たとえば夕食を食べすぎて、夜中に吐き気がしたとします。すぐに吐き気止めを飲んで、「吐き気が収まってよかった」と安心して眠ってしまったら? 体は食べ過ぎたものを吐き出して楽になろうとしたのに、吐かせたかったものは、いったいどこに行ってしまうのでしょう。
こういうのを見ると、現代人は「何かを加えて解決する」足し算ばかり考えているように思うのです。先に引かなければならないものが後回しになり、いずれ、加えたものも捨てなければならないという、二度手間になっているのではありませんか?
東洋医学講座の中級18回で、竹下先生もおっしゃっています。「その分野に精通している人は、最後は必ず引き算なんです。加えていくのはあまり大した能力はいらない。医療も名人芸は引き算なんです」
現代医学を見ても、足し算が多いと思います。血圧が高いから薬を飲む。血糖値が高いから薬を飲む。かゆいから軟こうを塗る。痛いから痛み止めを飲む・・・それでは少しも根本治療にはなっていません。それどころか余計なものを入れたために、かえって肝臓や腎臓を疲れさせてしまいます。抗生物質や、下剤、抗がん剤、外科手術は引き算に見えますが、本当にいらないものだけを引いているかどうかは疑問です。
アーユルヴェーダでは、病気に至るまでの一過程「アーマ(邪気)の蓄積」を浄化する療法です。つまり引き算の医学であり、根本療法です。
今回私が受けたパンチャカルマをおさらいしてみると、最初の1週間の薬液かけで、体表面のピッタを洗い流し、次のアヴィヤンガで、より深いところにある邪気を捨てる準備をしました。全身の皮膚にごま油をすり込んでマッサージしたのは、オイルで邪気をからめ取るためです。毛穴付近に集められた邪気は、スウェダナ(サウナ)で汗から出し、それよりも深いところの邪気は、腸に集めて下剤で捨てます。その後は、ご飯とミルクのマッサージで生気を補って仕上げです。
つまり、まず浅いところの邪気を発汗で捨て、次に深いところの邪気を下剤で捨てる(引き算)。その後、足し算で生気を補い、最終的にプラマイゼロに戻していることがわかります。
漢方の治療にも補瀉という考え方があります。生気をプラスすることを補(ホ)、邪気をマイナスすることを瀉(シャ)といいます。まちがっても現代医学のように、生気を瀉することはしません。これを誤治(ゴチ)といいます。
この、補瀉のタイミングと度合いが一番難しいのです。現代は、救急で漢方にかかる人はまずいませんが、昔は緊急の場合、補瀉で生死が分かれたそうです。早く邪気を除かないと死ぬという場合に、のんびり生気を補っていたら、その間に邪気が旺盛になって命を落とす。生気が不足しているのに、あせって瀉をかけたばかりに生気が失われてしまった。その判断は、名医でも難しかったと言われます。
こうしてみると、現代医学はいかにも単純です。抗がん剤治療で生気を奪われた患者さんに、漢方薬で元気を補うのならいい方で、ほとんどは何もしないで放置される。となると、ただでさえ生気の少ない患者さんが、治療前よりさらに生気を失って、がんにとって都合の良い環境を作るだけになります。
アーユルヴェーダのように、邪気だけを捨てさせ、生気を失わせない。そういう根本治療が望ましいと思います。
(挿絵:あい∞ん)
次回は、10月15日(木)更新「遠慮のないインド人」の予定です。
1件のコメント
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ぴょんぴょん先生、今日も素敵な内容の記事ありがとうございます。
「アーマの蓄積の浄化」、「名人芸は引き算」これらの言葉がとても心に残りました。
病気だけでなく、人間関係も含めて、すべてのことに応用できるのだと思います。
あい∞んさんのイラストを見ると、先生のお話がよりよく理解できます。
2番目のイラストのように、日々生気をみなぎらせた生き方をしたいものだと改めて感じさせていただける記事でした。