東北を襲った地震と津波
私の実家は、原発から80km離れた福島県の北塩原村というところにあります。震災の時、私は山形市内に住んでいました。2011年3月11日当日、山形市でも震度5強の強い揺れを観測。数日前から何度か大きめの余震があり、「宮城沖、そろそろ危ないのかな。」と、つぶやいていた矢先の出来事でした。それまで通り、すぐに収まるだろうと様子を見ていたのですが、揺れは収まるどころか、より大きく激しく、何度もやってきました。これはただ事ではないと、同僚とあわてて外に飛び出しました。雪のちらつく、曇天のとても寒い日でした。あたりはすべて停電。ケータイのワンセグテレビを開くと、濁流に飲み込まれていく町の映像が目に飛び込んできました。はっきりとした状況も飲み込めないまま、ただただショックをうけ、宮城に住む友人たちの安否を心配しました。
そのときは、まさか福島の原発がこんなことになるとは、想像もしていませんでした。
小学生の頃、ある日の理科の授業で、担当の先生が、教科書に載った地図を指差しながら言ったことが、強く印象に残っていました。
「原発は、新潟(柏崎)と、いわきにあっから、
北塩原村はちょうどその真ん中だから、
どっちかが爆発してもここはおしまいだ。」
大柄で、豪快な感じの男の先生で、半分はいつも通りの冗談だったのだと思うのですが(恐らく7種体癖)、私は、そのとき初めて、原発の存在感として、生々しく、とても嫌なものを感じていたのを覚えています。
その十数年後、あの理科の先生が言ったことは現実のものとなりました。
ただ、その現実は私が考えていたものとは少し違っていました。あの先生は、「ここには人が住めなくなる。」という印象を私たちに与えましたが、実際は、ほとんど何も変わらずに人が住み続けています。原発から80キロ離れた私たちの地域は、より原発に近い地域の状況と比較され、”ほとんど安全の確保された場所”という印象を人々に与えます。しかし、実際にはホットスポットはそこら中に存在し、”何事もなかったかのように”とは、とても暮らしていける状況ではないはずなのです。
事故直後、地元の湖や川に住む魚からは700ベクレルを超える放射性物質が検出され、山の山菜も、基準値を超えて採取が規制されました。確実に私たちの村は放射能に汚染されています。山一つ隔てた福島市や、郡山市に比べれば、汚染状況は確かに軽いかもしれない。しかし、たったそれだけのことで多くの人が油断してほとんど何の対策も講じないことに、強い危機感を覚えました。
2件のコメント
【シャンティ・フーラからの注意】
コメント欄への投稿は、シャンティ・フーラのスタッフが承認したものだけが掲載されておりますが、掲載・非掲載の判断は、投稿された情報の信頼性・妥当性をもとに行っているものではありません。
今日はトップの画像から、
大変な”あの日”の出来事のことなんだと、身が引き締まる思いがしました。
そして、びっくりしたことが1つ。
hiropanさんの所は原発から80キロ?
わたしが住むここ四万十町から伊方原発までは60キロなのです。
もちろん、伊方原発に何かあったら、ここを離れる覚悟はしていました。
だけど、その認識がいかに甘かったか。
やっぱり、私の中には「県境」という意識が存在していました。
そうやって、どこか安心していたいという慢心に気づきました。
被災された方、被災を免れた人。
hiropanさんの声は私たちを1つにしてくれます。
大切なことだから、一文字一文字、大変な思いをされながら、
書いて下さっているのだと思います。
今回も、ありがとう。
また次回も聴かせて下さい。
震災当日、家や田んぼがみるみる津波に呑み込まれていく様をテレビで見ていて
「早く逃げて!」と叫びながら、でも自分の無力さを感じていたのを思い出しました。
ここ西日本もいくらか放射能は飛んできて汚染しているとはいうものの
やはり現地地域の汚染の凄まじさ、恐怖感というのは想像を絶するものがあると思います。
私がもし福島に住んでいたら、当時、真実にちゃんと目を向けられていただろうか?
または、安全と思いたい思考に支配されていたかもしれない・・・
その瞬間を、様々な不安と恐怖の中で生きてこられた方の生の声は
今一度、私達の心深くに問いかけるものがあると思います。
今回の記事も、とてもよかったです。
ありがとうございます。