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概要
前回はシャンカラの不二一元論を概説した。今回は、彼がブラフマ・スートラをうまく説明するために、流出論を排斥したことの意味を解説する。ここでの根本的な問題点は「梵我一如」をどう解釈するかである。また、サーンキヤ哲学や私(竹下氏)の立場と比較しながら、シャンカラの哲学的立場を見ていき、最後に「梵我一如」の私流の解釈を示す。
目次
1.梵我一如 (00:00:00)
梵・ブラフマンの意味はサーンキヤ哲学では自性、シャンカラでは自己であり、使う人により異なっている。そして梵我一如の意味するところも、未だ明確には定義されていない。そこでブラフマンを自己と捉えること(シャンカラの立場)に対して、「宇宙の本質ブラフマンと自己の本質アートマンが同一」即ち「梵我一如」の意味を明確に解釈することで、流出論排斥の意味も明らかになる。
2.自己の存在 (00:20:20)
ここから宮元啓一著「インドの『一元論哲学』を読む」をテキストとしてシャンカラの哲学を見ていく。自己は認識主体であるがゆえに認識対象にはなり得ない。従って、自己は探して見つかるものではないことを踏まえ、自分探しの滑稽さについて話す(余談)。
3.シャンカラは解脱者?、聖者? (00:38:50)
ブラフマン=自己の知識を得ると解脱する。そのためには正師に「正しい作法で近づく」ことが必要だと天啓聖典に記されている。ここで「正しい作法で近づく」とはバラモンでないといけないという意味である。バラモンを「生まれ」ととるか「心根」ととるかで二通りの立場がある。
4.常住のもの・無常のもの (00:51:30)
自己・自性を実在とするサーンキヤ(二元論)哲学に比べ、ブラフマン・自己のみ実在とするシャンカラの哲学は分かり難いものである。彼がここまで自己・アートマンを強調した背景について簡単に触れる。
5.認識の由来 (01:06:00)
本章は最も重要な内容である。1. 世界が無明・自性へ回帰したとき認識対象は存在するか否か? 2. 解脱の手段であるため重要視される認識(知識)は自己、自性のいずれに由来するものか? 以上2点についてのシャンカラの立場を見ていき、私(竹下氏)の立場からシャンカラの誤りとテキストの論理的欠陥を指摘する。
終わり(01:31:40)
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参考文献
- 「インドの『一元論哲学』を読む」宮元啓一著、春秋社
6件のコメント
以前にYouTubeで宇宙の動画を見てからは、この世界は小さなものが集まって大きなものを形作りさらにそれが集まってさらに大きなものを形作り、、、それはミクロの世界でも同じで「相似形」だなぁと思っていました。臓器と同じで似たようなものが集まり、一つの塊として「機能」を持っているんだろうなとも。しかも実は潜在的にはどんなものにもなれる能力があるというオマケ付き(幹細胞)。人体が小宇宙といわれる所以が分かる気がします。人体を見ると宇宙が分かるというか。。。
また、地球という生命体の上で活動する人間や動物、その人間や動物の上で活動する細菌たち、、、同じだなぁって思います。惑星の外で生活する我々は皮膚常在菌、惑星内部で生活する人達は、腸内細菌でしょうか。そう考えると細菌達やあらゆるものに意識があることが分かる様な気がします。逆に地球としての意識、銀河系としての意識などの大きな意識もあるかもと妄想していました。マクロの部分をとってもミクロの部分をとっても似たような構造になっているのだろうなと。これって梵我一如の概念だったんですね(笑)。
大いなるヤツとヤツは同じようなヤツってことがもの凄くよく分かりました。フラクタルは何度見ても感動します。ヤツを見ていると人と比べることの無意味さが分かります。ヤツはヤツのまま偉大な存在なのだと感じました。長々とすみません。いつも勉強になります。ありがとうござました。
「人間がなぜこんなに悩むのか…。」
自己の存在感の消失、経験しました。
それで瞑想をはじめたのかな、頭の中を空っぽにする時間がすごく心地よくて…。
みんな放り出したいことは沢山あるのにできないのかな、がんじがらめですよね。
放り出したほうが楽なのに、放り出さない方を選択してしまう。
世間体ですね。
竹下先生は、西洋哲学は「すべての物事は知られ、かつ言語表現できる」という立場だと説明し、前期ウィトゲンシュタイン哲学を例に挙げています。一般に西洋哲学に上記の傾向があるのは確かですが、ここでウィトゲンシュタインを引き合いに出すのは不適切です。前期ウィトゲンシュタイン哲学は、「語り得るもの」の領域を確定することで、その外側に「語り得ぬもの」の領域を確保しようとしたのであり、「語り得ぬもの」の存在を否定したのではありません(カントが『純粋理性批判』において認識の限界を定めることで、信仰の余地を残そうとしたのと似ている)。ウィトゲンシュタインによると、自我(das Ich)は「語り得ぬもの」であり、この点で、むしろインド哲学史の主流に近い立場なのです。ただ、竹下先生の立場では、ウィトゲンシュタインの言う自我とインド哲学における自己(プルシャ)は別ということになるかもしれません。
難しい~ でも、おもしろくて次が見たくなる~。
「存在とはなんぞや」と考えていること自体が「存在している」証明であり、
「認識できない」ことを、「認識している」自性とか、おりゃ?って感じ。
ただ、サーンキャの展開図が、すべて、同じ素材でできていること、
しかも、それぞれ複雑に入り組んでいて、分けられないこと。
そんなふうな環境に、「私」はおるんですねえ~。
言葉の概念といいましょうま、明確さは大切なのだな。と思わされました。最近、非二元がブームなのです、「わたしはいない」は、結局は自性から流出している わたし なので、「わたしはいない」になるのでしょうか?
「わたしは在る」なら、自己(プルシャ)からなので、有が無を生むことになる。
確定したわたしがもういる!はじめから在る。そこから光が出て自性というレンズを通して心に焼き付けてこの世が映し出されている。で、いいのでしょうか。
「わたしはいない」となると虚無になってしまい、この世の意味さえなくなってしまいます。
わたしはいて、スクリーンを観ている存在だと思っていいのでしょうか?
自己と自性をカメラに例えた説明がわかりやすかったです。
同じ素材でできているけれど、機能が違う。
絶対に分けることができない。
竹下先生のおっしゃる「梵我一如」を
なんとなく理解できたように思います。
「ぼんぎゃいちにょ」と噛んだところも
見逃せませんでした。