竹下雅敏氏による教育関係の講演を文字起こししたものです。総合的な情報は「子供も親も両方幸せになれる子育て」のページをぜひご覧ください。印刷やタブレットなどでじっくり読みたい方、音声で聞きたい方のためには電子書籍やMP3もあります。
今回は、7歳までの子供との関わり方を中心にお話しします。7歳までが子育てや教育の急所です。この時期までの子育てがわかると、後の子育てはとても簡単になります。ちゃんと育てると反抗期というのは全然ないものです。反抗期というのは3歳前後で始まりますが、多くの大人が子供の反抗期で手を焼いてしまうのは、子供の独立要求という「自分が大人と同じようなことが出来るんだ」という意志表示をするその気持ちを大切にしないで、「お前はわがままだ」という風に見てしまって叱ってしまう、すると子供が反発するので、一見反抗期に見えるのです。ですからそういう時期に、きちんと子供を誘導出来るものの見方が出来ればいいのです。
ところが、それ以前の愛情の要求をちゃんと満たしていないと、正しく導くことが出来ません。ではどこが出発点になるかというと、実は子供がお腹の中にいる時です。これは大変な問題です。というのは、時間をさかのぼればさかのぼるほど、時間の密度が濃くなるからです。お腹の中にいる10ヶ月間というのは、この世界に生まれてきてからの6年間位に、もしかしたら10年に匹敵するのです。赤ちゃんがお腹にいる時期に正しく育てていないといけなくて、出産してからでは遅いのです。そう言ったらほとんど絶望的な気がしますね。実は子供をちゃんと作るとか育てるというのはもの凄く覚悟のいることで、仕事で成功することの方がよっぽど簡単だと思います。ですからお腹の中に赤ちゃんがいる時にそのことを喜べる、というのが一番大事なのですね。なぜかというと、お腹の赤ちゃんというのは、大人の心を全部テレパシー的に感じているらしいからなのです。自分が妊娠したことを喜ばれていないという場合、胎児には筒抜けで全部わかってるんです。最近、科学者がそう言い出してきているのです。お腹の赤ちゃんにとって、自分の存在が否定されるって辛いことでしょ。大人でも会社などで、「お前は要らない、役に立たないからいない方がいい」と言われたら辛いものですよね。それよりもっと根元的な部分で拒否されたら、それを知って生まれてくる子供は初めから不幸だと言ってもいいのです。ですから、母親や父親が妊娠したことを心から喜ぶのが大事です。お腹の中にいる時に、心を込めてお腹の中の子供に話しかけて大切にしてあげる、そうすると子供は全部理解するんですね。そういう絆をちゃんと作ってから生まないといけないのです。
ちゃんと育てるということは、十分に愛情深く育てる、簡単に言えば十分に抱くということです。子供を育てる時の急所は、これでもかという位抱くことです。子供が起きている時はずっと抱いているという位に抱くことが大事です。これは猿の実験などで証明されています。猿にも偉い母親とそうでない母親がいて、愚かな母親は子供を全然抱かない上に、子供の餌まで取っちゃうんです。その母親に育てられている子猿は、本当に貧相で可哀想な顔をしています。いつもイライラしていて、おどおどしてる。ところがもう一方の偉い母親は、いつも子供を抱いている。子猿はいつも母親にしがみついていて、顔が全然違う。情緒が安定していて、落ち着きがある。それを見ても十分わかるんですけど、科学者というのは見ただけでは満足しないで、血液を採取してその血液中の成分を調べてみました。すると、セロトニンという物質の量が全然違うということがわかりました。脳内物質のセロトニンが多いほど心が落ち着いているということですが、それが倍以上違うんです。科学者は「3歳までにセロトニンの量が決まってしまう、それ以上は増えない」と、恐ろしいことを言っています。私はそうは思っていなくて、多分非常に大きな意識の変換などの何かのきっかけで変わるでしょう。けれども通常はなかなか変化しないかもしれないですね。これは猿だけじゃなく多分人間も同じだと思うんです。3歳位まで非常に落ち着いた環境の中でゆったりと十分に大切にされて育った子供というのは、セロトニンの量が多く、そうされなかった子供のセロトニンは少ないと思うのです。かなり怖い話ですね。要するに猿の実験からもわかるように、その差は十分に抱かれているかどうかで決まるのです。
少なくともうちの子供を育てた経験では、決定的な意味を持っているように思います。うちの子の場合は、おしっこ、うんこ、それから食事をする時、まあおっぱいをやるんですけど、その時以外、起きているときは必ず私か妻のどっちかがずっと抱いていました。抱いていない時はほとんど寝ている時だけです。抱き癖がつくからあまり抱いちゃいけないと言う人がいます。けれども現実には抱き癖は全くつかなかったのです。実際には一歳半位で歩けるようになったら、全然抱かれに来ないです。それを十分に抱かないで育てると、3歳になっても5歳になっても抱かれに来る。愛情が足らないから、十分に大切にされている自覚がないから、いつまでもお母さんに甘えてきて「抱っこして」と言う。お母さんにしてもらえない時は、お父さんに覆い被さって来て「肩車して」と言う。私は肩車をしたことなんか一回もないです。最初の一年半十分に抱いて育てると、後がとても楽なのです。後が楽だからそうするんじゃなくて、それが大切だからそうしているのです。すると本当に落ち着きのある子供に育ちます。うちの子供が5歳か6歳の時にテレビで小学校の授業風景を見て、凄いショックを受けていました。「僕はあんなにうるさい所に行きたくない」と言う。今は小学校に入ってるんですけど、「授業で先生がうるさい」と言ってました。どうしてかと言うと、生徒がザワザワ言って先生の話を聞かない、だから先生はつい大声で喋る、それがうるさいんです。彼にとっては辛いでしょうけど、それぐらい他の子と違うのです。
非常に心身が安定していて落ち着きのある子供と、そうでなくていつもソワソワしていて落ち着きがなくて人の話が聞けない子と、どっちが頭の良い子になるのか考えてみてください。私の言う頭の良いというのは、聡明とか賢明という意味なのですが、勉強ができるかどうかという視点から見ても、授業で先生の話をちゃんと聞いて、何を言っているかを理解出来ればそれで終わりで、家に帰ってから何にも勉強する必要はありませんね。家では遊べばいいんだから、この方が楽ですよね。けれども学校で全然先生の言うことを聞いていないと、家で復習をしないといけない。それでも足りないから塾にも行くでしょ。そうすると遊ぶ時間が足りない、寝る時間が足りない、疲れる、疲れるからやっぱり授業が聞けない。この悪循環に陥っていく。今の子供の学力ってだんだん低下していると言われています。だから指導要領を見ても、私たちの時には習ったもの、例えば算数の場合、文章題、応用問題とか、旅人算とか、算数の面白い所が全部消えてしまっています。私が中学校の時にはたすきがけという因数分解をやりましたが、今はもう完全に消えていますね。難し過ぎるのです。なぜ学力が低下するかというと、学校で疲れ、その上塾に行ってヘトヘトに疲れきっているからです。子供に、「自由な時間があったら何したい?」と聞くと、「遊びたい、寝たい」と言うんです。これで勉強する意欲があるわけがない。
