様の身体の痛みがとても強くなっていて、これから先、自力で歩いたり出来なくなる前に終末期を自宅で過ごされるか、病院に入院されるのかを早急に決められた方が良いと思います。ご家族で話されて近日中に娘さんも一緒にご家族でお越しいただけますか?」

私(娘)「…はい。痛みが強くなっているのは知っていましたが…。それは、命の期限が近づいていて、看取りを家でするのか?病院で最期を迎えるのか?という意味ですよね?
余命がどのくらいあるのか、もしも解っているなら教えていただけますか?

看護師「はっきりと『余命がこの位』ということは解らないですし…、言えないです。思っていたよりも長く生きられる場合もありますし、突然容態が急変される場合もあります。ただお父様はずっと『九十歳まで生きる』とおっしゃっていましたが…、お誕生日の九月までは半年ありますから…ちょっと厳しいのではないかなと思います…。」

私(娘)「そうなんですね。教えてくださってありがとうございました。家族で相談してから、また改めてお返事させて下さい。」

看護師「はい。もちろん大丈夫です。よろしくお願いいたします。」

» 続きはこちらから

*まるっと◎なんくるないさぁ~* あい∞ん在宅看取り介護3

がんばってお父様の介護を始めたあい∞んさんでしたが、日々身近に接することでお互いの思いの違いが表面化してしまい、ついに我慢の限界。
あい∞んさんは一旦、介護から離れることになりました。
さて、この後は一体どうなるのでしょう。
(まのじ)
————————————————————————
あい∞ん在宅看取り介護3


Q.「お父さんのことはお母さんが全部してあげて!もう私は関わらない。」と、脱・介護宣言をしてしまいましたが、もともとお母様は家業でお忙しい身でしたね。実際には、お父様の介護はどうなったのでしょう。

その頃の父は、まだ自分で身の回りのことが出来ていました。ただ、ストーマ(人工肛門)の袋を装着することだけが難しかったようで、私が離れてからは、母がストーマの袋を貼る担当になり、また、それ以外にも父の食事の支度は母がしてくれるようになりました。

母は、それまでは食品の安全や栄養には無頓着でしたが、とても機転の利く人で、父の喜ぶことを自然にやっていました。父にとって心地良い言葉かけがとっても上手だし、今までは作る機会がなかったようなお料理も本で栄養を調べ、色んな食材をバランス良く選んで「これは○○に良いからね~」と一つ一つ説明して食卓に乗せたり、また、本人が好みの慣れ親しんだ調理や味付け、たとえそれが出来合いのお惣菜で保存料や着色料がたくさん入っていても、父が喜んで食べられるものが並びました。お魚も再登場です。


母が料理を担当し始めると、父はだんだん元気になっていき、晩酌を楽しめるほどまで体調も回復しました。「自分は90歳まで絶対に生きる!」と周りの方達に常々言っていたし、母も「お父さんは90歳までは生きんといけんよ!」と和していました。
食事は、身体だけでなく心の栄養にも大切なんだなぁ…と思いました。

母の立派なところは、食事のことだけでなく、何度も突然に漏れるストーマにも嫌な顔ひとつ見せず、「ここが一番景気がえ~ね~!景気がええのが一番!」と笑って父を和ませることでした。
私が毛嫌いしている排便の始末も、ちっとも嫌がらずに受け入れている。
・・・・なんという寛容さ!!!
今の私には絶対にできない寛容な対応と言葉かけ。
本当にすごいな・・・・と心から想いました。
何よりも大好きな母(妻)に身の回りのことを色々としてもらうことが、父にとって一番嬉しくて幸せなことだったのではないかなぁと思いました。母のお蔭さまで、父は余命が延びたのだろうなぁ!


