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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝9 ― 黒い貴族の二つの系統

 既述したように、ユースタス・マリンズは「黒い貴族」のルーツをカナン族だとします。
 カナンとはノアに3人の息子があったうちのハムの息子になります。ハムは黒人種と分類されており、その血統のカナン族の肌が黒いのは当然となるでしょう。しかしカナン族は肌の色もありますが波動的にも黒いのです。カナン族は古代から悪魔崇拝を続けてきたファミリー群だからです。そして確かにこのカナン族こそが「黒い貴族」の源流に当たる一つの系統になるでしょう。
 しかし「黒い貴族」にはこれに加えてもう一つ別の系統があるように見えるのです。前回見たように、ジョン・コールマン博士は「黒い貴族」として欧州王家の面々をリストアップしています。このリストはいわば結果として「黒い貴族」となった「王家の血流」ですが、この欧州王族の系統の源流は、本来的にカナン族とは別の系統になるはずなのです。
 なぜか? まず血統が異なるのです。つまり「黒い貴族」として一括りになってはいますが、「黒い貴族」には「カナン族」と「王家の血流」という本来は別々の二つの系統が流れ込んでいると見えるのです。
 具体的にどういうことかといえば、オレンジ家のウィリアム3世が英国に上陸した際に、多くの「アムステルダムの金融ユダヤ人」を引き連れてやってきたことが指摘されています。この指摘を例にすると、オレンジ家のウイリアム3世は言うまでも無く「王家の血流」の系統になります。それに対して「アムステルダムの金融ユダヤ人」は「カナン族」の系統になると思えるのです。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝9 ― 黒い貴族の二つの系統

カナン族 ~地中海を支配する悪魔崇拝の一族


「黒い貴族」には「カナン族」「王家の血流」という2つの系統があるように見えます。この2つの系統について、先に「カナン族」の系統についての大雑把な見解を示します。

「カナンの地」と呼ばれた一帯があります。カナン族の本拠であり現在の中東パレスチナの一帯です。「カナン族」、彼らは紀元前の遙か昔にフェニキア人とも呼ばれ、地中海とその沿岸全域をも勢力圏にしていきます。

フェニキア人の交易路
Author:DooFi [CC BY-SA]

カナン族はたぐいまれな商売の才があり優れた造船技術を持っており、古代に「海の民」と接触した後に、共になって勢力を拡充して海上貿易で繁栄するのです。そしてその主な貿易の中の一つには「奴隷貿易」がありました。

ハムの血統肌の色が黒く、古代から悪魔崇拝にいそしんでいたカナン族は、これら海上貿易で巨利を得て地中海の支配権を獲得していきます。彼らは植民都市カルタゴを建設したことでも有名であり、海上帝国を築いたのでした。このように繁栄を誇った彼らでした。

3回にわたるポエニ戦争(Punic War)中のローマとカルタゴの領土変遷
※画像中、左下のマイナス表記の数字は年号
編集者註:第1回(BC264〜BC241) 第2回(BC218〜BC201)
第3回(BC149〜BC146カルタゴ滅亡

しかし、やがてローマ軍によって築いた海上帝国が滅ぼされます。最終的にポエニ戦争でカルタゴが滅亡させられたのが紀元前146年です。ただし、海上帝国は滅ぼされましたが、カナン族自体は滅亡したわけではありません。

カナン族は「ユダヤ人」だと自らを騙りながらローマ(後のローマ帝国)の中に入り込み、貴族たちを籠絡しつつ、特権ユダヤ人、宮廷ユダヤ人として力を蓄えていきます。ローマ帝国内部奥深くに入り込み腐敗堕落させるのです。
やがてローマ帝国が滅亡に追いやられたその大きな一因が、彼らカナン族だと見てもいいように思えます。

その彼らは、ローマ帝国が滅ぶ頃には、ヴェネチアを本拠地とするようになっていました。

ヴェネツィア共和国の領土の変遷

「紀元466年、ベネチア(フェニキア)の町が建設された。その地形の特異性、さらにはカナン人が躍起となって金と権力を追求したことで、町はほどなく商業世界の中枢となった。」と『カナンの呪い』でユースタス・マリンズが指摘するように、彼らはヴェネチアを本拠地にして、その後再び地中海貿易を独占していき、11世紀には実質的に地中海を支配する「ヴェネチアの黒い貴族」として欧州全域で知られるようになっていたわけです。

「黒い貴族」の源流にあたるであろう「カナン族」については、大体こういうことだっただろうと推測できます。付け加えると悪魔崇拝の「カナン族」はブラック・ロッジ、つまり地獄のそして「表のイルミナティ」側となります。