建築家など世界的に創造的な仕事をしている人たちは、子供の頃に野山でたくさん遊んでいるそうです。そしてそういう人たちは皆、勉強しすぎると馬鹿になるよと同じことを言います。私もそう思います。子供というのは知りたいという欲求をみんな持っている。自由に学ばせたら、どんどん自分から学ぶんですね。本当は勉強はとても楽しいものです。学ぶという楽しさを知っている人は一生学び続けます。ところが小さい頃から無理矢理勉強させるから、勉強が嫌になるのです。疲れ切っている。大学に行ったらこれで解放されたと思って全然勉強しない、社会に出ても勉強しない大人になる。そういう人と、学ぶことの楽しさを知って一生勉強し続ける人とでは、後にどんなに差がつくことでしょうか。
文字や計算を教えるより、もっと大切なことを教えないといけない。それは、ちゃんと人の話が聞けるということです。学校で教師の話をきっちりと聞ける子供というのは、とても頭が良くなるものなんですよ。どうやってそういう子に育てるかというと、親が子供の言っていることをちゃんと聞かないと無理です。親がちゃんと聞く姿勢や態度を示さないといけない。なぜなら子供は親と同じ様に振る舞うからです。そういう風に育てようと思ったら、今の生活は忙しすぎて、親にゆとりが無さすぎる。親が生活に追われていて、子供の話をゆったりと聞く時間が無いんです。「何してるの、ぐずぐずしないで早くしなさい」という生活です。そうやって育てられると、子供は、「自分はグズだ、のろまだ」と思います。そのうち「自分は無能だ、馬鹿だ」と思うようになる。すると本当にそうなっていきます。それでは全く逆をやっていますね。子供のペースは一人一人違いますのでそれを認めてやって、子供のペースで生活を形作ってやるだけの余裕がこちらに無いといけない。そんな余裕が実際問題として大人の方に無い。これが最大の問題ではないかという気がするんです。そういう意味で言うと、大人が心のゆとりをもてるかどうか、そちらの方が子供を育てることに関して非常に大きな問題だと思います。
私は1歳半位までたくさん子供を抱くことが本当に大事だと何度も言いますけど、抱いている時に考えごとをしていたら、これは抱いていることになっていないのです。心の中で、明日の会議のこととか、仕事のセールスのこととか、夜の晩ご飯のおかずは何にしようかとか考えていたら、物を抱いているのと同じです。子供って、そういうことを非常に敏感に感じとります。
私が妻に何か話しかけようと思ったら、まず妻の方を向いてそれから話しかけますね。子供って凄いですよ。私が妻の方を見る、この瞬間、子供は遊んでいてもわかるんです。おもちゃで遊んでいるんですよ。なのに私が、「あっ、妻にあのこと聞かなきゃ」と思って、ふっと妻の方を感じますね、子供はさっとそれを感じて遊びを止めて、お母さんの方にすっと抱かれに行くんです。私が妻に話しかける言葉を発した時には、もう子供は母親の所にいて、しがみついているんです。これはほとんど超能力です。これは武術の達人と同じことをやっています。武術の達人というのは、攻撃しようという気を先に感じる、そして先回りをして防御するんです。子供も同じで、私が妻に話しかけようとする気を読んで、おもちゃで遊んでいてもぱっと抱かれに行く。話し始めたら必ず子供が間にいるんですから。ところがだんだんと言葉を話せるようになると、そういう能力が少しずつ薄れていきます。私が母親の方に気を向けて話し始めますね。子供はそこで気づいて、「ねえ、ねえ、ねえ、お母さん、新幹線てねえ」って、どうのこうのと話を中断しに来るんですが、もう遅れています。もはや武術の達人じゃなくなっている。私と妻が仲良く話してるのが気に入らない、母親を取られては嫌だから、必ず割ってくるんです。子供というのは、母親の心がどっちに向いているかいつも知っている。お父さんが母親の方に気を向けたら、ぱっとわかっちゃう。それが三歳位でそうなんですから、一歳とか半年だと、お母さんは私を抱っこしている、だけれど全然心は別の所に向かっていると、わかってるんです。これじゃあいくら抱いても子供は満足しません。子供が本当に満足するためには、ちゃんと抱いて子供の顔をちゃんと見て、時々話しかけないといけないです。ですから、こんなに抱いているのに夜泣きする、という場合は、ちゃんと抱いてないということです。ちゃんと抱くというのと物理的に抱くというのは別の次元です。心が入っているかいないかなんです。ですからこの区別がつくことが母親とか父親にとってとても重要なことです。
ちゃんと抱いて子供を育てたら、子供はとても落ち着いた思いやりの深い子供になります。ところがちゃんと抱かないで育てると、自分は大切にされていない、十分愛情をもらっていないと思うんです。すると母親から愛情を取らないといけない。母親が食事を作るのに忙しくしていると、「ねえねえ、お母さん」と子供がうるさくして、自分の方に振り向かせる行動を取る。母親はそれがうるさいから、「うるさいから向こうに行っててよ」と言う。そうすると自分は愛されてないと思って不安になってまた何かする。この悪循環になってどんどん不安になって、最後は悪さするようになってきますね。子供が物を壊したり怪我したりする時、母親が、「この子は自分が愛されていないんじゃないかと思って不安になっている、これは自分が間違っている」と思って、子供を大切にしようと抱っことかしてあげれば、子供の不安も解消できて素直になるんですけど、普通はそうは受け取らない。「この子はわがままだ」と思って叱るんです。親が「本当にわがままだ」とか「グズだ」とか「悪い子だ」とか言うと、本当に悪い子にどんどんなるんです。それを子供が本当に愛情を要求しているという風に受け取って、母親が改心して十分に愛情深く育ててやると、子供はいい方に変わっていくんです。
子供は母親が本当に喜ぶということを、よくやってくれているものです。ここを絶対に見逃がさないことが大切です。母親が洗濯物を片付けていると、そばでは子供が子供なりに片付けています。それは母親からは散らかしてる様にしか見えないものですね。でもそこでちゃんと意を汲んで、「ああ、この子は私がやっていることを手伝ってるんだな」と思って、「ありがとう」と言ってやるのです。そしたら子供はどんどんと手伝うようになる。そして母親や父親にこういう風に聞いたりします。「ねえねえ、お母さん、こうやったらお母さん助かる?」「凄く助かるよ」と言ってやる。母親も、「この子は思いやりのある子だな、優しい子だな、人のことが気遣える子だな」と思うでしょ。思えたら隣同士で世間話しているような時に、「この子はね、こういうことをしてくれるんです。思いやりのある優しい子なんです」と、さりげなく言うんです。子供はちゃんと聞いているものです。潜在意識にパッと入ちゃう。そうすると思いやりのある子にどんどんなっていく。本当に十分愛情深く育てたら、子供は必ず親を手伝うようなことをやる。「優しい子だな」と親が本当に思う。それをボソッと言う。するとその性質がどんどん育っていって、とても思いやりのある優しい子になっていくんです。ただ人を操作するためにやってはいけないんですけども。
