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宗教学講座 初級コース 第128回 ギャーナ・ヨーガ(アートマン)

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前回「ギャーナ・ヨーガ」(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著、日本ヴェーダーンタ協会)から講話を一つ説明しました。それはシャンカラの不二一元論とまったく同じで、意味が分かっている人には、すらすらと意味が取れる内容でした。今日は「アートマン」という講話の中から取ってきます。結論を先に申し上げると、これが分かる人はいないと思います。どんなに解釈をしようとしても論理的に破綻していて解釈を拒みます。これをギャーナ・ヨーガ、不二一元として聴衆に解説するのは、分からない人により混乱した情報を伝えてしまうことになります。 ヴィヴェーカーナンダはシャンカラが何を言ったかを理解していません。シャンカラは、古来からずっと伝わっているヴェーダの解釈「ブラフマスートラ」の、1)祭祀をして生天(天界に生まれ変わる)する、2)知識によって解脱する・ブラフマンを悟る、という両立しないものを、ヴェーダには誤りがないという立場から、双方を生かして裁かないといけない、それで勝義諦と世俗諦という2つに分けて解釈したわけです。その世俗諦(方便の真理)の中に大きく入っていたのがブラフマンから宇宙が流出したという「流出論」なのです。これを認めてしまうとシャンカラの立場にならないわけです。 ヴィヴェーカーナンダが人々に、ブラフマンから宇宙が表れたと流出論を説明して、ブラフマン=自己としてしまったら、シャンカラが裁く(整理する)前に戻ってしまい、分からなくなってしまいます。ヴィヴェーカーナンダが西洋に東洋の思想を紹介したのは凄い、それは認めますが、彼の哲学はそれとは別に吟味しないといけないということです。

宗教学講座 初級コース 第127回 ギャーナ・ヨーガ(絶対者と現象)

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「ギャーナ・ヨーガ」(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著、日本ヴェーダーンタ協会)。ギャーナ・ヨーガとはジュナーナ・ヨーガ、智慧のヨーガのことです。講話としては相当レベルの高い内容です。いくつかあるのですが、その中で「絶対者と現象」という講話をとってこようと思います。不二一元論の観点から説かれているもので、検証をしてみたいと思います。インドの精神世界、宗教の中で、かなり難しい方に入るだろうと思います。ちゃんと分かっている人は少ないと思います。 今日、講義を聴いていただくと、実は非常に簡単なことが書いてあって、今までの知識をちゃんと理解していると、もっともなことが書いてあるというのが分かると思います。 これまでお話ししているように、シャンカラの一元論はものすごく単純で分かりやすいものなのです。「私」を「自己」という意味でとらえていて、それ以外には使っていないと理解していると、非常に簡単に分かるものなのです。ただ、多くの方は「私」と言ったときに「身体」とか「心」のこととしますので、そいういう理解をしているうちは、シャンカラの理論はひとつも分からない。だからヴィヴェーカーナンダも分からない。簡単に言うとそれだけのことなのです。 シャンカラの一元論では、宇宙と自己(絶対者)は無関係なのです。自己が自性(プラクリティ)を経由して宇宙になるとは、一元論では考えないのです。前回、宮元啓一さんが言っているように、昔のヴェーダは流出論で、ブラフマンから宇宙が流出したと考えていたのです。それを否定しているのが一元論なのです。

宗教学講座 初級コース 第126回 不二一元論(アシュターヴァクラ・ギーター)

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今回は不二一元論の最後です。 「 アシュターヴァクラ・ギーター(真我の輝き) 」(トーマス・バイロン 著、福間巌訳、ナチュラルスピリット)。ラマナ・マハリシも「この本は良いから読みなさい」と推薦をしている本です。マハリシが推薦していることから分かるように、シャンカラの不二一元論の立場で悟りの境地が詩として描かれています。悟りの喜び、悟った喜びを詩に書いている。一元論の立場からこの本を読んで、一元論の理解を深めていきたいと思います。 === 土、火、水、風、空 あなたはそれらではない もし自由になりたいのなら あなたはこれらすべてを観照する真我 覚醒のハートだということを知りなさい === 「観照する真我 覚醒のハート」といういい方ですが、ラマナ・マハリシも真我はハートにあると言っています。 参考サイト)銀行からお金を引き出すことについて せれなさんのブログ「光の海から」東電と銀行の関係 無血革命の起こし方 http://blogs.yahoo.co.jp/kwkm88/29585729.html

宗教学講座 初級コース 第125回 不二一元論(気づき)

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「インドの「一元論哲学」を読む」シャンカラ「ウパデーシャサーハスリー」散文篇(宮元啓一著、春秋社)を題材にシャンカラの不二一元論を説明しています。これが1章と2章に分かれていて、前回までで第1章の「弟子を目覚めさせる方法」の説明を終わりました。今回は第2章の「気づき」で、ここがちょっと難しい部分があるのです。言葉の使い方がやっかいで丁寧に読まないといけません。けれども、シャンカラが言葉をどういう意味合いで使っているかを理解すれば比較的容易に理解できます。今回の講座でこの本の一番大事な部分を一通り全部説明して、不二一元論を終わろうと思っています。 シャンカラがなにを目的としたかというと、仏教によってアートマンは無いとインドの中で否定されてきましたが、そうではなくて、アートマンこそ真の実在であるということを宣言して、古来からのインドの伝統を復帰させる哲学を作ったということなのです。