母は、父の好きなようにさせても気にならないタイプ。けれども私は父の有りのままを見守れない。
お互いにストレスを感じない相性の良い相手、心を許せる人が傍に居て、頼れたり、本人の自由にできることがどれほど大切なことかを認識できました。
甘やかされて我がままな娘(私)の選択は、結局、父の命にとってはとってもベスト!なことだったのかもしれません。

» 続きはこちらから

消費税を上げておいて、さっそく法人税を下げ、公的年金の給付を下げ、介護施設の補助を切り詰める安倍政権

 自民、公明の税制調査会が2020年度の税制改正で、「法人税減税」を検討し始めました。消費税を上げておいて、返す刀で法人税減税とはあまりにも分かりやすいと思ったら、自民党税調会長はあの甘利氏。建設会社の口利き疑惑を未だに国会で説明していない甘利氏。国会を睡眠障害で長期欠席した甘利氏でした。ご自身の収賄疑惑の説明も果たされていないのに、国民の税金をポケットマネーのように法人税減税に当てようとは、いい了見です。
 今や安倍政権が消費税増額分を社会保障に当てるなど誰も信じていませんが、それにしてもこれ見よがしに社会保障費の削減を打ち出しています。
 これまで特別養護老人ホームなどの入居費用のうち食費・居住費については、要件を満たせばちょっぴり補助が出ていました。しかし今後はその要件を厳しくし、その「ちょっぴり補助」を受けられる人がさらに少なくなります。各サービスの公平性が理由とされていますが、一律国が全額負担すればこれほど公平なことはなかろう。
 さらに日経によれば、今後、公的年金の給付額がさらに下げられるそうです。「今の高齢者への給付額を抑えれば、将来世代の給付に回せる」とありましたが、そんな○○言説を信じるお人好しさんが居ると日経は本気で思っているのだろうか?
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

————————————————————————
自公税調議論スタート 企業支援に力点
引用元)
自民、公明両党の税制調査会は21日、それぞれ総会を開いて2020年度税制改正に向けた議論を本格スタートさせた。12月12日をめどに与党税制改正大綱を取りまとめる。10月に消費税率を引き上げたばかりとあって今回は増税を極力避け、企業に投資を促す法人税減税など企業支援策を中心に検討する見通しだ
(以下略)
————————————————————————
介護施設の入居補助、縮小へ 資産要件を厳格化 厚労省
引用元)
 厚生労働省は、低所得の高齢者に介護施設の食費・居住費を補助する「補足給付」の対象者を縮小する方向で調整に入った。今は預貯金などの資産が「1千万円以下」の人が対象だが、約500万円までの間で引き下げる。社会保障審議会(厚労相の諮問機関)の部会に近く示す予定。
(以下略)

————————————————————————
公的年金、2年連続抑制へ マクロスライド、来年度も発動 物価の上昇見込む
引用元)
公的年金の給付額を抑える「マクロ経済スライド」が2020年度に発動される見通しだ。緩やかな景気回復の下で、物価や賃金が小幅ながら上がり、実施の条件を満たす公算が大きい。発動すれば、いまの高齢者への年金を抑え、将来世代の給付に回すことができる
(以下略)


» 続きはこちらから

*まるっと◎なんくるないさぁ~* あい∞ん在宅看取り介護2

 大きな手術を終え、自宅に戻られたお父様のお世話をすることになった、
あい∞んさん。
介護保険では「要介護2」の判定を受けられ、訪問看護の助けを得ながらお世話を始めたようです。
なんくるない、、、かな?
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

————————————————————————
あい∞ん在宅看取り介護2

Q.いよいよお父様が退院されて、自宅での介護が始まりました。その頃の様子はどうでしたか?

 始めは、良い手助けをしようと一生懸命に考えて、父の身体のために良いと思う食事を作り、残尿を取り、お風呂を見守り、ストーマの袋の取り外しや取り付けのお手伝いをし、訪問看護への対応、病院受診の付き添いをしてがんばりました。
ちなみに残尿は退院してすぐに正常な範囲に戻り、カテーテル無しでも大丈夫になりました!

退院後に始まった訪問看護では、血圧・脈・体温・酸素量の測定に加えて、近況報告の聞き取りがありました。専用のノートに測定値と、簡単なメモ(メッセージ)などを記入して下さり、父本人の状況を共有するのに役立ちました。

訪問看護の聞き取りは元気よく!?


