上映会で、家族の絆「生き方1」(家族の絆〜親子3)をご覧になった方から、
次のご質問がありました。
「人生の目的=無目的」についての解釈を詳しく教えてください。
無目的では人間は生きられないのでは?
この質問について、竹下氏からの回答を掲載します:
言葉で表現するのがとても難しい質問です。
その人が神と共に生きているとき、あるいは別の表現では自然と完全に調和して生きているときは、その人の人生は無目的なのです。
例えば、私たち人類はあらゆる生命の中でただ人類のみが自然と調和していないと感じています。なぜなら人間のみが目的を持つからです。
私は、頭や手にいろいろと物をのせられても、静かに座っている”かご猫シロ”が好きなのですが、彼は眠っているわけではありません。眠っていれば頭が落ちるからです。彼は常に瞑想状態にあり、ただ静かにしているだけで幸せなのです。それほど心が満ち足りていて、落ちついている証拠なのです。
さて、かご猫シロの人生(猫生)の目的とは何でしょうか?
あまりにもバカバカしくて答えられません。ないからです。
彼は、ただ幸せに生きているだけです。彼はあるがままに幸せなのであり、自分以外の何かになろうとしていません。
逆に言えば、自分以外の何者かになろうとすること(目的に向かって努力すること)こそ、あるがままの幸福から自分を遠ざけるということなのです。
ですから現代人は、すべからく不幸になるための努力をしつづけているということになります。
人間の性(さが)として、悟りを得ている人以外は、かご猫シロのように常に幸福でいることはできません。人は無意識に何かを追い求めているからです。従って悟りを得ていない人には、人生にはっきりと目的があります。
すなわち悟りを得ること、心を清めて目的を追いかけて生きるのをやめる努力が必要なのです。
これが瞑想が必要な理由となります。瞑想とは、心を清める手段なのです。
皮肉なことですが、言葉で表現すると次のようになります。
人間の人生の目標は、心を清める努力をして悟りを得ること。
すなわち瞑想という精進努力の目的は、目的を持たない心の状態を達成することなのです。
一言では、”無目的が目的”なのです。
これは禅問答です。
次のご質問がありました。
「人生の目的=無目的」についての解釈を詳しく教えてください。
無目的では人間は生きられないのでは?
この質問について、竹下氏からの回答を掲載します:
言葉で表現するのがとても難しい質問です。
その人が神と共に生きているとき、あるいは別の表現では自然と完全に調和して生きているときは、その人の人生は無目的なのです。
例えば、私たち人類はあらゆる生命の中でただ人類のみが自然と調和していないと感じています。なぜなら人間のみが目的を持つからです。
"かご猫シロ" (出典:かご猫ブログ)
私は、頭や手にいろいろと物をのせられても、静かに座っている”かご猫シロ”が好きなのですが、彼は眠っているわけではありません。眠っていれば頭が落ちるからです。彼は常に瞑想状態にあり、ただ静かにしているだけで幸せなのです。それほど心が満ち足りていて、落ちついている証拠なのです。
さて、かご猫シロの人生(猫生)の目的とは何でしょうか?
あまりにもバカバカしくて答えられません。ないからです。
彼は、ただ幸せに生きているだけです。彼はあるがままに幸せなのであり、自分以外の何かになろうとしていません。
逆に言えば、自分以外の何者かになろうとすること(目的に向かって努力すること)こそ、あるがままの幸福から自分を遠ざけるということなのです。
ですから現代人は、すべからく不幸になるための努力をしつづけているということになります。
人間の性(さが)として、悟りを得ている人以外は、かご猫シロのように常に幸福でいることはできません。人は無意識に何かを追い求めているからです。従って悟りを得ていない人には、人生にはっきりと目的があります。
すなわち悟りを得ること、心を清めて目的を追いかけて生きるのをやめる努力が必要なのです。
これが瞑想が必要な理由となります。瞑想とは、心を清める手段なのです。
皮肉なことですが、言葉で表現すると次のようになります。
人間の人生の目標は、心を清める努力をして悟りを得ること。
すなわち瞑想という精進努力の目的は、目的を持たない心の状態を達成することなのです。
一言では、”無目的が目的”なのです。
これは禅問答です。
(2012.6.29 竹下 雅敏)
3件のコメント
【シャンティ・フーラからの注意】
コメント欄への投稿は、シャンティ・フーラのスタッフが承認したものだけが掲載されておりますが、掲載・非掲載の判断は、投稿された情報の信頼性・妥当性をもとに行っているものではありません。
これまでは、志というものを目的に生きてきました
志が何か分からないので、伝習録や論語、老子、ちまたの自己啓発本、セミナーなどで哲学、世界観を学びながら、自分の内面と目の前の現実と向き合いながら、少しずつ言語化してきました
大学生になってから、今まで約10年それをしてきました
けれど、ここに来て、それがしっくり来なくなりました
表現力は間違いなく身についたので、その過程は無駄ではありませんでしたが、
正直なところ、ガヤトリー・マントラを唱えれば、すべてがそこにあるようにしか思えません
あれやこれや頭で考えるよりも、ガヤトリー・マントラを日々唱えながら、日常と向き合えば、それで十分な気がしてきました
同じ記事に二度もコメントするのは、どうなのかと、思ったりしましたが、それほどまでにこの記事の言葉は響きます。
ぼくがシャンティ・フーラに行き着く前、大学院生でしたが、その時に色々とあり、嘆き悲しんでいました
とある神社で、なんでこんなことになってしまうんだ、と思いをぶつけてました
その中で色々と言いながらも、「それでも自分にとって一番の願いは、女性と結婚することだ」と言ったのを覚えています
その時は、志を意識していたので、異性との関係というのは、本心ではそうは思わなくても、低俗なものという観念が拭えなかったです
それでも結婚、夫婦関係が大事だと言えたのは、自分にとって大きな一歩でした
それから1年足らずで、こちらに出会い、これだ!と思ったのを今でも覚えています
自分が大事だと思うことが、心の底から大事だと言っている人に正直初めて出会いました
それから必死に学びました
ガヤトリー・マントラもかなり唱えました
家族との人間関係も調和的になりました
そして、ふと、”奥さんがほしい”という願いも手放さないといけないなと思いました
続きです
願いを捨てても
準備ができて
タイミングが来たら自然と叶うだろう
願いを持ってるか、持っていないかは関係ないだろう
と思うようになりました
その時の心境を感じ切った時に
「小学生の頃ってこんな感じだった気がするなぁ」と思いました
随分と無駄なことしていたな、と落胆に似た感情を持ちました
今は、悲しみとも、落胆とも、何とも言えない感情が渦巻いていて
幸福は、あるようで、ないような感じですが
これでいいんだろうなと、思ってます