宗教学講座 初級コース 第124回 不二一元論(差異の理解)

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「インドの「一元論哲学」を読む」シャンカラ「ウパデーシャサーハスリー」散文篇(宮元啓一著、春秋社)のつづきの部分から説明をしていきたいと思います。 単に「自己」「私」という言葉の意味を理解できていたら、すらすら理解できる類のもので、哲学というのはそういうものなのです。それが間違って理解していると、何をいっているのか分からなくなる、ただそれだけのことです。 === したがって、 差異の理解は禁ぜられているのであるから、 また、祭祀に入れ込むことは差異の領域に属することであるから、また、 聖紐などは祭祀の手段であるから、 祭祀の手段に入れ込むことは、〔個別自己と〕最高自己とが不異であるとの気づきにもとづいて禁ぜられたのだと知られるべきである。 p70−71 === ※ 聖紐(せいちゅう) 聖紐には人が亡くなってから天国へ行く時、その前に渡らなければいけないバイタルニー川(三途の川)を楽に渡れるようにとの祈りが込められています。手首に巻いた聖紐は、<ティハール>というお祭りの時、牛の尻尾に巻きます。そうする事で三途の川を渡る際に、その牛の尻尾を掴んで簡単に川を渡ることができると信じられています。

宗教学講座 初級コース 第123回 不二一元論(あなたは誰か)

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「インドの「一元論哲学」を読む」シャンカラ「ウパデーシャサーハスリー」散文篇(宮元啓一著、春秋社)。シャンカラの著作として認められているも。非常に読みやすい良い本です。宮元啓一さんがシャンカラの哲学を非常に良く理解しているので解説が非常に明晰で分かりやすい。 === 「このように天啓聖典と憶念聖典とによって最高自己の特徴を理解し、輪廻の海を渡ろうと願う弟子に、次のように問うべきである。すなわち、「愛児よ、あなたは誰か。」と。p38 === ラマナ・マハリシと同じですね。「わたしは誰か」と自分に問いかけなさい、と言っている。

宗教学講座 初級コース 第122回 不二一元論(梵我一如)

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前回シャンカラの不二一元論のおおまかなストーリーを説明したのですが、ヴェーダーンタ学派の根本経典「ブラフマ・スートラ」から流出論を排斥することで、ブラフマ・スートラ上手く説明できるようになったということでした。流出論を排斥したという意味合いがどういうことなのかが今回のテーマです。何が問題かということを分からないといけません。それは「梵我一如」の意味なのです。アートマン=ブラフマン、梵我一如の梵とはなんなのか、我とはなんなのか、この言葉の意味が全然定義されていないのです。 サーンキヤ哲学を復習しておきます。 自己(プルシャ) ↓ 自性(プラクリティ)→心→我執→・・・ サーンキヤ哲学は二元論です。自性から世界が展開し、自己は何もしないただの傍観者です。自性から世界が流出してそこに帰って行くというのがインド最初の哲学者ウッダーラカ・アールニの「有」の哲学ですから、ウッダーラカの立場で言うとブラフマンは自性(プラクリティ)になるのです。ところが、同時代のヤージュニャヴァルキヤはアートマン(真の自己)ということを言い出して、梵我一如、アートマンとブラフマンの同一性ということを言い出すわけです。そうするとブラフマンが自己ということになります。梵我一如とは何を言っているのか、誰も定義できないということが問題なのです。

宗教学講座 初級コース 第121回 不二一元論(流出論)

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シャンカラの不二一元論(アドヴァイタ)を説明したいと思います。「インドの「一元論哲学」を読む」(宮元啓一著、春秋社)の最初の部分はシャンカラの著作を解説しています。良くまとまっていて非常に優れているので、その部分を取り上げたいと思います。シャンカラは隠れ仏教徒と言われており、その哲学は仏教とほとんど差がありません。唯一の違いは何かというと、アートマンを認めるということです。仏教はアートマンやブラフマンを認めません。ここだけが違うというぐらいで、思想的な部分は仏教に依存しているのです。 これまで非常に長い間、大乗仏教を丁寧に説明してきました。かなり難しいこと、大学の東洋哲学の哲学科の人も分かっていないような、研究者の方もはたと膝を打つ内容をやってきているつもりです。だからこれまでついて来れた方は、シャンカラの不二一元論はものすごく簡単です。仏教はプルシャとプラクリティを認めないが故に支離滅裂になっていて、何を言いたいのか全然分からないということになってしまうし、各派閥によって言っている意味が全部違っています。そういうことが、シャンカラの場合は一人の哲学ですからないわけで、非常に明晰なのです。そういう意味で言うと、最も分かりが良く簡単だということになります。それは大乗仏教の知識を前提として簡単であるということです。大乗仏教とか唯識論、サーンキヤ哲学を全然知らないで、シャンカラの哲学だけ最初に読んだら全く分かりません。歴史的にも順番にそうなっており、前のものの基礎を前提としてある程度理解できている人は、シャンカラが何を言いたいかという要点さえ掴めば、これは非常に明解で簡単、シンプルな哲学であるということです。