 退院後、私が父のために考えた食事は、秋川牧園さんの野菜を使った野菜料理でした。
父の免疫力をあげる為には、なるべく無農薬・無化学肥料の野菜や放射能汚染の心配の少ない材料を使い、添加物を多く含むもの、遺伝子組み換えの食品も避けたいと考えました。
父は、311以降も毎日魚を食べていて、放射能大丈夫かな…と常々不安に思っていました。
すでにある癌が暴れないようにする為には、この際、東城百合子さんの「自然療法」を参考に食事を変えた方が良いかしら、良い「気」が通っている食べ物を選ぶことや、食事をガヤトリー・マントラで浄めるなど、できるだけ自分なりに努力することで、父の身体は変わるのではないかなとも期待しました。


 でも、、父は、それまでとはずいぶん違う食事に戸惑ったようでした。父は本当に魚が好きでしたので、それが全く無い献立は不満だったのだと思います。


また、父は元々几帳面な性格で、一度決めたことはキッチリやる人でした。自分のことは自分で出来るし、料理も自分と母の分まで作っていました。毎日血圧を測ってはメモし、トイレの度にお茶を飲むなどマメな人でした。
退院後も、そうした生活の「きまり」は果たそうとします。
それまでの習慣通り何時間も休みなく庭掃除をしたり、いくつもの大きな金魚鉢の水換えをしようとします。
そばに居る私にすれば、フラフラして危なかしくて見ていられないので、いつもいつも止めていました。でも父は、疲れても途中で止められない性格。毎日、頑張りすぎて具合が悪くなる、の繰り返しです。
なので、いつも最後にはケンカになるパターンでした。
一歩間違えたら死ぬよ!というようなことを何度説明しても、理解して貰えなくて苦労しました。

普段は薦めても全然散歩などしないのに、ある時、徒歩15分以上は掛かる散髪屋さんに、一人で歩いて行こうとしたこともあります。
転倒したら本当に大変なのに。。

それに、動きすぎるとストーマ(人工肛門)の袋が破れてしまうのも困ったことでした。

» 続きはこちらから

*まるっと◎なんくるないさぁ~* あい∞ん在宅看取り介護1

 いつも時事ブログに可愛らしい挿絵を提供して下さる、あい∞んさんが、先頃お父様を見送られました。病気の発覚、手術をされた後の在宅での看護、そして在宅での看取りを経験されたそうです。
 日本もいよいよ高齢化社会に入り、身近な方の看取りは珍しいことではなくなりました。そして、やがて来る自分自身の最期のことも考える時、にわかに「在宅」というキーワードが現れます。
 「在宅」での最期はご本人にとっても家族にとっても理想的なように思えます。実際はどうだろう? あい∞んさんの体験やお気持ちはどうだったのだろう? 様々なケースがある中で、あい∞んさんに当時のお話を伺うことにしました。
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

————————————————————————
あい∞ん在宅看取り介護1

Q.あい∞んさん、さっそくですがお父様の闘病はどのようにして始まったのですか?

 病気が見つかったきっかけは、排便の具合に変調があったことでした。
平成28年3月頃のことです。
検査の結果「直腸癌」と診断され、手術をして腫瘍を取り除く事になりました。診断の説明があった時、私は同伴していなかったので、診断の内容がよく分からず、父と母に「手術する以外の方法は無いのか聞いてみた方がいいよ。手術した後で困った事になった場合は取り返しつかなくなるだろうから…」と伝えてはみましたが。。。。

結局、両親の意思で、平成28年3月8日に入院し、翌日に手術。
87歳での大きな手術だったし、薬に対する耐性が弱い体質だということが過去の手術の経験から分かっていたので「麻酔から戻ってこれるかな」など、とても心配でしたが、その手術は無事に乗り越えることができ、終わった時はひと安心でした。

手術は無事に終わりました


 けれども、手術の後の父は可哀想な様子でした。
やっぱり大きな開腹手術でダメージが大きかったらしくて、、、発熱が続き、認知機能も急激に低下して、食事や会話もうまくできなくなっていました。

食事の際にお膳を前にぼぉ。。。としたり、お箸が解らずメガネで食べようとしたり、、、


» 続きはこちらから