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名無し様へ
お返事が遅くなり申しわけございません。
確かにお客様のお立場からすると、疑問に思われる場面もあるかと存じます。一言で言いがたい事情があるのです。講演を継続してお聞き頂くと、きっと「ああそうなのか」と全ての疑問が氷解されることと思います。すべて「善」のために、竹下氏は言うべき事、言わなくてよいことを峻別し、その時々で必要な話をされているのだとご理解いただければ幸いです。
私は竹下氏のお話を全面的に信頼しています。今回の講義「バガヴァッド・ギーター:概略」につきましても、私はその内容をそのまま真実なのだろうと理解しています。
また私が「精神世界は本当にある世界なのだ」と気づいたのは、青山昌秀氏の「真実のサイババ」を読んだ時です。価値観ががらっと変わりました。そしてその後竹下氏と出会い、氏の講話をすんなりと聴くことができました。サイババの本がなかったら、そのようには成らなかったと思います。
カルマ軽減の祈りを行うときのことについてお伺いいたします。
もしよろしければ、すみませんが、教えてください。
注意事項に「トイレなども事前に済ませて中断することのないようにしてください」
という点についてなのですが、
どうしてもトイレに行きたくなったが中断したくないとき、 トイレを動作として淡々と済ませながら祈りの集中は解かず祈り続けてそのまま続行、というのは、 ・・・問題ないでしょうか・・・?・・だめでしょうか・・?
また、ストーブを切る、水を一口飲む、などの簡単な動作を集中をとぎらせずにする、というのも、 同じくどうなのでしょうか?
また、祈っているときの姿勢は、リラックスして座っている等がいいのでしょうか?
たとえば寝転んでいたり、または体が震えてきたり動いてきたのでそのまま動き意識は保ちつつ 唱え続けるなどは・・大丈夫でしょうか・・?
また、祈っているときにガヤトリーマントラが条件付けで聞こえてくるのは中断したほうがよいとのことですが、祈っているとき、今までの自分自身の内面や出来事が思い起こされ、祈ることばと、内面の感情や情景の思い起こしが同時に起こっている、などは、問題ないでしょうか?
最近カルマ軽減の祈りを集中して行っているのですが、
せっかくの祈りを間違って行っては意味がないし、かえって悪いなら、そりゃだめだ、と思い、 祈りの紙にも注意事項など十分書いてくださっているので、細かい点は自己判断で行っていたのですが、
正しく捉えられてるかわからないし、間違ってるなら治したい、祈りをするうえで勘違いがあるならわかりたい、正しく治していきたいと思い質問しました。
又は、今回は質問させていただいたのですが、
そもそも上に書いたような事にしても、ひとつひとつがどうというよりも、ガヤトリー女神に対する敬意、
心からの祈りであるかどうか、また、その人ひとりひとりのこころの位置、状態によって、大丈夫だったり、
そうでなかったりする、というところで捉え、自分を引き受けるしかなく、質問しても意味ないでしょうか?
そういう意味で、それぞれの自己判断がどうでるかも含めて、続けていくしかないといえるのでしょうか?
もしよろしければわかる必要のある点について教えて頂けますでしょうか?
よろしくお願いします。
.