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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝8 ― 乗っ取られたイギリス(下)

 特権会社イギリス東インド会社設立から始まった英国の1600年代。この世紀の中頃から後半にかけてピューリタン革命と名誉革命の英国革命が起こされます。これによって、①追放されていたユダヤ人が英国に帰還し、②オランダの王子であったウィリアム3世が英国王となります。この①②にて1600年代末にはイングランド銀行が創設されました。英国国家と英国王室の大変な変化と変質です。
 それでは、題名の「乗っ取られたイギリス」ですが、誰にイギリスが乗っ取られたのか? ①に関して、イングランド銀行創設は、ウィリアム3世の特許認可もありますが、その主体はクロムウェルを雇ったマナセ・ベン・イズラエルに連なるアムステルダムの自称ユダヤの金融勢力でしょう。
 それでは英国を追放されていた金融ユダヤ人がイギリスを乗っ取ったのか? これについては「それで間違ってはいないでしょう」という答えになると思います。
 次の②に関して、オランダの王子が英国王になっているので、オランダ王室がイギリスを乗っ取ったのか?の見解もあるでしょう。それは「見方によっては間違ってはいないでしょう」という答えになりそうです。
 少少曖昧な答えにならざるを得ないのは、イギリスと一口に言ってもその成り立ちは複雑で、地域はイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドに分かれ、支配層民族もゲルマン民族の流入に、ノルマン人(バイキング)の征服と言った具合に変化しています。
 この複雑さ故に「誰がイギリスを乗っ取ったのか?」の答えは一口で表されない面があるのです。
 しかし正確な答えもあると見ています。それは「黒い貴族が乗っ取った」でもいいのですが、黒い貴族全体を「それは何か」をこれまで規定できていないので、より正確には「悪魔崇拝主義がイギリスを乗っ取った」です。
 これが1600年代のイギリスに数々起きた重大な事柄の本質だと見ています。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝8 ― 乗っ取られたイギリス(下)

ウィリアム3世からハノーヴァー朝へ ~恣意的な英王朝の変遷


Author:TRAJAN_117 [CC BY-SA]
Author:Alphathon [CC BY-SA]

イギリス議会の要請で、オランダ・オレンジ家のウィレム3世が英国に上陸し、英国王ジェームズ2世は亡命の身となります。ウィレム3世はジェームズ2世の娘メアリと既に政略結婚しており、メアリ2世と共にイギリスを共同統治します。これが名誉革命とされています。

ウィレム3世がウィリアム3世として即位した5年後の1694年に、「国家に貸し付けを行う」世界最初の近代中央銀行とされる「イングランド銀行」(「イングランド銀行」は非常に重要なのでそれ単体を別枠で見ていくつもりです。)が設立されたのです。

この英国革命を経て、イングランド銀行設立に大きく関わったウィリアム3世ですが、メアリ2世との間に子供はなく、英国王位は、メアリ2世の妹のアンに継承されます。

しかしアンにも王位継承者の子息はなく、アンの死去と共にスチュアート朝は断絶です。スチュアート朝断絶には1701年ウィリアム3世時に制定された王位継承法が大きく関係しています。

この王位継承法により、アンの王位を継承する候補者が次々に王位の権利を失い、必然的な形で外国ドイツのハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ国王として迎えられます。彼は選帝侯を兼ねたまま英国王ジョージ1世となったのです。

「ジョージ1世は英語をほとんど解せず、しかもロンドンに馴染まずにハノーヴァーに滞在することが多かった。イギリス国政に関与することが少なかったので、イギリスの政党政治が定着し、責任内閣制の原則が確立していった。」(「世界史の窓」)とのことです。

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こうやって、どう見てもかなり恣意的な形で開始されたハノーヴァー朝、それが現在にまでそのまま至っているのです。
途中、1901年から王朝名をサックス=ゴバーグ=ゴータ朝にしましたが中身は同じです。そして現在の王朝名はウィンザー朝ですが、1917年に第一次世界大戦が始まり、ドイツの王朝名はまずいということでウィンザー朝と名乗っただけで、中身はやはり同じなのです。

ハノーヴァー家について重要なポイントウィキペディアの「ウィンザー朝」の記事で冒頭記されているように、ハノーヴァー家はゲルフ家に繋がっている点です。この点はジョン・コールマン博士も幾度も指摘しています。『300人委員会』の最後部分で次のよう記す通りです。

