シャンティ・フーラのブログ

[スタッフ日誌] 第366回 パータの庭便り104

皆様、こんにちは。
前回の投稿から1か月が経ってしまいました。
皆様は、いかがお過ごしでしょうか?

この1か月の間は、世界のあちこちで災害があり、辛く長く感じました。
35℃を超える猛暑、熊本地震、コロンビア地震、ヨーロッパの猛暑と渇水、千葉での大雨被害…。熊本地震の前には、地震雲を見たので、地震がありそう…と思っていたし、最近はケムトレイルがひどく、また何かあるかと思ったら、千葉で大雨が降りました。良い話が全くありません。
そんな中、日本はホルムズ海峡が封鎖されても、政府や政商の努力があるおかげか、原油不足で「詰む」ことなく被災地を除いて普通に過ごせているのが不思議。茹でガエル状態か、何も考えずに済むようにされています。問題は先送りされているだけで、いつ何が起きてもおかしくないと思っています。

さて、8月6日の朝がた、目覚めてうとうとしながら心の中でずっとガヤトリー・マントラを唱え続けている自分に気付きました。起きた後、「今日は広島原爆の日だ!」と気づいた寝坊パータ。どうやら、8時15分の平和を祈る時間の前後に、自然とガヤトリー・マントラを唱えていたのでした。
8月9日の長崎平和宣言に、「平和の原点は、人間(ひと)の痛みがわかる心を持つこと」という被爆者吉田さんの言葉があり、本当にそうだと思いました。世界中の多くの人々は平和を望んでいるのに、人々に苦しみを与えるのが嬉しい、人の痛みを何とも思わないサイコパスの人が世界を動かしているのですから…、平和が訪れる日が遠く感じます。

まずは、自分の中の闘いをなくすことが大事で、多くの人の心が平和であるほど、私たちが望む良い地球の姿が実現する日が早くなるのではないかと思っています。

【千日紅】

昨年、種を蒔いたら千日紅が発芽したことを書きました。
千日紅の花がらをこすると、産毛に包まれた種が出てくるのです。

今年も、その種を分割ポットに蒔いたら、なんと全ての種が発芽してしまい、70個程の苗を移植出来る大きさまで育て、地面や植木鉢に植えるのに、時間がかかりました。

最近花が咲き始めて、あちこちで美しい赤紫色が目に付くようになり、自然の偉大なプレゼントを喜んでいます。

【イチゴ】

この暑い最中に、毎日1個イチゴが赤く色づき、朝の水やり時に見つけて食べるのが楽しみとなっていました。
中国地方は雨が少なく、あちこち地割れするくらいに地面が乾燥していて、毎朝1時間くらい水やりに励み、体力維持に役立っています。やっと少し雨が降り、ほっとしています。

【トノサマガエル】

エアコンの室外機の下に、熱を吸収してくれるかもと、水を張ったトレイを置いておりました。
朝、目が醒めてすぐに目に入ったのが、いい塩梅に水に浸かって至福の様子のトノサマガエル!そのご満悦な様子に、私もすっかり嬉しい1日を過ごしました。
翌日はいなくなっていて寂しく思いましたが、数メートル離れた植木鉢の間にそのトノサマガエルが潜んでいるのを見つけました。

カエルは、今生きていることを受け入れるお手本ですね。

【今日の情報~原爆の記憶】

広島県呉市生まれの私。小中学生の時の8月6日は夏休み中の登校日で、平和学習を受けて育ちました。そして、私の身内は、原爆の影響をもろに受け、その後の人生に大きな影を落としたのでした。

私の父は、11歳の時、広島爆心地から直線距離6.5㎞の坂町で原爆を見聞きし、原爆投下直後に広島市に入ったことで原爆手帳を持っていました。
私の叔母は、学徒動員で駆り出され爆心地から約1.2㎞の広島市内(現国泰寺町)で被爆し、全身やけどで全身包帯、水膨れ状態で帰宅後、夜中に亡くなりました。その叔母は、下痢して休んだ次の日の原爆投下日に無理して出かけて被爆したので、出かけたことを悔いていたそうです。
当時16才の叔父も爆心地より2.7㎞の旧広島陸軍被服支廠(出汐町)で、目の前で同級生が吹き飛ばされたのに自分は生き残り、今でいうところのPTSD(心的外傷後ストレス症)で生活を破壊されました。
私の祖父は、たまたま広島市内に行かずに済み、被爆しませんでした。

さて、私は亡き父の被爆体験を記録に残しておけばよかったと思っていたのですが、母が昨年死んで家を整理していたら、父の自筆の原爆体験談がいくつか出てきました。叔母の日記や絵もあり、最近それに目を通してみて、叔母が飼っていたヒヨコの名前が「ピヨチャン」だったと読んで、とても切なくなりました。かつて普通に生活していた市民の多くが原爆によって命を失い、残された家族の悲しみや苦しみもどんなものだったか…と思うのです。

「恒例の夏休みラジオ体操を終えて、8時14分頃、西空に去り行くB29を眺めたら、『警戒警報解除』の報を聞いた。その直後、西方広島方面より百雷のごとき閃光と轟音発生、その直後、物凄い学風がやって来て、窓ガラスを吹き飛ばし、校舎の柱も折れていた。」

原爆の威力が大きいですね。また、亡くなった叔母について、妹だった叔母が、

「彼女は、お友達と空を見上げていたら白いコップのような物が落ちて来たそうです。これが原子爆弾だったのです。その瞬間火の海となり、洋服に火がつき、みんなで砂をかけ合ってからだの火を消したそうです。」

と書いており、その叔母は空を見上げていたため、喉の奥まで真っ黒に焦げていたそうです。熱線、熱風が恐ろしい。

さて、資料の劣化や損傷、保管場所と人材不足のために、戦争資料の廃棄を検討する博物館が25%もあるそうです。父の記録も他の多くの体験談の中に埋もれて、目に留まることはないだろうと思い、そうだ! この庭便りの中で紹介させていただければ、父の体験も何かの役に立つのではないかと思い立ち、原稿の文字起こしをしました。

せっかく見つかった父が書き残した当時の記録の全文を、PDF文書の形で残します。読みにくいところ、誤字などご容赦下さい。
以下の画像をクリックすると、全文に飛びます。
お時間があれば、目を通していただけたら幸いです。

(クリックすると全文が表示されます)

この様な辛い想いをすることが無い世界であって欲しいと願うところです。
不幸の連鎖がなくなれば、世の中はもっと平和で穏やかな世界になるはずですから。

検閲マーク-小

パータ こと 泰子

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