5歳から6歳、7歳というのは、だんだん理性が発達して、物事の善悪が判断できるようになる時期です。特に男親がやらないといけないのは、しっかりと善悪を教えることです。子供の意志を尊重しながら、子供に選ばせていくことが大切です。
うちでは食べる物にかなり気をつけているので、添加物の入っている物は一切食べないんです。でもうちの両親は、割と無頓着で、インスタントラーメンとか何でも平気で食べています。全然違う家庭です。こういう場合、私が「これは絶対に食べちゃいけないんだ」と子供に言ったら、子供の意志を侵害することになります。「これは悪い食べ物だから食べてはいけない」と言ったら、子供の意志が育たないんです。そうではなくちゃんと説明して、子供に選ばせないといけません。そして子供には簡単な判断の方法を教えました。食べるもの、水でも何でもいいですが、比べさせてみるのです。非常に良い水と水道の水がある。良い水の入ったコップを持たせて、「とも君、ちょっと持ってごらん」、次に水道の水の入ったコップを持たせて、「これ持ってごらん、どっちが体が楽?」といつも聞くんです。良い水を持つと呼吸がとても深くなります。腹まで息が吸える。悪い水を持つとのどのあたりまでしか息が吸えなくて、浅い呼吸になるんです。凄く簡単ですよ。皆さんもやってみて下さい。だからその食品が良い物か悪い物かはとても簡単に判断できます。手に持ってみて息が深くなったら、ああこれは良い物だとわかる。子供にいつもそうやって判断させています。食べさせないわけじゃない。「食べてもいいよ」と言うんです。その代わり「ちゃんと調べてごらん、どうなる?」「こっちがいい」と選ばせてこっちを食べさせる、というようにしています。味の違いがわかるようになるから、まずい物は食べなくなる。「食べちゃいけない」と言ったら自由意志を侵害することになります。必ず子供に自分で選ばせて、「こっちが良い」と選んだものを食べさせるようにすると、子供の意志が育つのです。
うちの田舎の小学校では、今でも制服です。それがまたポリエステル製の制服で、ペラペラの服なのに何でこんな値段がするんだろうといったものです。シワもつかないし母親が洗濯するのは楽だろうな、手抜きできるなと思うんですね。大体ポリエステルというのは、人間の体には良くないものです。天然素材が良いことは、皆さんも感じられることと思います。うちではポリエステルの服は着せていません。仕方がないから校長の所に話しに行きました。「うちはポリエステルの服を着せてないんだ、制服が決まっていてポリエステルだから困る。しかも何で今だに制服なんだ」と話した。決まってるものは仕方ないから「よく似た色でうちの妻が綿の布地で縫って、それを着て行ってもいいか」と聞いたら、良いということなんですね。実は、ひょっとしたら「いけない」と言われるかも知れないので、先に教育委員会に電話して、「制服着用の義務はあるのか」と質問しました。教育委員会の人が面白いことを言いましたね。「そういう質問は初めてなので調べて折り返しお電話差し上げます」と言って、2時間後に電話がかかってきました。多分県の方に聞いたんでしょう。電話がかかってきて、「一応校則と言うのがあって団体生活を学校では学ぶということになっている。学校で制服というのを決めている訳ですから、是非団体での生活を学ぶと言う意味で、制服を着用していただきたい」と言う返事でした。私はそれを聞いて、「ということは着用義務は無いんですね」と聞いたら、「無いんです」と。要するに「学校の校長先生とか教頭先生と話し合って、制服を着なくて良いという許可が得られた場合は、私服でも良いんですね」と聞いたら、「そうです」ということをちゃんと取りつけておいたんですね。「こういう親がいる」ということは、多分学校に連絡が行っていたんでしょう。私が行ったら、制服を自分で作って綿でも良いという許可が出て、割と簡単でした、「電話かけといて良かったなあ」と思いました。初めて妻は本を見ながら制服を作ったんですよ。ミシンで悪戦苦闘してました。制服が出来たのは入学式の一日前でした。ポリエステル製の制服はちゃんと買ってある。そして妻が作ったのをちゃんとアイロンかけて、子供に二つを見せて、「とも君、持ってごらん」と、綿の制服を持たせて、次にポリエステルの制服を持たせて、「どっちが楽?」「こっちが楽」と選ばせる。もう全然違うんです。ポリエステルの方を持ったら呼吸が出来ないです。息がほとんど吸えないです。綿の方を持ったら呼吸がとても深く出来るんです。「どっちを着ていく?」「こっち」。子供がこれで良いと決めて行ったんだから、何の問題もなかったです。学校に行ったら、自分だけ制服が違うんですよ。子供だったらわからない位なんですけど、何の気にもなってないようです。それは自分で選んだからです。私はいつも子供に言ってるんです。「制服が違うって言う子供がいるかもしれない、そういう些細なことでいじめられるかもしれない。だから他の子と同じようにポリエステルの服が着たいんだったら着なさい。別にそれはかまわないから、僕はこれが楽だからこうしたいというならそうしなさい、どっちでも良いから」と。学校に子供を入れるのは大変ですよ。子供に選択させる道を選ぶと、母親の労力も父親の労力も倍になります。そう言う意味で言うと世間の親は楽してるなあ、と思います。うちの子供はずっと草履をはいていて、靴を履いたことがないんです。だから足の形が素晴らしい。足の指が開いていて、原始人みたいな健康な足をしています。何時も靴を履いてると親指が中に入ってきて、ひどいのは外反母趾になってしまいます。足の形が良いというのは即健康に繋がりますので、うちでは靴を履かせたことがありません。しかも3歳位までは、大体裸足で歩かせていたんです。まだ福岡にいた時に、子供が靴下だけはいてちょこちょこ歩いていたら、お爺さんがそれを見て、「これはええことやっちょる」と誉めてくれましたけどね。健康のためには靴を履かない方が良いに決まってるんです。