「ウィンザー家」の実態はゲルフ家であり、ヴェネチアの黒い貴族のなかでももっとも古い名門の一つだ。ヴィクトリア女王の血統は、直接ゲルフ家までさかのぼることができる。」


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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝7 ― 乗っ取られたイギリス(中)

 「内戦の続くシリアでは・・・」、日本のNHKなど、マスコミでは必ず内戦として報道され続けてきたシリアの現実は、内戦などでは全くありません。外国の武装暴力部隊がシリア内部に入り込み、国民が民主的に選んだ正統な政府を転覆させるため、暴力を振るった暴力クーデターの侵略戦争でした。
 幸いシリア政府は持ちこたえることが出来ましたが、先に転覆させられたリビアも全く同様の構図でした。「独裁からの解放、民主化を求める市民革命、市民クーデター」などの名前で呼ばれてきた世界中のほぼ全ての革命はこの構図であり、寡頭支配層の暴力による侵略だったのです。
 このプロトタイプ、原型となっていたのがピューリタン革命です。革命の旗手オリバー・クロムウェルは「黒い貴族」に雇われていました。雇われたクロムウェルは、国王チャールズ1世を処刑するため、英議会で国王を擁護の議員のほぼ全てを不法強引に追放して、公開処刑を決行しました。
 これと同質の事態は日本にも進行してきました。山田元農水大臣等、日本の国益を守ろうとした国会議員が次々に落選の憂き目に遭ってきたのを、私たちはこの6年間目の当たりにしてきました。結果、当然ながら私たちの大切な国冨を、次から次へと外国へと流失させてきたわけです。安倍政権のバックにいるのは誰でしょうか?
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝7 ― 乗っ取られたイギリス(中)

資金援助(提供)を受けていたクロムウェルとチャールズ2世


オリバー・クロムウェル
Wikimedia Commons [Public Domain]
チャールズ2世
Wikimedia Commons [Public Domain]

1600年代、イギリスは多方面で戦争に明け暮れていました。そんな中、英蘭戦争を実施した英国側の主が、クロムウェルとチャールズ2世であり、この両者は、その戦争資金の融資をアムステルダムの金融勢力から受けたと前回触れました。

実はこの両者は戦争資金の融資を受けただけではないのです。それ以前の段階として、両者はそれぞれの活動や生き残りのための資金提供を、アムステルダムの金融勢力から受けていたのはまず間違いないのです。資金援助を受けた相手から資金融資を受けるのは当然です。

先にチャールズ2世についてです。
ブログ「金貸しは国家を相手に金を貸す」では、2017-10-11記事で次のように端的に指摘しています。

「クロムウェルが革命後しばらくして死ぬと、チャールズ一世の遺児がチャールズ二世として国王に復帰しました。これが1660年の王政復古です。実は、チャールズ二世は大陸亡命中にアムステルダムのユダヤ人富豪から王位返り咲きのために多額の資金援助を受けていました。そのため、チャールズ二世は治世中寛大なユダヤ人政策を取っていたのです。」

ピューリタン革命で英王チャールズ1世を処刑し、王政を破壊し、その後独裁政治を行ったのがオリバー・クロムウェルです。その後チャールズ2世が王政復古を遂げるのですが、チャールズ2世がそれを成し遂げるには当然多大の資金が必要です。亡命中の彼にそのような資金があるはずが無く、その資金をアムステルダムの金融勢力(ユダヤ富豪)が提供したとしているのです。

その引き替えに、チャールズ2世はユダヤ人たちに有利な政策を取ったとしているのですが、これはよく分かります。更に大切な点があります。

外伝5で「チャールズ2世は1661年に、東インド会社に主権国家との和平締結および宣戦布告の権利を与えた。・・・チャールズ2世はこのほかにも、ベナレスおよびガンジスのケシ(アヘンの原料)栽培の完全支配とそこから上がるすべての収益を独占する権利も与えた。また、インドの政治指導者と直接交渉する権利・・・も与えた。」と指摘したように、チャールズ2世は王位に就き早々にイギリス東インド会社に超国家的特権を付与し、同時に英国内ユダヤ人に有利な政策をとったのです。

この政策は彼の本当の意志でしょうか? 表向きは王政復古ですが、内実はチャールズ2世がコントロールされていたのは明瞭で、誰がコントロールしていたか?も明白です。

ユダヤ人、というかユダヤを名乗るアムステルダム金融勢力、つまり「黒い貴族」たちが資金提供で恩を売りながら、引き替えにチャールズ2世をコントロールしていたのです。しかし、そもそもチャールズ2世の父チャールズ1世を憤死に追いやったのが彼ら自身です。「黒い貴族」がクロムウェルを雇っていたのです。

pixabay [CC0]