どんなに噛み砕いて言葉で説明していただいても真から分かった様な気がしない難解な部分ですが、
例えをイラストで示し、面白いくらいに納得できる回になっています。
『あっぱれ!』としか言いようがありません。。
面白いです。。見事な解説ですっ。。
ナイノア・カーツ 様
ご質問の件、竹下氏より回答をいただきました。
今後共宜しくお願いを申し上げます。(シャンティ・フーラ)
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とてもよくわかります。心の浄化の必要性を説いて、その具体的なメソッドを示さなければ、多くの者たちは、特に自分が解脱者であるとか、悟りを得た聖者であると信じている者には、心の浄化の必要性を感ずることはないでしょう。実際に非常に多くの自称・聖者が最後まで心の浄化に取り組むことなく、滅びてゆきました。教育プログラムは人間だけではなく、神々や天使たちに対しても、またすべてのシステムの神に対しても教えられているのです。教育プログラムに示されている方法論に従えば、自身の心の浄化の度合いが、客観的に理解出来ます。
そして、その必要性も理解出来るのです。しかし、どのような方法論、救済論も、それを用いる者の心のあり方で、逆に作用しかねません。教育プログラムで、徳目を上げたので、自分は高い役職につけるはずだとか、自分は努力が足りないから滅ぼされるのではないかという新たな恐怖を生むという具合にです。このようにあらゆる教え、救済論には科学と同様の二面性を持ちます。
カルマの負債を少しでも減らすために、 “カルマ軽減の祈り” を教えれば、それを誤って使い、さらに負のカルマを積むものが出てきます。
教えとは、そのようなものなのです。それは、真実の半分しか包めない言葉によるものだからです。あらゆる人に正しく作用し、善のみしか生み出さない教えは、言葉を用いて語られる以上存在しません。
これが言葉の限界なのです。私の言葉を正しく受け止める人たちは、言葉と哲学、あるいは論理の整合性を信じている、あるいは理解しているのではありません。ただ愛が真理であることを体現しているか、または信じて疑わないのです。
私にとって、そのような人たちだけが親友、あるいはガールフレンドと呼ぶ人たちなのです。
こうした言葉を越えた事柄は、詩や音楽、そしてダンスの方が、より深く、多くの人々に伝えられるのかも知れません。タゴールの詩、ヤン・リーピンの舞踊などは、私と同じことを伝えようとしていると思うのです。しかし、どのような表現も、それを受け入れる感受性を、我欲によって閉ざしている人たちには、まったく通じないのです。
(竹下 雅敏)
「よいとも悪いとも評価をせず自分の心のありのままを深く見つめなさい、と言われて終わりかな」などとも思いながら、また、こんなこと伺っていいんだろうかと震えながら、何年も前から悩んでおりました点について質問させていただきます。
私の場合、竹下先生のおっしゃる徳目の向上その他の心の浄化のお話が、仮の道徳・社会規範と同レベルで自分に受け止められてしまい、心に窮屈な枠を自分ではめてしまっているような感覚があります。
竹下先生は、心の浄化を「こういう心をもつと幸せになれる」という文脈で用いられることがあり、こういう力の抜ける前向きな努力の指針として徳目ほかを使えばよかったのかもしれません。しかし、「こうあるべきだ」「こうでなければならない」と自分を縛るような姿勢で心の「浄化」に取り組むと、表面の心で本心とは違った自分(「よい子」)を作って演じ(自分に不正直。本当の自分のネガティブな部分は解決していない。)、怖れや罪悪感、完璧主義といったネガティブな姿勢に縛られ、「奇麗な心」に反する行動や思いがある自分にも他者にも厳しくなり(不寛容、暴力的)……と、心の浄化にも実際にはあまり効果がない、しばしば逆効果でした。
心の浄化の必要性の話が、「ここまで徳目がないと裁かれる」「ここまで徳目があると進化段階が上がる」という文脈で語られた時期があり、その時「こんなことを考えるとせっかくマントラで上げた徳目が元に戻ってしまう」「これをするとこのくらいのカルマを積んでしまう」と余裕のない態度で(私の場合しばしば恐怖に怯えながら)「心の浄化」に取り組んだため、このようになってしまったという経緯もあると思います。また、私の場合、アスペルガー症候群、それもかなり強度のものという精神障害がある関係で、自分の頭で勝手に作った世界に強く囚われる(世界との分離の感覚がかなり強固である)上、とても怖れに落ちやすいという特殊事情もあるでしょう。
ただ、かつて竹下先生とN氏が決別された際、N氏と行動をともにされた方がブログでこれに通じることをおっしゃっていたようにも記憶しており、同じ葛藤を持たれた方は他にもいらっしゃるのではと思います。
エーテル体意識にも達せず肉体意識レベルで生きている人間が、心の浄化をしようとして、外から心に枠をはめて自分を縛ってしまうという陥穽に陥らないためにどう気をつけたらよいか、教えていただけますでしょうか。
ふと思い立って、このマーフィーシリーズを再視聴したのですが、
最近疑問に思ってたことの答えがいくつかあって驚きました。
ありがとうございました。
難解な文章であればあるだけ、そこに深淵な真理が隠れているんだと思っていました。
竹下さんのコメントは、今までの宗教に対する幻想を一瞬で壊したばかりでなく、真実というものがどういう風に自分の深い所に届き、光を灯すのかを身を以て知る事ができました。
大切なものを犠牲にして、一生懸命違うものに向かっていらっしゃる方々にも、どうかこの真理が届きますようにと思いました。
ゆうさま、貴重な質問をしていただいたことに感謝します。
竹下さん、ありがとうございました。
竹下先生、ご回答いただき感謝いたします。
このような的確で真理を語っておられる文章は今まで見たことがありません。
私は愚かでした。
病的な哲学者達の哲学や物語は頭に叩き込むように何度も読まなければ
理解できず、理解するよりは覚えるという形でした。
ですが竹下先生の言葉は違和感無くスゥーと入ってきます。
そしてその先を考える想像力を与えてくれます。
どうもありがとうございます。
正しい物の考え方、洞察が出来るように日々を誠実に生き、良心を大切にして
いこうと思えました。
↑
コメントが凄すぎて、叫んでしまいました!!
