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品格について質問があります。愛と野心は「根源的動機」、徳目は「行為、言葉、思考の傾向」と説明できると私は考えます。また、品格、愛・野心、徳目の関係はヴァータ、ピッタ、カファの関係に似ていて、品格は愛・野心と徳目の両方の性質を持つと考えています。
1.品格も動機だが(例:嫉妬・復讐心に駆られる)、「根源的動機」ではない。嫉妬や復讐心は所有欲、名誉欲、権力欲などに基づく場合があるからである。この理解は正しいですか?
2.品格が動機の場合、品格のどの要素も動機になり得ますか?
3.品格が動機の場合、愛や野心に基づかずに、単独で動機になる場合もありますか?
4.品格は「行為、言葉、思考の傾向」の側面もあるように見えますが(例:忍耐、貞操、寛容、頑迷)、徳目のように6種類の波動に分かれていないので、「行為、言葉、思考の傾向」ではないとも考えられます。事実はどうですか?
5.品格に「行為、言葉、思考の傾向」の側面がある場合、品格の全要素にこの側面がありますか?
6.品格に動機、「行為、言葉、思考の傾向」、対応する身体以外の性質・特徴はありますか?
2014年からガヤトリーマントラを唱えさせていただいています。
現在29歳なのですが高校生に間違えられるなど、効果が出てきているかな、と感じております。
いろいろと質問させていただきます。
ガヤトリーマントラを唱えるときは、じっと座って唱えるより、家事をしたり動きながら唱える方が唱えやすく感じますが、それによって、祈りが通用しなくなるなどということはありますでしょうか?
もしくは、自分なりに祈りに集中できれば、何をしながら唱えても良いのでしょうか?
また、除霊と浄化の祈りを心の中で唱えているときに家族に話しかけられて
「はい」とかと返事をしたら、祈りの文言を読み間違えたことになりますでしょうか?
現在、そのような場合は念の為少し前から言い直しています。
また、サイババさんのCDに合わせると3マラ唱えるのに約1時間半かかりますが、
竹下氏は、3マラ唱えるのに何分かかりますか?
よろしくお願いいたします。
こうした霊的世界から見た結婚、セックスのお話はここでしか情報源がなく、興味深く拝見しました。うーん・・・結婚・相性のレベルも限りないんですね・・・。化けて出てくる存在の話は、実体を知ると身の毛がよだつような思いがしました。
宗教の目指すレベルのお話では、小乗仏教と密教とでこんなにも違うのかと驚きました。
気づきを、教え、伝えることの難しさを感じた日々は、大変貴重な体験でした。言葉ではとても表現できなくて、言えば誤解が同時に発生する事を危惧した日々を、思い出しました。
「確かに眠れない、このアベマリア」
この講座を見てすぐに、他の講演を聞く事になりました。音楽でなくて講話なのですが、胸に響くんです。声が。私だけではなかったようで、一緒に行った方も、
「胸に届いたわ、声が、」
講話の内容も驚きがありましたが、何より声の音色に、胸をうたれまして。いつもの事ながら、映像配信で開発されていく感覚を、直ぐに他の所で確かめられる、このタイミング。もうたまりません。
波動の件で思い出したのですが歴史上の人物でも権力を手にしてから人間的な魅力が激減した人って大多数ですね。
色々伝記を思い出しても大多数の成功者のはずの人が実際は…
これもこちらのプログラムで納得できました。
3回くらい視た段階での感想ですけれど…
昔から対人関係には色々思うことがありましたが多くの人たちと共通していると思われる悩みだったので「世の中こんなものだ」と自分自身に言い聞かせておりましたが心から納得できないまま葛藤しておりました。
ex:関わりたくないと思う人に限って長時間話したり一緒にいる時間が長い
こちらから離れていこうとしたら
「次の行先に送ってあげる」
何とか話を打ち切ろうとしても「そのことを詳しく聞きたい」とか腐れ縁になってしまうのです。
話すことないなどはっきり言う気もないし自然に離れていくことはないか、そもそもシャンティフーラさんに入会したのも対人関係についてのことも大きな理由だったのでこれも他の動画同様何回も視聴したいと思います。
また普段から似た者同士が集まるというのもこの動画で納得しました。
色々な曲がドーシャ、ジャンル、指揮者、歌手などのメタデータと共にハードディスクに保存されていて、聴く目的(休息、昼寝、子守、家事、食事、勉強など)や好みを入力すれば、目的や好みに合った曲が自動的に選曲・再生されると便利です。
ただ目の前にある事を何の執着も持たず見たり、行ったりする事で自然に感性が磨かれ魂が磨かれる。そこに人生の目的みたいなものがあるのかな?と思いました。より精妙な微細な感性を持つと生きていくのが辛くなりそう気がするけど、鈍感な感性を徐々に取り戻していきたいと思います。ブリヂストン美術館5/17以降、数年間改築工事で休館になるようです。ポール・セザンヌの「サント・ヴィクトワール山とシャトー・ノワール」ゴールデンウィークに妻と観に行こうかと思います(^O^)。
次も楽しみにしておりますが、その前により理解するためにあと何回か視聴して進もうと思います。
久しぶりに映像配信を観ました。感動の一言です!
意識は思考ではなかったのですね、ありのままにみるということがよーーーく理解できました。
ただ観るということはすごいことだったのですね。そして、瞑想するとはそういうことだったのですね、思考が落ちて行く、そして、いいアイデアが生まれる、一流というのはそういうことだったのですね。
瞑想を習おうかな〜と思っていたのですが、ただ観て絵を描くだけでも瞑想、セザンヌの「サント=ヴィクトワール山」の作品をこの間、神戸で開催されているチューリッヒ美術館展で観ました。
目の前に立っていると包まれるように瞑想状態になれるのは、彼が神の山として山を描いていたからだと知って再び感動してしまいました。YouTubeでフォンホ・ドミンゲスの演奏も聞きまして素晴らしかったです。
調和されている曲,不調和な曲は私でもはっきり違いがわかりました。気のレベルで全く無頓着に生きてきても,なんとなくいやだなとかなんか気持ちがいいなとか,体ではわかってたことがあるんだなと思いました。もっと自分のからだ、感覚に耳を澄まし正しく感知できるようになりたいと思いました。