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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝6 ― 乗っ取られたイギリス(上)

 前回見た「るいネット」の記事の中にあるこの一文「黒い貴族は地中海貿易から大西洋貿易に移るためにヴェネチアからオランダへ、さらにイギリスへと移動」、この視点が極めて重要です。
 私たちは歴史を見る際に国家対国家の視点のみで見るように条件付けさせられてきました。例えば、身近なところでは北朝鮮対日本、北朝鮮対アメリカと言った具合に。
 北朝鮮と日本または北朝鮮とアメリカは、これまで長年敵対関係にあったとするのが常識見解でしょう。この見解を全否定は出来ません。しかしこの見解だけでは現実は見えてきません。
 国と一口で言ってもそれは一体何を?誰を?指すのでしょうか? 利用するため国家を都合よく動かしている存在があるのです。
 「黒い貴族」はそういった存在です。歴史の表舞台の裏にいる文字通り黒幕の存在です。彼らがイギリスの東インド会社のみならず、オランダ東インド会社をも用いて国家を動かしてきたと見ると、歴史の色合いは大きく変わるでしょう。
 イギリス東インド会社とオランダ東インド株式会社の間には流血の抗争があり、それを元とした英蘭戦争があったのは事実です。しかしそれは単なる敵対関係として、イギリスとオランダ国家、そしてイギリスとオランダの両東インド会社が抗争と戦争を繰り返してきたのだろうか? どうも単純な敵対関係とは全く違う意味がありそうです。
 今回はこれらに関する歴史事実を中心に追っていきます。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝6 ― 乗っ取られたイギリス(上)

1600年代イギリスの重大な動き ~イングランド銀行設立へ


27歳のウィリアム3世(1650-1702)
Wikimedia Commons [Public Domain]

1600年、エリザベス1世の勅許によりイギリス東インド会社が設立されます。この1600年代にイギリス国家は、そしてイギリス王室は大きく変動し、また変質もしていきます。このイギリスにおける極めて重要な変動を『ユダヤ・ロスチャイルド世界冷酷支配年表』は端的に次のように指摘しています。

「1649年 オリバー・クロムウェルは、イギリス議会から支援を受けて、国王チャールズ1世反逆罪の廉で処刑した。その後、クロムウェルは1290年にエドワード1世が発布した「ユダヤ人追放令」を事実上撤回し、イギリスのユダヤ人の受け入れを再開した。この追放令は、ユダヤ人をイギリスから永遠に追放し、1290年11月1日以降に国内に留まるユダヤ人は処刑すると定めたものである。」

「1688年 A・N・フィールドは、1931年出版の著書『すべてをつなぐ真実』で、この年のイギリスの様子を説明している。これが、クロムウェルがユダヤ人入国禁止の法を無視する決断をし、ユダヤ人が法に背いてイギリスに戻ってからわずか33年後の状況である。「クロムウェルがユダヤ人をイギリスに入国させるようになってから33年後、オランダの王子(訳注:ウィリアム3世ユダヤ金融の中心地アムステルダムから大勢のユダヤ人を引き連れてやって来た。義理の父をイギリスから追い出した王子は、イギリスの王位に就くことをありがたく承諾した。当然の結果として、6年後、王室に金を貸す目的でイングランド銀行が設立され、国債が発行された。ユダヤ人がやって来るまでのイギリスは借金などしたことはなかったにもかかわらずである。」」

pixabay [CC0]

王政が敷かれてきたイギリスが、共和政に取って代わられイギリス王が処刑。これをオリバー・クロムウェルによるピューリタン(清教徒)革命といいます。イギリスではその後王政復古したものの、やがてはオランダの王子がイギリス王へと。このいわば無血クーデターで、ウィリアム3世が英国王に就いたのを名誉革命といいます。ピューリタン革命と名誉革命を併せて英国革命ともいいます。

この英国革命によって、英王室、つまり国家に金を貸し付ける世界初の近代中央銀行イングランド銀行の設立へと繋がったのです。英国革命からイングランド銀行の設立、これはその後の世界に対して多大な影響を与える重大な変化です。

この動きは無論イギリス国家とその王室を重大に変化変質をさせます。そして取り上げた『ユダヤ・ロスチャイルド世界冷酷支配年表』文書の内容は、これらの歴史事実が一連の動きであったこと、つまり全てはグルになって仕組まれて起こされており、背後にあってそれを意図し操った存在がいて、それが「ユダヤ人だとしているのです。