何を叫んだかは忘れましたw
こういことをすべて踏まえた上で語られる言葉は、どれだけの深さと真実を宿していることでしょう!
ゆう 様
ご質問の件、竹下氏より回答をいただきました。
今後共宜しくお願いを申し上げます。(シャンティ・フーラ)
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これまで人類を導き、宗教を作ってきた者たちのほとんどは、人格的障害者と言ってよいような者ばかりでした。人々は彼らの肉体的・表面的なレベルの見せ掛けの徳の高さにだまされ、誤った教えについて疑問をもつことがなかったのです。これらの輩は、過去に犯した多くの過ちによって、幽体もしくは原因体がすでに人間の形を取れなくなってしまった者たちも多かったのです。この者たちの中には苦行・瞑想の努力によって、解脱に至る者まであらわれましたが、心を浄化することはなく、三昧(サマディー)からもどると、カルマ(業)で汚れた幽体・原因体による苦から逃れることは出来なかったのです。
すなわち身体意識を離れた三昧(サマディー)でだけ、苦から逃れることが出来たのです。それは、彼らが心を浄化することを怠り、瞑想により、解脱のみを求めたことと無縁ではありません。解脱は、肉体への生まれかわりからの離脱を可能にしますが、心を清めないかぎり苦から逃れる術はありません。ところが愚かにも、この者たちは解脱を得た者は完全に清らかであり、もはやいかなる罪も解脱者には影を落とすことすら有り得ないという信じがたい妄想に取り付かれたのです。要するに解脱者は、神をも越える完全な者であり、何をしても実は何もしていないのと同様で、いかなる罪悪も解脱者には無縁であると本気で思うほど愚かでした。この愚かさが、さらなるカルマを彼らが生み出す元となり、現実に身体がすべて滅び去る、いわゆる彼らの目標とする究極の解脱こそが、真の意味で救いとなってしまったのです。
彼らは、身体を不浄とし、自己(アートマン)のみを真実としたために、かえって身体、そして心を浄化することを軽んじてしまったのです。心の浄化を軽んじ、解脱のみが目標となれば、性欲は大敵となります。実に性を正しく導くことこそが、心を浄化するただひとつの方法であるにもかかわらずです。
これらの愚か者たちは宗教を創始し、人々に性が罪悪であることを植え付けました。彼ら自身が性を否定することで自らの心の浄化を否定したのみならず、人類にいわば暗黙に強制したのです。性を否定すれば野心が育ちます。
彼らの全員が、暴力的で権力欲の塊のような者たちであったのは、このためです。
宗教は地球をメチャメチャにしてしまいました。宗教で教えることは性の否定・禁欲であるか、または神殿での売春かのいずれかになってしまいました。神殿売春を神聖なことであると教える悪霊か、完全な禁欲が人生の究極の目標に不可欠であると教えるハイアラーキーかのいずれかを人類は選ばなければならなくなってしまったのです。そしてこのどちらもが誤りなのです。真の幸福は性の成熟と不可分に結びついています。夫婦の愛こそが、すべての愛の基本なのです。宗教は真理を、くだらない神話と教義で覆い隠してしまいました。
(竹下 雅敏)
