【第15回 子供達のいない夏休み】 hiropanのAfter 3.11 ~震災後に見えてきたこと~

その時の自分に出来なかったこと

事故後、福島で実家の店を手伝っていると、様々な人と接する機会がありました。
週末には多くの親御さん達が中通り、浜通り方面から、子供を連れてやってきました。
福島市や郡山市では、外で子供を遊ばせることができなかったため、少しでも線量の低い会津地方に、軽い保養目的でやってくるのです。

ある頃から、子供達は皆「ガラスバッチ」と呼ばれる線量計を首からぶら下げてくるようになりました。子供達は、来ると嬉しそうに外で遊びまわっていましたが、私は落ち着かない気持ちでそれを見ていました。

いくら福島市や郡山に比べれば線量が低いとはいえ、草むらや、水たまり、落ち葉の溜まった場所や、木の周辺などでは、ホットスポットが点在しており、その数値は決して楽観視できるものではありませんでした。
店内に、周辺の放射線量を掲示してはいましたが、その数値を危険と捉えていた人はあまりいなかったでしょうし、また、明確に「危険である」とも、伝えることが出来ませんでした。ただ、「ご参考になさってください。」と、各自にその判断を委ねることしか、その時の私には出来ませんでした。

自分達が提供している食品の安全性についても、私は心からの自信をもつことができませんでした。

もともとフレンチのコックから、パン屋に転身した父。以前から、添加物も使わず、素材にも、こだわって、良いパンをつくろうと頑張っていました。野菜も地元の農家さんから、無農薬の有機野菜を直接仕入れていましたし、はちみつは、地元会津で採れた、まざりけのない、天然はちみつを使用。卵も平飼いの良い卵を遠くから取り寄せて使っていました。水も、きちんとした浄水器を通したものを使用し、調理パン用のソースや具材も、手作りにこだわっていました。コックの腕と経験が活かされ、パンの味には定評がありました。父の作るフレンチやパンは、繊細な高級感のある路線のものではありませんが、少し無骨ながら、父らしい温かみのある美味しい料理でした。
私は、そのような父の仕事ぶりを、とても立派だと思っていました。

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ところが…、原発事故が起きてから、以前と同じことをしていくことに、大きな違和感と葛藤を抱くようになりました。原発事故や放射能について、知れば知るほど、その不安や葛藤は大きくなっていきました。

「ただ、今まで通りに暮らしていきたいだけなのに。」
「ただ、今まで通りに、地元に根ざしたおいしいものをつくっていきたいだけなのに。」

それが、原発事故後の福島では、人々の健康に影響しかねない行為に変わってしまいました。しかし、長年応援してきた農家さんが、「売れない」と嘆きながら持ってきて下さった野菜や果物を、その場で突き返すことは、悲しすぎてできませんでした。
父は、その頃、放射能の危険性については、あまり聞きたがらなくなっていました。

その年の夏は、例年よりもずっと静かなものでした。

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キャンプに、釣りなど、通常なら沢山の親子連れで賑う夏の裏磐梯ですが、事故後、最初の夏休みは全体的な客足の減少はもちろんのこと、子供達が特に少なかったようでした。

長期の夏休みを利用して、多くの子供達は、西日本や北海道へと、本格的な保養に出かけるケースが増えていました。

本当は、保養の必要性のない地域に移住出来たほうがいいのは確かですが、福島では、様々な家庭の状況によって、移住したい気持ちがあってもできない家庭が沢山ありました。
そういった現実を目にするうち、子供達の保養プログラムの必要性を強く感じるようになりました。福島県では「ふくしまっ子政策」というのがあって、県が滞在費や交通費の一部を負担し、ふくしま在住の子供達を、県内の比較的線量が低く自然豊かな土地に滞在させようという試みがなされていました。しかし、それは純粋な保養というよりは、福島から人が離れてしまうことを防ぎ、また、県内の客足の減少に悩む宿泊施設の間接的な救済処置のようにも思われました。(考え過ぎかもしれませんが、そういったことまで疑いたくなるほどに、原発事故後は、県や国に対して、大きな不信感を抱くようになってしまいました。)

「福島を離れたら、自分がこういった子供達の保養プログラムを企画することもできるだろうか?」

そんなことを、いつしか考えるようになっていました。
それをあるとき友人に話したところ、思いがけず、北海道で子供達の保養受け入れをしていたというNPOの知人を紹介してくれることになりました。

Writer

hiropan

hiropan

埼玉県生まれ。自然豊かな福島県会津地方に育つ。美術大学にてデザインを学ぶ。
2011年、東日本大震災、原発事故を機に、社会の在り方と自分の生き方の方向性を見つめ直し、転換する。2012年、福島から一人旅で たまたまふらりと訪れた広島県の離島、大崎上島へ移住を決断。
現在、小さな畑で野菜や柑橘を育て、ニホンミツバチを飼いつつ、絵や文章を書きながらスロウに暮らす。

3件のコメント

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  1. いつも楽しみに見させていただいております。

    震災や原発に関して、私の感じていることとを代弁してくださっているようです。

    >「ただ、今まで通りに暮らしていきたいだけなのに。」
    >「ただ、今まで通りに、地元に根ざしたおいしいものをつくっていきたいだけなのに。」

    痛切にそう思います。福島には無農薬栽培などに取り組んでいる農家やhiropanさんのお父さんのように本物を提供するお店なども沢山ありました。そういう人達が、何故普通に生活することができないのか。
    また、「地産地消」とか「産地直送無農薬野菜」とか本来は歓迎されるべきものが、危険なものに思え、応援できなくなってしまったのは本当に残念です。
    原発とはそういうものだと分かって尚、それを推進しようとする者がいる。無関心な人も大勢います。
    人間が管理している以上、絶対の安全はありません。しかも絶対安全だと嘯いている安全基準さえ穴だらけの状況、、、こんなものが許されて良いはずがありません。
    これ以上の未来に負の遺産を残さないことが大人としての責務だと思います。

    また、(私自身も含めて)今後の健康被害がどの程度のなるか想像できませんが、それを考える度に恐ろしくなります。せめて子供達だけでも守ってあげたいと願うばかりです。
    どこまで役立つか分からないですが、自分にできることをやるしかないのでだと改めて思いました。
    どうもありがとうございました。

  2. いつも、しっかりした体験からの思いや考え、感覚を文章にして伝えてくださって、ありがとうございます!
    私も福島(そして関東以北の)の子供たちの心身の回復が少しでも出来ることを・・・と思います。
    今、こうして深く呼吸が出来ることが、hiropanちゃんにとっては貴重なものだという実体験となっていること。
    hiropanちゃんの思いが形にるように・・・。
    次回も楽しみにしています。

  3. 「子供達の保養プログラム」という想いを持っての
    hiropanさんの今に繋がっているのですね。。。
    外で元気に走り回る子供達、それを嬉しそうに見守っている母親。
    心から安心できる、そんな光景が広がってほしいと切に思います。
    そしていつか、そんなhiropanさんの想いがどんな形にしろ実現するといいですね。
    ただ普通に暮らしたい・・・本当に当たり前のことですよね。
    とってもシンプルなことだけど、それが出来ることがどれだけ幸せなことなのか・・・

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