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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝5 ― イギリス東インド会社の正体

 アベシの外遊には、決まって大名行列よろしく、大企業の重役クラスがぞろぞろと金魚の糞のようについていきます。外遊先の海外ODAの事業に入り込むためです。もちろんODAの事業から仕事を得た大企業からアベシになんの挨拶も無いというは決してあり得ません。アベシにとって、日本国家は私腹を肥やすための道具に過ぎないのです。
 さて、英国王からの特権を得て植民地奴隷支配による略奪や麻薬ビジネス等で巨利を得てきたイギリス東インド会社の構成ファミリーたち、国家を利用して富を集積してきた彼らの正体とは、一口で言えば「黒い貴族」です。「黒い貴族」に関わる問題は、非常に長期にわたり広範囲なので、いずれ別枠で特集として追っていきたいと思いますが、今回は簡単に触れます。
 彼らは、12世紀にはヴェネチアの黒い貴族として知られており、地中海貿易を独占していたファミリー群です。彼らは金融寡頭権力として莫大な資産と影響力も獲得しており、十字軍の遠征、マルチン・ルターの「宗教改革」、そして「イエズス会」の創設にも深く関わっていた模様です。古代から発生し、中世そして現代へと繋がる歴史を裏で操ってきたのが彼らです。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝5 ― イギリス東インド会社の正体

ヴェネチア・カーニバル

ヴェネチアやジェノヴァの黒い貴族 ~海を取り仕切る者たち


ユースタス・マリンズは『世界権力構造の秘密』でドレイク海賊団マーチャント・アドヴェンチャラーズ商会(セバスティアン・カボット)と変わり、これがのちに東インド特許会社となった。」と指摘しています。

マーチャント・アドベンチャラーズ商会とは、イギリス中世末期から近世にかけてロンドンを中心として毛織物輸出を独占した貿易商人が組織した組合です。ジョン・コールマン博士は次のように記しています。

東インド会社の前身はロンドン毛織物商会、本部はロンドンにあるインド会館だ。東インド会社はエリザベス1世の勅許を受けて設立、この動きにはヴェネチアやジェノヴァの黒い貴族・銀行家ファミリーが関わっている。その中にはアメリカの東部リベラル・エスタブリッシュメントの名家キャボット・ファミリーの祖先、セバスティアン・キャボットの名もある。こうした企業の起源はヴェネチアやジェノヴァのもっとも古い商業集団、レヴァント貿易に携わっていた商人たちにまでさかのぼることができる。」(『新版300人委員会』)

ウィキペディアは「特権会社のはじまり」として次のように記しています。

レヴァント会社の人間が中心となり、航海ごとに資金を出資する形で東インド会社が設立されることとなった。貿易商人の組合に近い性格を持っていたレヴァント会社、モスクワ会社などといったそれまでの制規会社とは異なり、東インド会社は自前の従業員を持つジョイント・ストック・カンパニー(合本会社)として設立された。さらに、エリザベス1世にアジアの貿易に関して、独占を許可する要請を行った。」

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これら三つの記述から明らかになるのは、欧州で海上レヴァント貿易を独占的支配していたヴェネチアやジェノヴァの黒い貴族、その商業集団の組合(レヴァント会社)にドレイク海賊団が合流、ロンドンを中心に毛織物貿易を独占していた彼らの組合が、アジア貿易独占の要請を行い、エリザベス1世の勅許を受けて特権会社イギリス東インド会社が設立されたということです。

「イギリス東インド会社を設立したその構成ファミリーたちとは何者か?」と問い、それを一口で結べば黒い貴族」たちです。キャボット家の祖先セバスティアン・キャボットも「黒い貴族」の一員です。

なお、レヴァント貿易、レヴァント会社の「レヴァント」とは「東方」の意味です。従ってレヴァント貿易、レヴァント会社とは東方貿易、東方貿易独占会社の意味になります。そしてこの東インド会社設立当時の貿易の対象はオスマン帝国です。

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1666年にオスマン領、現在のパレスチナでメシアを宣言した血統ユダヤ人のサバタイ・ツヴィ。情報では、その父親はオスマン帝国在住の富裕貿易商だったのです。サバタイの父親は「黒い貴族」の仲間として「組合」に籍を置いていた可能性は充分あるでしょう。そうでなければ、当時において海外貿易は勤まりません。海上貿易を取り仕切れるのは海賊の親分衆です。海賊組合(ギルド)に籍の無い商船など単に略奪の対象でしかないのですから。海を取り仕切っていたのが「黒い貴族です。

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