小学校では通学用の靴や校内で履くバレーシューズまで全部決まってました。これはやっぱり掛け合わないといけない。「うちの子は草履しか履いたことが無いんだ。通学の時は靴を履くようになっているけど、うちの子が草履が良いと言ったらそれでも良いか」と聞いて、草履を履いて学校に行くことの許可も取りつけました。大変ですよ。本当に父親の労力は倍になります。だけど子供の意志を尊重するということは、子供に選ばせることなんです。どちらが良いかを自分で考えさせて、僕はこういう理由でこっちが良い、だからこうすると判断させる。こうすれば問題は起きないし、とても意志が強い子に育つのに、学校では、制服はこれ、ポリエステル製の体操着を着用すること、バレーシューズを履くって、何から何まで決めている。学校のものの考え方というのは、子供の自由意志や個性を全く尊重してないように思います。「これからは個性を尊重した教育をします」とか言いながら、子供を型にはめることばっかりやっていて、全く逆をやってるんじゃないかと思うんです。いつも子供に選択させるようにすると、子供の意志が育っていきます。5歳から7歳は、おもちゃが欲しいと思っても、それが我慢できるような、自分の欲望をコントロール出来る様にしつけていくべき時期です。5歳から7歳で大脳の両方が繋がって、善と悪がわかる様になって、子供は積極的に自分の欲望を押さえつけようとします。どうやってと言うと親を見習ってです。親が、「これはあまり良い食べ物じゃないから、こんなのを食べちゃいけないんだよ」と言うと、子供はそれを見習って食べようとするのを我慢し始めるんです。今の子はどうやら、欲望のコントロールがほとんど出来ない。それは親が、子供が欲望をコントロールしようとしているのに、それを認めて、ちゃんとほめてあげてないからです。それには実は父親が決定的な意味を持っています。それまでは母親の存在が子供にとってもの凄い比重を占めているんですけど、理性とか我慢することを教えるのは父親の役割です。そういう風に育てていくと、子供は本当に素直に忍耐強く育っていきます。
この前こういうことがありました。通信販売で「くるくるスロープ」というおもちゃを買ったんです。上から玉を降とすと、くるくると羽車が回ってポトンと落ちて、カラカラと階段を下りてくるんです。「ああ、来た来た!」と子供が言って、子供と私でそれを組み立て出した。妻は部品が揃っているか確認してみた。そうしたら足りない部品がある。これは一度返品して、全体を交換してもらわないといけないのです。「あれ、これ足らないわ」「えっ、じゃあ返品かー。とも君、これは部品が足りないから、返さないといけない。返してまた送ってくるまでにもう一週間位かかるよ」と話しました。子供は「もう遊べる」と思ってるわけでしょ。だってもう組み立て出してるんですから。普通の子なら、わーっと泣き出すと思いませんか。ところが全然泣かないんです。全部物を納め出すんです。そういう風になる。ですからいつも子供の心をちゃんと理解して、上手く誘導してやると、後が楽ですし、その方がちゃんと意志が強くて、思いやりのある子に育つのです。
今度は、子供が反抗期の5歳、6歳、7歳位になると順位争いをすることについて、詳しく話してみたいと思います。これはとても大事なことです。人間というのはどんな人もいつも順位争いしているのかも知れなくて、本能的なレベルで言うと、7歳位までは犬とか猿とあまり変わらない部分があると思っています。
実は子供がどうしてそういう行動を取るのかわからないことがあったのです。部屋の中におもちゃがいっぱい出ていて歩けないんですよ。それでなくてもうちの奥さんは三種体癖(体癖については、『体癖1.2』野口晴哉著 全生社 を参照)で、倍散らかしてるんですから、家の中が足の踏み場もないわけです。運動神経は良くなりますよ。一歩足を降ろす毎に神経を敏感にしないと物にぶつかるんですから。それだけで運動不足にはならない。だけどそのままでは大変な生活になるので、「とも君、これだと新幹線踏んでしまうから、ちょっと脇によけてくれないかなあ?」と言ったら、それに対して子供が猛然と腹を立てて怒り出すんです。初めは私も、どうしてこんな怒り方をするんだろう、こっちとしてはお願いして、その新幹線踏んで壊れたら困るから除けて欲しいという言い方をしているだけなのにと思いました。前後関係がないので、これはさすがの私にもわからない。それまでニコニコして普通に遊んでいたのです。
私は子供を怒るのではなく、なぜこの子はこんな不思議な対応をするんだろう、面白いな、不思議だなと考えるタイプですから、子供をよく観察するんです。それでもわからない。3ヶ月位観察してみて、やっと気づき出した。この理由がわかるのに3ヶ月かかりました。あの時まではとても良い子だった、あの辺から急にこんな風になった。何があったんだろう、私が何か間違ったことをやってないかとずっと思い出すんですね。思い当たることがない。それでもジーッと思い出していると、ああ!と思い当たることがあって、そういえばあの頃から子供と駆けっこをして遊ぶようになったということを思い出したんです。家の外に出て10メートルか15メートル位しか距離はないんですけど、そこで、どっちが早いか走ろうってかけっこをしたんですね。全力で走ったら絶対に親の勝ちですよね。息子は5歳ですから、普通親心として誰でも負けてあげるでしょ。「ああ、とも君は駆けっこ早いねえ」と、大体5回に4回は負けてあげていた。すると子供は自分の方がお父さんより上だと錯覚し始めたんです。それまでは散歩しても絶対に私より前には歩かなかったです。常に同じか少し後ろを歩いていました。けれど駆けっこやって私が負けるようになってから、2、3メートル前を常に歩くようになったんです。初めは私もそれに気付かなくて、勢いがあって元気になったなあ位にしか思ってなかったんです。その頃から奴の態度がおかしくなりだしてきたことを、やっと3ヶ月目にして気づいたわけです。私が駆けっこで何度も負けてやったので、子供は自分が父親よりも上の人間だと思ってしまった。上だと思っているのに相手から、「とも君、ちょっとそれ片づけてよ」と言われたら、「なぜ部下が俺に命令するんだ」と思ったんでしょう。上司から「これ、君間違っているよ、こうしたまえ」と言われたら「はい」と言うでしょ。だけど自分の部下だと思う人に、「あのう部長、ここおかしいですよ、こうした方がいいですよ」と言われたら、ムカッときて「この野郎」と思うでしょ。全くこれと同じなんですね。つまり私の態度の何が間違っていたかというと、かけっこで負けちゃいけなかったんですね。
犬がどうやって上位と下位を決めるかというと、簡単です。犬同士が、どっちが上か下かわからない時はケンカして噛んで、どちらかが鳴いた方が負けですね。テレビで、犬のしつけについてやっていた番組を見ました。犬を連れて散歩する時に、犬の方が人間より先に歩いていると、犬は人間よりも上だと思っているらしいです。どう考えたって人間様が偉くて、こっちが餌を与えているわけです。ところが犬はそう思ってないんです。これは犬の立場では、自分が上位で主人であり、人間が部下なんですね。だから犬を調教する人は、絶対に犬を人間より先に歩かせないです。人間より先に歩かせないことを学ばせてはじめて、人間が上、犬が下という上下関係が出来る。そうすると犬は、この主人は俺よりも上だと思って、犬は主人の言うことを必ず聞きます。それで、「これだ、これだったんだ、これはわからなかった」と思いました。