竹下先生は、西洋哲学は「すべての物事は知られ、かつ言語表現できる」という立場だと説明し、前期ウィトゲンシュタイン哲学を例に挙げています。一般に西洋哲学に上記の傾向があるのは確かですが、ここでウィトゲンシュタインを引き合いに出すのは不適切です。前期ウィトゲンシュタイン哲学は、「語り得るもの」の領域を確定することで、その外側に「語り得ぬもの」の領域を確保しようとしたのであり、「語り得ぬもの」の存在を否定したのではありません(カントが『純粋理性批判』において理論理性の限界を定めることで、信仰の余地を残そうとしたのと似ている)。ウィトゲンシュタインによると、自我(das Ich)は「語り得ぬもの」であり、この点で、むしろインド哲学史の主流に近い立場なのです。ただ、竹下先生の立場では、ウィトゲンシュタインの言う自我とインド哲学における自己(プルシャ)は別ということになるかもしれません。
完全に無の中に消えてしまうのです。一部の者は、これを完全な意味での涅槃と呼んで目標にしていたのですから、その望みが適い、もはや苦しむことのない、存在からの完全消滅を確かに実現したことになります。
↑
これを読んでなのですが
確かに目標にしていました。
個としての私が消え、まるで私の中の細胞のひとかけらのように
大いなる存在のひとかけらとして
自我を持たず、意識だけの存在として一部になれる事を望んでいました。
そのために喜怒哀楽を抑えそして私を消す努力を行ってきました。
実際には大いなる存在と1つになることはなく私だけが完全消滅すると考えてよいのでしょうか?
間違っている考えに囚われている私に出来れば厳しいお言葉を望みます。
ご回答いただき、ありがとうございました。
多くの人はほとんど肉体意識のみで生きているので、魂がなくてもあまり支障がないということで理解いたしました。逆に本当にクリエイティブな発想はできそうにないことも分かりました。
疑問は尽きませんが、あまり考えすぎても暗くなるだけなので、この辺にしておこうと思います。
どうもありがとうございました。
良いケースは、非常に稀なのですね。
竹下先生、早速お教えくださって、本当に有難うございました。
aimi 様
ご質問の件、竹下氏より回答をいただきました。
今後共宜しくお願いを申し上げます。(シャンティ・フーラ)
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良い例は知りません。
私が知っている例では、福岡に住む女性とある作詞家の男性が、霊的な結婚をしたケースがあります。私が二人の間に入り、女性に男性の想いを伝え、その後結ばれたようです。
このケースは、男性の作詞家が天界の私の生徒であったため、このように私が女性に何が起こっているかを伝えることが出来た珍しいケースです。ただ作詞家の男性の方は、肉体の意識レベルでは、自分に何が起こっているかは、わからないでしょう。
二人とも死後にすべてを了解するだろうと思います。
この二人のケースは非常に稀なもので、通常は講義で述べたように、不倫か、あるいは強姦に至るケースがほとんどで、現在はこのような輩はすでに魂はありません。
(竹下 雅敏)
この講座の中で、肉体を持った人間同士のカップルが数例挙げられていますが、
それ以外で以下の例が存在するか質問させていただきます。
男女とも肉体を持った人間ですが、お互いに知り合いでない、もしくは一方だけが知っている場合で、内側の魂同士が惹かれあって結婚し、夫婦愛を高めているという良い例はあるでしょうか?
