小さな一歩
福島に暮らしていた間、私はずっと、不安と葛藤の中をさまよっていました。
大好きなふるさと。美しい自然。大切な家族や、友人たち。
石も、花も、空も、山も、湖も、何一つ変わらず存在しているはずなのに、いったい何が、失われてしまったというのか。
風も、光も、何も変わらず、景色は、ため息が出るほど美しいまま。
こんなに美しい場所の、いったいどこが、何が、おかしくなってしまったのか。
ここに生きていくことの、いったい何がいけないことだというのか。
私はとても混乱しました。
わからなくて、悲しくて、悔しくて、やりきれない気持ちが心に重くのしかかってきました。
これから先も、暮らしていけると、信じて疑うことはなかった。たとえ社会がどんなに混乱しても、ここにいれば、自然が自分たちを生かし、守ってくれると確信していた。
それが、まさか根底から揺るがされる日が来るなんて。
自然に対して、動物たちに対して、申し訳なくて、涙が出ました。
ずっと、守られてほしいと、願い続けてきた土地なのに。
フクシマに帰って半年、迷いながら、ずっともがき続けてきました。できることは全部やってみた。でも、答えは出せませんでした。何が「正しい」ことなのか。
フクシマで、いろいろな人に出会い、話をするうち、その人それぞれにとっての、「偽りのない生き方」を実践することが、ひとつの答えのように思われました。(それは、決して人に押し付けたり、押し付けられたりできる類のものではありません)
福島に生きることもひとつ。
フクシマを離れることもひとつ。
「私は、どうしたいんだろう?」
自分で自分がわからなくなっていました。
私が帰ってきたことを、周りのみんなが、とても喜んでくれました。フクシマを離れるということは、その人たちを、裏切ることのような気がしていました。放射能と共存しながら、フクシマで暮らしていく試みは、あれこれやってみたけれど、根本的なところでこれ以上は無理だと理解し始めていました。当時23歳の自分にとって、そこに暮らすリスクは決して低くないと分かっていても、福島への愛着や、情に、気持ちはいつも揺らいでいました。
そんなある日、帰ってからというもの、自分が一度も“深呼吸”をしていなかったことに気が付きました。体もひどくこわばっていて、気持ちが塞ぎ気味になる日が増えていました。それまで、放射能対策のために生活の中のあらゆることに気を張り続けたことや、周囲との認識のずれ、両親との衝突にも疲れを感じ始めていました。
そんな時、ある人から、とにかく短期間でも、一度福島をはなれることを勧められました。私も、心を整理するにはいい機会だと思いましたし、その必要性を強く感じていました。
そして、紅葉のハイシーズンも終わった2011年の11月、一人、北海道に向けて旅に出ることにしました。
2件のコメント
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私はその頃、すでに西日本にいて、どうやったら福島の子供たちを受け入れられるか、考え始めていました。福島の子たちを引き取って育ててもいいと、本当に思ってました。
そんな頃、助けてくれた人から、福島に帰った子がいると聞かされて、とても驚いたし、心配しました。それと同時に、強制はできない、、と思いました。
私はすでに、東日本よりは安心して吸える空気、そうして、何より美味しいお野菜やフルーツをいただくことができました。だから、その話を聞かされたとき、『その子にも食べさせてあげたい』って話していたのを覚えています。
何にせよ、何かがきっかけとなって、少しでも離れる決意ができたのは、すごく大きいことだったんでしょうね
それにしても、本当に美しいですね~~~
hiropanさんの、ため息がでるような美しい自然の故郷の写真と、
それとは裏腹の、hiropanさんの切実な想いに言葉が出ませんでした・・・
一人ひとりの暮らしや想いを知るにつけ、本当に酷い事が起こったのだと改めて感じさせられました。