猿の場合はマウンティングという行動があるでしょ。雄の上にボスの猿が乗る行動をします。私が座っていると子供が背中から覆い被さって来るようなことをします。これは自分の方が上だというマウンティング行動です。それまでは絶対に私の上には乗ってこなかったんです。私が横になっている時、子供を抱っこして私の体の上に乗せますね。すると子供はスッと嫌がって逃げていたんです。ところが駆けっこに負けてあげるようになってから、私が横になって寝ていると、私の上に乗りかかろうとするんです。一見甘えてるように、お父さんが寝ている所で遊んでいるように見えるんです。ところがこれがマウンティング行動です。俺の方が上位だという行動ですね。犬と同じで下位だったら腹を見せるわけですから。上に乗るっていうのは俺が上位だというメッセージで、これはマウンティング行動だということに気づきだしたんです。それから、私が肘掛け椅子に座って休んでいると、子供が足を持ってきて股間を押しつけて、自分の股を擦りつけてくるんです。私が子供に「とも君、お前それマウンティングしているだろう」と言うと、子供はドキッとして、「しないもん」と言いましたが、もう図星なんです。マウンティングというのはそういうのだけじゃなくて、まるで子供がじゃれているみたいに父親の背中にまたがってくるというのもマウンティングなんです。お父さんにまるで甘えて肩車をするみたいに、「抱っこ、抱っこ」って上から覆い被さるようにしますね。これもマウンティングです。子供が父親よりも上だというメッセージなんです。そういうのだったら子供っていっぱいやっているでしょ。ほとんどの家庭では子供に自分がボスだと思われていますね。
これではまずい、私はちゃんと子供に教えないといけないと思って、子供に「お前、何か勘違いしているだろ。お前は自分が上位だと思っているだろうが、お前は上位じゃない。俺が上位なんだ」とちょっと怒ったように言ったんです。すると「僕が上位だもん、上位だもん」と言って、自分が上位だと思っていることを認めているんですね。「違う、お前は上位なんかじゃない。お前は俺が駆けっこで負けてやるから自分の方が上だと思っただろうが。俺はな、お前に負けてやったんだ、俺はな、お前にわざと負けてやったんだ、それをお前は勝手に自分が勝ったと思っているだろう、自分が上位だと思ってこういう行動をとるんだろうが」と言いました。すると黙っていました。そしてそれからは駆けっこで絶対に負けないようにしたんです。次の日に散歩に行ったら、何か行動が違う。いつもは私の2、3メートル前を歩くのですが、その日は10メートル位前を歩いて常に後ろを振り返りながらせかせか歩いているんです。「お前、自分が上位だと思っているだろうが、お前は上位じゃないんだ」と言うと、「僕が上位だもん」と言って50メートル位私を引き離したんです。「お前なあ、お父さんがちゃんとやったら、お前位簡単に引き離せるんだぞ」と言うと、子供は必死になって駆けっこみたいに走っているんですよ。さすがに疲れてきますよね。百メートル位離れた所で、私がダカダカと走り出したら子供は逃げるわけですよ。すぐに追いついて、追い越してしまいました。「待ってよ」「待って欲しいか、俺は上位だから待ってやってもいいぞ」って言い合いながら、駆けっこで絶対に負けないようにしたんです。何度もそれをやって、駆けっこをしても負けてやらない。本気でやったら私が勝つのに、それを負けてやっていたんだということを教えてやらないといけない。そのうちだんだんと、子供が「これはどうも、私が本当にわざと負けてやっていたんだ」ということに気づいてきます。そしたら駆けっこしようとか言わないし、何かしようとか言わなくなった。意気消沈して元気がなくなってしまうんです。これもまた困るんですが、1週間くらい放っといた。そうすると子供の方から「どっちが早いか駆けっこしよう」と言ってきました。「よっしゃ、やろうか」と言うと、「本気でやらんといて」と言うんです。「えっ、本気でやったら俺が勝つだろ、どうするんだ」と言うと、子供の方から、「勝たんといて」と言う。「それじゃあ、どっちが勝つの?」と言ったら、「とも君が勝つ」「お父さんがわざと負けるのか?」「うん」「まあそれなら良いだろう」と言って、わざと負けてやるんです。それで満足している。こういうことを結構やりました。そして、子供もお父さんが本当にわざと負けているんだということがわかってくる。
そしてある時に私は子供に話をしたんです。「お前なあ、本当に強いというのはどんなことかわかっているか、それはな、自分よりも弱い人に負けてあげられる人なんだ、勝ちを譲れる人なんだ。これが本当に強いということなんだ。だからお父さんはお前に負けてあげたろう。それはお父さんが強いからなんだ。わざと負けてあげられるのが本当に強い人間なんだ。お父さんはな、本当にお前よりも強いんだ。上位なんだ。だからお前は下位だろ、上位のものは自分が食べられなくても自分の食べ物を下位に分けてあげないといけなんだ。これが本当の上位というものだ」と言ったんです。でもわかってない。それでお汁粉を食べている時、その中に白玉が入ってますね。子供が「白玉がもっと欲しいなあ」と食べたそうにしているんです。「とも君、食べたいか」「食べたい」「そうか、上位はな、自分が食べられなくても下位に分けてやらないといけないんだ、上位は辛いんだぞ。とも君は上位か下位かどっちだ?」「下位」「そうか下位か、じゃあ、お父さんは上位だな、やむをえないな」と白玉を分けてあげる。こんなことを4、5回繰り返しました。そしたら食べ物をもらう時は、「下位」と言うんです。
犬を飼ったらわかりますよ。うちにメスの雑種の中型犬と、もう一匹大型犬のオスのシェパードが居るんです。小さい方の犬は雌犬なのに気が強くて、ボスなんです。大型犬の雄の方が部下です。それで餌をやるでしょ。ボスの方が自分の餌を全部食べたら、「ワン」と吠える。シェパードの方の餌が半分残ってるからです。するとシェパードは食べるのを止めて、残りの分を全部ボスが食べちゃうんです。これが犬の社会です。ボスだから沢山食べて当たり前だと思うんです。なぜならばボスは強くなければならない。そして群を統率しないといけない。だから食べないといけない。人間の社会もそうなっていますね。「俺には能力があるんだ、だからこれだけ儲かって当然だ」ってやっているでしょ。でもそれは違います。本当に強い人間というのは、自分が質素な暮らしをしても、他の人を豊かにしようと思うはずです。「自分は才能があるから、年収が何億何十億稼げて当然なんだ」と言っていながら、隣の国では飢えている人がいるわけです。それで平気なのです。これはボス犬が部下にワンと言って、自分の取り分を取るのと全然変わらないです。みんなそういう弱肉強食といった思想に取り憑かれている。子供も同じで、7歳までは考え方が犬あるいは猿なんです。自分の方が上だと思うと、強い者が沢山取って当たり前、ボスだから沢山餌をもらっても当たり前だと思うんですね。