ご回答をいただければ、大変有難いです。
kinoP 様
ご質問の件、竹下氏より回答をいただきました。
今後共宜しくお願いを申し上げます。(シャンティ・フーラ)
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魂の残っている人は、死後の生があります。死は人生の終わりではありません。しかし魂が消えている人は、死後、文字通り、土に帰ってしまいます。何も残りません。
完全に無の中に消えてしまうのです。一部の者は、これを完全な意味での涅槃と呼んで目標にしていたのですから、その望みが適い、もはや苦しむことのない、存在からの完全消滅を確かに実現したことになります。
しかし、肉体の人生としては、魂のあるなしは、多くの人々にとって、あまり大きな違いをもたらさないでしょう。なぜなら地球上のほとんどの人々は、魂などまったく関係のない生き方をしているのですから。よい環境の下で育てれば、善良な良い子に育つでしょう。内側に悪をなす幽体・原因体がないのですから。
(竹下 雅敏)
魂消滅うんぬんの問題は悲しくなるので考えないようにしていたのですが、aimi様のコメント&竹下さんの解答に関して、思想が混乱シソウなので、質問させてください。
aimi様の「親側は親子愛を高める努力をして育てていけばいいのだろうな」という解釈には全くの同意見でしたが、未だに魂がない子供が生まれているというのはどのように解釈すればよろしいのでしょうか?
生まれてから魂を無くしたのでしょうか?それとも魂が入らなくても肉体だけで人間として機能(存在)できるということなのでしょうか?(クローン人間のように。クローンに魂があるかないかは知りませんが。)
後者だとすると、魂ありの肉体(つまりこれまでの定義でいう一般の人間)における魂の役割ってなんなのでしょうか?
そもそもロボット人間といっても赤ちゃんの場合、過去の記憶もないわけなので、教えたことだけしか出来ないということになるのでしょうか?
全く応用の利かない人になりそうですが(実際そういう特性の病気もありますが)。自律学習型の超高性能ロボットってことになるのでしょうか?
彼ら・彼女らの存在意義ってなんなのでしょうか?
質問ばかりで申し訳ありません。あまりにも分からなすぎて。
可能な範囲で竹下さんの見解をお聞かせいただければ幸いです。
マイトレーヤ関係の本の中ではサイババはアバターとして扱われているようですが、今回のこの講座の内容は、ネタバレになるので細かいことは言いませんが、サイババの言ってるギーターとまったく違います。
そもそも竹下氏のサイババの位置づけは?
村岡氏はサイババが自分のベースになっているとおっしゃっていますが、この内容をどう消化したのですか?
竹下先生、早速詳しいご説明をいただき、本当に有難うございます!
仲介してくださったシャンティ・フーラ様にも心より感謝いたします。
ご回答を何度も読み返し、親の魂のある・なし、産まれてくる子どもの魂のある・なしにかかわらず、(魂がない場合は今生限りではありますが)、親側は親子愛を高める努力をして育てていけばいいのだろうな、と解釈いたしました。
aimi 様
ご質問の件、竹下氏より回答をいただきました。
今後共宜しくお願いを申し上げます。(シャンティ・フーラ)
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現在も魂がない子供が産まれてきているようです。
これらの子供が、どのような両親から産まれてくるのかはそれぞれで、
両親の魂がすでになくとも、子供の魂があるか否かはなんとも言えないのです。
魂のあるなしは、人間としては外見的にまったく差はなく、問題もないようなのですが、見る人が見れば、ただちにわかります。
魂のない人は、この肉体の一生ですべてです。
死後の生がありません。ですが現代人のほぼすべての人々が、唯物論でそう考えているのですから、まさにその通りのことが起こっているのです。
神々の目からみて このような人々は、とても良く出来たロボットのような存在です。残念なことですが、今となっては動物・植物・鉱物の方が魂があるので、上位の存在となります。
(竹下 雅敏)
子どもを欲しがっている知人がいるので質問させていただきます。
もしご回答をいただけるのなら嬉しいです。
2011年5月30日の結審で、地球上の人間の1000人中999人が、中身が空っぽな空気人形になっているとのことで、せれなさんの2011年6月6日のビジョンの解説では、この日時点で妊娠中の空気人形の胎児達のことが説明されていました。
現在2013年で、ビジョンの胎児達は既に出産を終えていると思いますが、今後、魂をなくしてしまった空気人形の女性が妊娠・出産した場合、産まれる子どもも空気人形なんでしょうか?それとも今後は魂のある子どもしか産まれないのでしょうか?もしくは、魂のある子どもは、魂のある女性にしか宿らないのでしょうか?
三部の教えによると、ロゴスは一番力の強いアルコーンを造物神として任命したとのこと。権力主義の政治と同じだと思いました。

