【第25回 両親と私】 hiropanのAfter 3.11 ~震災後に見えてきたこと~

親と子の自立

島で暮らす家と仕事(アルバイト)が決まった時点で、私は福島の父と母に電話を入れました。実のところ「移住先を探しに行く」などということは、明確に伝えないまま、家を出てきた私。もしも「移住先を探しに行く」と言っていたら、どのような反対や忠告(生きていくことはそんなに簡単ではない、といったようなニュアンスの言葉)を浴びるかは、大体想像がつきました。
きちんと話せば解ってくれない両親ではないのですが、その時の私は、行動を起こそうとする前に、できるだけ、ネガティブ(現実的)な言葉は聞きたくなかったし、言葉で説明するよりも、具体的に動いて行動で示したほうが早いと思っていました。(実際それはその通りでした。)
そのため、両親にとって、私の行動は時に突拍子がなく、自由きままで、理解し難いもののように写っていたようです。

私は両親にとって、やっと授かった”大切な”一人娘。
父は、「子供の人生は子供のものだから、店を継ぐ必要はない。」と昔から言っていましたが、それでも私は無意識的に、ある種の「責任感」や親の無言の「期待」を感じていたし、いつかは「帰ってくること」を当然のことのように感じていました。今にして思えば、父と母が、私に対して“良かれと思って”忠告していた(それを言っている本人すらも気がつかない)言葉の根底には、一人娘を手元に置いておきたいという、親としての根強い願望があったのではないかと思います。
そういったことを直感的に察知していたこともあって、私は、「ちょっと(勉強のために)旅に行って来る。」とだけ告げて家を出ました。

両親にしてみれば、遠くで一人フラフラしている、勝手気ままな娘から、ある日突然電話が鳴ったと思ったら「いい家見つけたから!こっちに住むね~!もう決めちゃったから~!」と、一方的に告げられた時の複雑な心境、驚きは、いかばかりだったろうかと想像します。

両親と私 挿絵2

放射能の危険性、原発事故に関するシビアな情報は、両親とも、ある程度共有してきましたが、それに対する“共感”は、たとえ家族といえど、難しいものがありました。

両親にとって、福島で20年かけて築き上げたこの店は、彼らの誇りであり、彼ら自身であり、宝です。多くの人に愛され、必要とされる店。父と母にとっては、この場所で、必死に働いて建てたこの店と、店を介して築いてきたお客さん達との関係性が全てでした。

例え放射能に汚染されていようが、この家や、ここでの生活を捨ててまで、移住したい場所などは、父と母にはなかったのです。それらを捨てて移住するなどということは、父と母にとっては、考えるのも苦痛なことのようでした。

それでも、フクシマの不確かな状況と、娘の健康を思えば、どうしようもないことだと理解したのか、父は、私が広島に行くことを「仕方がないだろう。」といって許してくれました。私は「一緒に広島に移住して暮らそうよ。」と、提案してもみましたが、父は「俺には磐梯山があるから、ここに骨を埋めるんだ。」と言って、お酒を片手に、一人寂しそうに椅子に座り、山を見つめて、黙りこんでしまうのでした。

母はというと、娘の気まぐれには付き合っておれないといった様子で、「どうぞご勝手に!」と、機嫌を損ねてしまいました。

それでも、わたしの決心はもう、揺らぐことはありませんでした。

さよなら磐梯山のコピー

父と母の人生は、父と母が決めるべきもの。私自身の人生もまた、私自身が選んで、責任をもって生きるべきもの。今までは進学も就職も隣県だった分、割といつでも会える気楽さがありましたが、福島と広島とでは、もう、そう簡単に会える距離ではありません。両親は、娘が自分の目の全く届かない、想像を超えた場所、まさか瀬戸内海の離島に移住先を探してきて、一人で移り住むなどということは、考えもしていなかったようです。

私が、一度自分で決めてしまえば、人の言うことなど、聞こうはずがないことを、母は一番よく知っていました。複雑な気持ちを抱えながらも、最後には、荷物をまとめ、旅立とうとする私をいろいろと助けてくれました。
私のことを応援しつつ、送り出してくれた二人には、本当に、感謝しています。

こちらに移住して2年半、両親はもう既に5回も、島へ遊びに来てくれました。
もともと旅が好きだった両親は、広島の娘の元を年2回訪れる(と決めている)旅行を、とても楽しみにしているようです。そのために店を1週間も休むなどということは、かつての両親なら考えられないことでした。またそれは、ずっと働き詰めだった両親にとって、とても良いことだと思っています。

両親とは、遠く離れて暮らすことになってしまったけれど、これはこれで、良かったなと思うのです。以前は、父と母から見ると、私は、「余計な仕事を増やすばかりで、言うことをきかない、自分勝手な娘」でした。しかし、広島に来てからというもの、両親は、私をこんな風に”評価”するようになりました。

父「(こんな何もないところで)よく一人でやっている。頑張ってるな。大したもんだ。」

母「テレビもなくて、こんな静かなところに一人でいてよく寂しくないね。それにしてもこの収入でよく食べていけるわ…。考えらんない…。でも随分楽しそうにやってるじゃない。」

と、私のことを随分見直したようです!(私としては、「ようやく分かってくれたか!」という思い!)私自身、これまで両親に対しては、ことあるごとに反発ばかりしてきました。しかし、ここに来てようやく、両親に対して感謝の気持を素直に感じ、表すことができるようになってきました。精神的自立という意味合いにおいては、思い切って離れたことは、お互いにとって、とても良かったことだと感じています。

Writer

hiropan

佐々木ひろこ(hiropan)

1988年、埼玉県川口市生まれ。福島県会津地方北部の自然豊かな裏磐梯(北塩原村)に育つ。2010年、東北芸術工科大学デザイン工学部プロダクトデザイン学科卒。

2011年、東日本大震災、原発事故を機に、社会の在り方と自分の生き方の方向性を見つめ直し、転換する。2012年、福島から一人旅で たまたまふらりと訪れた広島県の離島、大崎上島へ移住を決断。
現在、小さな畑で野菜や柑橘を育て、ニホンミツバチを飼いつつ、絵や文章を書きながらスロウに暮らす。

http://utsukushimaai.blog.fc2.com/ 「しましま」

3件のコメント

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  1. あきしょう on

    本当に。。。親としての気持ち,子どもとしての気持ち,それぞれの気持ちが分かり感きわまりました。お父さんの背中,何とも…言葉では表現できませんね。私も笑って子供の自立を見送れるよう私自身も自立して子離れしたいな。そう思うと今とても貴重で何にもかえがたい大切な時間ということを教えていただきました。

  2. いい親子関係を築けているようでよかったですね(*^_^*)
    親元を離れて20年以上経ちましたが、いまだに会う時は
    あの手この手で家に帰ってきてもらおうとアプローチする母ですが
    結局はいつも離れて暮らす私を応援してくれています。
    親は親で、本心と自立の狭間で葛藤しているのかな~
    でも、最後には私の言い分を立ててくれるところが
    エライなぁと感謝するこの頃です♪

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