子供というのはそういうすごい錯覚をします。わが子がまだようかんが食べたそうだから、親は食べたいのを我慢して子供にあげる訳でしょ。思いやりの心を育んでもらいたいと思って愛情からそうするわけでしょ。ところが子供は、自分は上位なんだから下位のものから取って食べるのは当然だと思うんです。信じられないけどそうなっています。本当にそう思ってるんですよ。私は子供に聞いたんですから。「お前、自分がボスだから沢山取って当たり前だと思ってるだろうが」「思ってる」「違う、それは違うぞ、お父さんは本当は強いから、だからお前が食べたいと思ってるから自分が我慢して与えてるんだ。自分が食べなくても他の人に分けられる人が本当に強い人なんだ、わかるか」と言うと、食べたくて美味しい物が目の前にあるから「わかる」って言います。でも本当はわかってないんです。何度も説教しました。そういうことをやりながら、「本当は上位も下位もない、人間には上位も下位もない、みんな平等なんだ」ということを教えるんですね。人間だけじゃなくて犬でもそうです。「人間は、犬よりも人間の方が上位だと思っている、犬は自分が上位だと思っている。本当は違う。どっちも上位じゃない。本当は全然上位も下位もないんだ。たまたまお父さんがお父さん役で、お前は子供役なんだ。だから上位の役をしているだけなんだ。だから本当はだれも上位でもないし下位でもない」とそんなことを言っていながら、食べ物をやる時には、「どっちが上位なんだ?」ってやっているんです。そうすることで、子供は下位の役にまわって、食べ物をもらいますね。しばらくして、「本当は上位も下位もないんだよね」と言ってるんです。そうやって、「あらゆる生命は、本当は上位も下位もないんだ」ということを私は教えたいと思ったんです。
子供は「生き物地球紀行」といった動物の番組が好きなんですが、「お父さん、蛇ってすごく偉いんだよね」「イルカって凄い偉いんだよね」って言っているんです。「ものすごく偉い、多分人間より偉いかもしれない」と私は言います。子供は、動物とか虫といった存在を、自分と同じものとして受けとめていて、自分が犬や猫、イルカや蛇、昆虫よりも上だとはどうも思ってないらしいんです。この間なんかは、「手乗り蠅とり蜘蛛」と言って遊んでいました。「お父さん、蠅とり蜘蛛って偉いんだよね」と言うから、「多分すごく偉いと思うよ」と話しました。私は、あらゆる生命は平等だと思っています。イルカや熊などの動物も、人間よりすごく偉くて、ただ言葉が通じないので私たちにはああ見えているだけで、話をしたら、ひょっとしたら人間を遙かに凌駕する精神性を持っているんじゃないかと思うことがあります。すべての生物は同じである、上も下もない、ただ役割として上か下かを演じているのではないかと感じています。もう少しわかりやすく言うと、会社の中で部長や課長や平社員がいるんですけど、役割として上と下がないと会社が運営出来ないでしょ。だけど部長と平とどっちが人間として上かと聞かれたら、何の関係もないでしょ。だからそういうことを子供に教えたい。そのための方便として、どっちが上位でどっちが下位かということを通過しないといけないと思うんです。私がつくづく感じたのは、子供が5歳から7歳の、そういうところを通過する時というのは、犬とか猿なんですね。民主主義が通用しない。そのため方便として上位とか下位を作らないといけない。なんせ親のほうがボスでないといけないんですよ、子供は上位の言うことは聞くんです。下位の言うことは聞かないです。親が上位で子供が下位でないとしつけは出来ないのです。だけどそこで止まってはいけない。人間なんだから本当のことも教えないといけない。自分と同等の人間だと思って子供の人格を認めるけれども、方便として親が上位の役を演じてしつけるのです。
それで、私はマウンティング行動が止むのかをずっと観察し続けました。でも止まないんですよ。お父さんはわざと負けてることはわかってる。けれど人間というのはいつも、より強くなろう、たくましくなろうとしますから、次の日にはお父さんを追い抜いてやろうと思うんですね。それでやっぱり私が横になっていると、しょっちゅうマウンティング行動をとる。甘えてくる振りをして乗ってくるんです。それに気づいて私は寝ながら「とも君、今何してるの? お前はそうすることで自分が上位だと錯覚してるだろう。それは錯覚だよ」とよく言うんです。また私が横になって寝ている時に、子供が股を開いて仁王立ちみたいな形を取って、上から見下ろす時があるんです。それで「お前、何してるんだ」と言います。絶対に止めろとか言わないんです。ただ何をしてるかを自覚させるだけです。そしたら子供が、「上位への錯覚」なんて言ってる。「そうだよ、錯覚なんだよ」と。本当に可笑しいんですけども。要するに私が子供に伝えたいのは、人間には本当は上位とか下位とか無いってことです。大人と子供のどっちが生命力が強いかはわからないし、本当の意味で偉いかもわからない。上位とか下位というのは社会的な方便で、生命というレベルでは上下は無いはずで、それは当たり前ですよね。私はそれを伝えたい。だから、「一応お父さんが上位ということにこの家ではなってるけど、これは錯覚だ。お前が上位だと思ってるかも知れないけど、それも錯覚だ。本当のところはそれは無い」ということをいつも話して聞かせてるんです。
どうしてそんなにマウティング行動を取るのかが私は非常に興味がある。なぜそれをするのか。前にも話しましたが、風呂の中でうちの妻の膝に自分の金玉を押しつけたりするんですね。これはマーキング行動で、動物だったら会陰の所に臭線があって、それをあちこちにこすりつけて、臭い付け行動をします。そういうことを本能的にやるのです。
例えば母親がいて、お兄ちゃんが4、5歳で、下に2歳位の妹がいるとすると、どうしてもお母さんは妹を可愛がる。するとお兄ちゃんは気に入らない。自分も母親の愛情が欲しいわけですから。するとどうするかというと、自分の性器を妹の肌に直接押しつけたりします。これは何をやっているかというと、「俺の方が上だぞ」というメッセージを発しているのです。ところが母親にそういう知識がないと、この子は変態だと思うでしょう。この子はおかしいと思ってそれを止めさせようとするんです。これは動物としては自然なことで、自分の方が上位だということを妹に自覚させようとしているのだから、止めさせる必要は全然無いんです。子供は母親の愛情が欲しいのです。子供の世界では母親に愛されている方が上位なんです。ここが問題なんですね。ここが全ての答みたいなものなんですよ。中学生で今一番のステータスって何かわかりますか。これがわかる人はちょっと子供の心がわかるかも知れないです。凄く簡単で、友達が何人いるかがステータスです。これは裏を返して言うと、どれほど孤独を感じているか、寂しいという思いを常に心に抱いているかということです。だから一緒に写真を撮って、2、3分話をしただけで仲のいい友達だと思ったりする。そんな写真を一杯持っていて沢山友達がいる人は人気者です。これは凄い世界です。逆に言うと、その位彼らは苦しんでいる。本当に自分のことをわかってくれる人がいなくて寂しいという叫び、心の飢えで苦しんでいる。ところが親とか教師が全然それをわかってなくて、トンチンカンなことばかり言っています。私が言いたいのは、それは子供の時から寂しい思いをさせて育てたからだということです。自分が独りぼっちで、誰にも相手にされないことがとても辛いということを意味しているわけです。だから子供にとっては友達が沢山いるということがステータスになる。
