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とても面白かったです。
恐るべし、ハルマゲドン思想。
もう一回、見ます !!
内側の私や過去生の私が何をしてきたか知らないから怖いと思っていました。カルマ軽減の祈りは失敗したらと思うとできませんでした。ですが3.11はとてもショックで私の中にある負が少しでも原因になっていたらとそのとき必至にカルマ軽減の祈りをしました。今さらですが再受講して自分の6つの身体のカルマを知ってみようと調べました。そんなに悪いことはしていない様でよかった。私が知らない私を少し知ることができました。それから2005年元旦で1つの身体ですが調べてみたら位置が変わっていました。気がつかないうちにたくさん助けられているのですね。
お金や名声のために踊ると美にならないとのこと。野心のために何かをするくらいなら、何もしない方がいいです。
竹下先生の講義は具体的で理解しやすく頭がクリアーになります。ありがとうございます。(正座)
言葉のちゃんとした明確な理解は本当に大切なのだと思い知らされました。
わたしは神である。
高位の神々に祈る。などなど、、、
という関係性がよくわからなかったのですが、それは、ジュナーナとバクティの神に対する意味の違いだったのですね。
自己、観照者、真の自己、、、在るとしての三位一体の表現に感動してしまいました。
サーンキヤ哲学、シャンカラの哲学、仏教の思想のいったいどこが違っているのかが、よく理解できました。
仏教は世俗には真なり〜仏教が俗っぽいイメージがあるのは、自己と自性を説かない思想だからなのかな、、、それから、言葉の定義を明確にしなければ理解も変な方向へ行きかねないということで、、、皆、愚にもつかない議論をして悦に入ってしまっているのかなと思ったりしました。
同質もフラクタルで考えると深いです。
自己(プルシャ、またはアートマンとか)って、なんなのかな、証明不可能、誰なのか(自己なのに)言ってはならないし言えない?宇宙に遍満してある自己?ただそれは在ってくれなくては、、、と思いました。
結婚できないから兄のように愛してほしい、という相手の思いを受け止め、ありのままの相手を受け入れたから、ミーラー・バーイーの愛の相は上がったのですね。
自己と自性の関係が面白かったです。
仏教が自己という普遍の常在が無いというのは知りませんでした。
全ては幻想だとはよく聞きますが、竹下先生の解説が面白くて笑ってしまいました。
実際、幻想でありながらも日常があるわけで、そこのところをどう納得して生きていくかが大切でありながらも幻想だから善行も自業自得も無いとしたら、変な感じです。
ワンネスを説くスピ系の人たちの安易さを考えてしまいました。
最後の10分間は脳天直撃の重さがありました。その行為が愛を育むかどうかなんですね。
再視聴です。宗教嫌いの妻には、この回から見せるのがいいかもと気付きました。妻子供を心から愛して、何より優先して子育てするのは、どんな宗教や宗教教義よりも世の中の平和に貢献するといったニュアンスのお話しがあったからです。たぶん妻は、竹下さんのことを宗教家と勘違いしてると思うので…。ちなみに私は竹下さんのことを、人類がかつて遭遇したことのないぐらい凄い人でかつ優しい人と思います。優先順位のお話は、実際問題仕事より家族を優先するのは、責任もあり人としてどうか、とか逆に良心的に職場の人に悪いとか思ってしまいがちですが、やはり正直にぶっちゃけた判断をしないと悪習は治らないと思いました。この辺りが陰謀論や霊的世界との絡みになると理解してます。やっと人類は優しい神様とのご縁が出来たのかも知れません。
言葉の概念といいましょうま、明確さは大切なのだな。と思わされました。最近、非二元がブームなのです、「わたしはいない」は、結局は自性から流出している わたし なので、「わたしはいない」になるのでしょうか?
「わたしは在る」なら、自己(プルシャ)からなので、有が無を生むことになる。
確定したわたしがもういる!はじめから在る。そこから光が出て自性というレンズを通して心に焼き付けてこの世が映し出されている。で、いいのでしょうか。
「わたしはいない」となると虚無になってしまい、この世の意味さえなくなってしまいます。
わたしはいて、スクリーンを観ている存在だと思っていいのでしょうか?