自分は家庭で家族に大切にされているという満足感がない。そういう満足感がある子は悪い子にはならないものです。そこへ持ってきて明らかに妹の方が大切にされてるように見える。そうすると子供の心で言うと、妹の方が明らかに上位なんです。子供は「あの子が上位だから大切にされるんだ。俺が上位になったら俺を大切にしてくれる」と思います。それで臭い付け行動をとるのです。これはどういうことなのかというと簡単で、母親に愛されたいから上に立とうとするのです。動物の世界では、繁殖期になると雄同士が角を突き合わせたりして、どっちが勝つかを決めるでしょ。勝った者が雌を獲得出来る。それと同じで、子供というのは勝った者が母親の愛を獲得できると錯覚するんです。それで妹より上に立とうとしてマウンティング行動をする。
子供は私を上だと思っているから、私よりも上に立とうとする。それがなぜなのかとずっと子供を観察している時に、私はこのことがわかったのです。私の妻がやっぱり子供より私の方を気にかけている。子供というのはいつか成人して離れていくわけでしょ。でも夫婦関係というのはそれよりもずっと長く続くわけで、女の人だったら夫婦で仲良く愛し合っていたいと思うでしょ。親子関係よりは夫婦関係が大切で、夫婦が本当に仲睦まじく、いつまでも幸せで居られたらと誰でも思うと思うのです。うちの妻もひどいアダルトチルドレンですから、要するに本当に大切にされて育てられてないんですよ。だからうちの妻にも、心の中に、〝本当に自分を大切にしてもらいたい〟というのが深くある。私がどんなに大切にしても、妻が、〝私はこの人に大切にされてる〟という自覚が生まれるまでは、どうしても私の方に妻の気持ちが来るんです。子供は2番目なんですね。これはやっぱり子供にはわかるんですよ。「お父さんと僕だったら、お母さんは明らかにお父さんの方が好きなんだ」と思うんです。私がコタツに横なってリラックスしてるとしますね。うちの妻が暇になったら、私の隣に来るんです。子供の隣に来ないんですよ。私の隣に来て休むんです。そしたら子供は間を割って入ってくるんです。これをいつもやってる。すると子供は、「お母さんは僕よりもお父さんの方が大切なんだ、好きなんだ。なぜかというと、お父さんの方が上位だからだ」と思うんです。これが子供の論理です。それでマウンティング行動をして、自分が上位になれば良いんだと思う。それでマウンティング行動が止まないんだということに気づいたんです。なるほどそういうことだったのかと思って、妻が風呂に入ってる時に子供に、「とも君はどうしてマウンティング行動するの?」と聞いたら、「わからない」と言う。やっぱり子供にもわからないんです。本能でやるんです。「とも君な、とも君がな、上位になったらお母さんが自分のことをもっと愛してくれると思ってるんじゃないか」と聞いたら、「思ってる」と言ったんです。「お父さんの方が大切にされてると思ってるだろう」「思ってる」「自分の方が上位だったらお母さんを独占できると思ってるだろう」「思ってる」と。私はその時に、「それは違う、それは関係がない」と言って話したんです。要するに、「お前は自分が上位じゃない、下位だからお父さんよりも愛情が少ないと思ってるだろう、だからお母さんにもっと愛情をもらおうと思って、お父さんとお母さんが話し始めたら、ねえねえ、お母さんお母さん、新幹線がねえ、と言って二人の間に入ってから、質問を考えてるだろう」と言ったら、「うん」と言うんですよね。「それをすればするほどお前はお母さんに嫌われるんだよ」と言って、「そんなことをすればするほど嫌われるから不安になって、お父さんとお母さんが話し出して、お母さんの気持ちがお父さんに向いたら直ぐに間を割ってきてまた、ねえねえ、お母さんお母さん、とやるだろう、やればやるほど嫌われるんだよ。でもお父さんが嫌われないのは何でか知ってるか」「わからない」って言うから、「お父さんは、ねえねえ、お母さんお母さん、新幹線がねえ、と言わないだろう。だから嫌われないんだ。その秘密は簡単なんだ。お母さんがこうして欲しいなという時に邪魔しない、お母さんが食事を作ってる時、お父さんは邪魔しないよ。だからお母さんはお父さんのことを嫌いにならない。それはお父さんが上位だから好いてくれるんじゃないんだ」と話したんですね。「だからとも君が上位だろうが下位だろうが、とも君がお母さんのことを思って、お母さんがこうしたら助かるなと思ってやったら、お母さんはとてもとも君に感謝する。そしたらもっともっと大切にしてくれる」と、そう話したんです。そして「お前、とてもお母さんに大切にされてるんだよ」と話したんです。子供に〝自分はお母さんに本当に大切にされている〟というそういう自覚が出来た時に、こういう問題は消えていくだろうと私は思ったんです。
テレビで他の家庭の様子や学校の様子、他の子供の様子とかを見たりして、子供は自分がどれくらい他の家庭と違って本当に大切にされているかということがだんだんとわかってきたんですね。それと同時に妻が自立してきて、精神的に成熟してきたんです。これは大体同時に並行的に起こりました。うちの妻はアダルトチルドレンだった。それが結婚して10年経つんですけど、精神的にものすごく成長してきた。何で成長したのかというと、子供を育てることで成長したんです。本当にこの1年なんですけど、あれだけ私に甘えてきて、「大切にしてくれ、大切にしてくれ」というのが無くなってきた。自立し精神的に独立し始めたんです。それと、子供が〝お母さんに本当に大切にされている〟という自覚を持ち始めたのがほぼ同時でした。私は結婚する当時から全く変わってないんですけど、妻は自分が変わって自分が自立してきたから私の見え方が変わってきてるんですね。妻は私によくこう言うんですね。「あなたはとても優しくなった」と。初めから私は変わっちゃいないんだけど、妻にはそう見えるんですね。それは精神的に成熟して自立して、「ねえあなた」と言って私に甘える必要が無くなった。すると子供には、お母さんがお父さんに取られてるようには見えないでしょ。ストレートに自分の方に妻の気が来るんですね。それで子供には〝僕は凄く大切にされてるんだ〟という自覚が出てきた。妻がアダルトチルドレンだったので、妊娠して6ヶ月間子供を愛せなかったんです。この6ヶ月間を取り戻すのに本当に6年間かかったんです。その位時間がかかるんですよ。だけども私が言いたいのは、仮にアダルトチルドレンでとても悲惨な幼児体験をしていたとしても、正しく子供を育てることが出来れば、それを克服できる。そして子供をちゃんと育てられるということなんです。それで彼女は本当に変わりましたよ。この10年でものすごく変貌しました。子供もそれに連れて変貌して、〝本当に自分は大切にされている〟と感じるようになってる。この一年位で、「本当にとも君って、とても良い子だ」とうちの妻が言うんです。そういう言葉がよく出るようになった。言えば言う程子供は自信を持ちますね。そうしたら、マウンティング行動がほとんど無くなってしまったんです。この前「とも君、お母さんに大切にされるとかされないとかは、順位とかと全然関係ないだろう」と話すと、「ない」と言ってました。一応これである程度までは成功したかなと思うんです。
うちでは文字とか算数とかは一切教えないで、子供の興味に任せています。聞いてきたら教えるくらいです。それより人間としてもっと大切なことを教えたい。子供が、「ねえお父さん、日本人でとても貧しい人っているの?」と聞いたんです。「いるよ、お父さんとお母さん、うちが貧しいんだ」と。そして「うちがとても貧しい家庭だ」って答えました。そしたら子供が驚いてましたね。それで私がニヤリとして、「ここが問題なんだ。とも君、うちは貧しいんだ、だけど不幸か?」と聞いたんです。「全然」「そこが問題だ、貧しくても全然不幸じゃないだろ」「うん」「ところが多くの人はお金持ちだと幸福だと思いこんでるんだ、ちょうどとも君が上位だと愛されると思うだろ、それと同じなんだよ。お金を沢山持ってると幸福になれると錯覚してるんだ。でもとも君、うちは貧乏なんだよ、でも全然不幸じゃないだろ」「全然不幸じゃない」「だから関係ないんだ」と。そしたら妻がポソッと、「お金持ちでも幸福な人っているのよ」って言ってましたけど。それは確かにそうです。そこが問題で、関係ないんです。ところが大人は錯覚してる。金持ちになって社会的地位を築いて豊かになったら、たしかに良家のお嬢さんと結婚できるかも知れない。でも幸福になれるかは別でしょ。官僚コースに乗れたら、いいとこのお嬢さんと結婚できるかもしれませんよ。でもかえって不幸になるかもしれないし、不幸になるから浮気したりするんでしょ。関係がないということは、官僚クラスの頭が良い人達ですらわからないんです。これははっきり言って宿命的不幸です。こういう錯覚をうちの子がしたら困るから、7歳の時に、「それは関係がない、お前が金持ちになろうが貧乏になろうがそんなことはどうでもいい。幸福はそんなところにはない」ということをちゃんと教えたいんです。それから上位とか下位とか、人と競争することが無意味であることを教えたい。人間がどういう時に幸福を感じるかと言うと、万物との一体感を感じている時だと思いませんか。例えば、子供が幸福感を感じるのは、母親に抱かれて母親との一体感を感じてる時なんですね。恋人同士が本当に幸福だと感じるのは、手を握ってお互いのことを感じてる時なんですね。ですから今を感じること、同じ場所にいる人と一体感を感じるその体験のことを幸福と言うんです。そうすると、これをどんどん拡大していくと人間に限る必要はなくて、花とあるいは山と自然と一体感を感じられる人が居るでしょう。それを感じ取れる人ほど幸福ですよね。こういう人は大体詩人と言われる人達です。だから子供にもそれを理解してもらいたい。それを妨げるのは何かというと、差別感なんですね。あの人達は愚かだとか、自分と彼らは違う、自分は上位で彼らは下位だとかいうその差別感です。差別感があると一体感を感じられない。すなわち不幸になっていく。ところが教育から何から、差別感を植え付けることばかりをやってるんです。そうすればするほど孤立していくんですね。人間は幸福から遠ざかっていくんです。
私が子供に何とか伝えたいと思っているのは、全ての人間は本質的に平等だ、本質は同じだ、ということなんです。人間だけじゃありません。動物も植物も石も、全ての物が本質において同じだということを伝えたいんです。よくうちでは子供が聞いてきます。「アマガエルってとても偉いのかなあ?」「多分とても偉いと思う。人間はあまり自分のことがよくわかってないからアマガエルの偉さもわかってないんだよ。もしカエルと話が出来たらいろんなこと教えてもらうんだけど」という話をするんです。私は子供に、苦しみの中に巻き込まれるような知識を教えるのではなく、本当に幸福になる為の知識を教えた方が良いと思うんです。それは何かというと、差別感を無くす知識なんですね。「本当は全てのものが同じなんだ、上も下も順位も無いんだ。この世界ではそれだと非常に仕事がやりにくいから、形の上で一応上司と部下が居る。でもこれは方便の世界で、本質ではない」ということをいつも子供に言ってるんです。子供がこの世界で体験して自分で苦しんで、本当に心の底からそう思えた時に、子供は多分幸福になると思ってるんです。だから私は、幸福になる術を子供に伝えようとしている。ところが教育は逆をやっている。どんどん不幸になって差別をして孤立化する方法を教えている。「もっと頑張れ、階段を駆け上がれ、そしたらトップに立てる。そしたら豊かな暮らしが出来る。それが幸福だ」と教えている。でもだれも幸福になってないですね。これが問題なんです。私は教育が完全に誤っていると思います。人間を孤立させて不幸にするためにやってるんじゃないかという気がするんです。ですから私が子供に伝えたいことというのはそういうことで、算数とかそういうことではない。じゃあ子供が算数とか出来ないかというとそんなこと無いです。私は勉強は何にも教えないんです。ところがこの前に、1足す3は4とかやってるんです。3引く2が1とか1引く1は0と自分で勝手にやってる。それで私が、「とも君、1引く2はいくら?」と聞いたら、「マイナス1」と言う。私はゲッと思って、「1引く3はいくら?」と聞くと、「マイナス2」って言うんです。星ひゅうまじゃないですけど猛烈に感動しましたね。ノートを見たら9引く10はマイナス1と書いてある。双六でずっと遊んで、そういう知識まで身についてる。これは勉強は教える必要ないですね。子供は勝手に学んでいくんですね。それよりはもっと大切なことを教えてやること、それが私の言いたいことです。
(講演 1998年11月1日、1999年4月18日 福岡市)
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【著者プロフィール】
竹下雅敏(たけしたまさとし)
1959年 兵庫県神戸市生まれ、広島県在住。
広島大学理学部・大学院にて 数学を専攻する。夫婦、親子を含めた人間関係、子育て、教育、東 洋医学、宗教、精神世界、政治経済、哲学、その他幅広い分野にわたる知識と、深い洞察力により多くの講演活動を行っている。
著書 「ぴ・よ・こ・と」シリーズ・「ガヤトリー・マントラの祈り」(こじかBooks) 監修図書 「幸せを開く7つの扉」(ビジネス社)