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概要
今回は景教が伝来して、聖武天皇、東大寺の大仏建立、光明皇后、空海にまで非常に大きな影響を与えた痕跡を詳しく見ていく。そして秦氏が平安京を作ったとされる説を検証していき、そこで背後で働いた神々の存在を明らかにする。さらに仏教立国を理想としていたとされる聖徳太子の本当の姿を見ていくと、キリスト教は紀元1、2世紀位にはもう日本に入っていて民間レベルでも浸透していたことがわかる。この部分を押え、後の歴史の流れの解釈へと繋げていく。
目次
1.日本への景教伝来 (00:00:00)
広く一般化しているザビエル以降がキリスト教だとする論理を覆す情報やキリスト教の痕跡となるものは、今でも随所に残っていて確認することが出来る。ペルシャ人の外科医で景教の宣教師である李蜜医らの来日や、彼らが聖武天皇から位を授けられたこと、国分寺建立の詔の中で国分尼寺を「法華滅罪」の寺と呼んだことなどからも、皇族に景教が広まっていったことが推測される。また、聖武天皇の妻、光明皇后の慈善の考え方や実践は仏教の教えではあり得ないこと、さらに稲荷神社と関係のある密教と景教の意外な関係性から日本が仏教国だとすることの矛盾を突く。
2.平安京を作ったのは秦氏? (00:14:39)
秦氏の土木技術、土地、遷都のための巨額の資金提供により平安京が作られたとする根拠を詳しく読み解いていく。また、秦氏が創建した松尾大社、下鴨神社、上賀茂神社、延暦寺の関係性を地図上で読み解き、加えて稲荷神社の系図からも秦氏が平安京を作ったとしか思えない事実が明白になる。そしてその系図と神社の祭神を精査していくと、平安京を作るに当たって背後で働いていた神々の存在が明らかになる。
3.聖徳太子は仏教徒だったのか? (00:33:22)
聖徳太子が仏教徒ではなくキリスト教徒であったことは、伝説の中にキリスト教が色濃く反映していることや、側近や家庭教師がペルシャ人でキリスト教だったことからも明らかである。ただし、時代的に景教ではなく原始キリスト教だと考えられる。その根拠を丁寧に見ていくと、聖徳太子が理想としたのが仏教立国ではなく、天皇を祭祀王とする神道国家を目指していた事実に辿り着く。そして、なぜ聖徳太子を暗殺してまでキリスト教を封印してきたかという日本史最大の謎が炙り出されてくる。
終わり(00:54:04)
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参考文献
- 「隠された十字架の国・日本(逆説の古代史)」 ケン・ジョセフ:シニア&ジュニア著 徳間書店
5件のコメント
聖徳太子は仏教徒だったというのは後世の捏造で、実際は原始キリスト教徒だったことがわかりました。
「ホツマツタエ」
読んでみたくなりました。、昔の日本を知ることができるんですね。「五七五」なんて、私にも、理解できます様にと、お願いにいきます、隣の神社に。そういえば、神様のお墓もあるのです。聞いたときは、ビックリしました。
天皇陛下は、北斗七星の星を十二支の順に、元旦に御挨拶なさっているそうです、まだ、暗いうちから。なぜ、北斗七星なのかも知りたいので、イロイロ調べてみる楽しみがふえました。
景教とか、仏教とか、密教とか、チャンポンみたいな国だと思いました。
大学の授業では、聖徳太子は仏教の慈悲の思想に基づいて悲田院を設立したと習いましたがウソだったんですね(笑)
聖徳太子は仏教徒などではなく、景教徒(キリスト教徒)だったというのは驚きです。
そして日本には、ものすごく古くからキリスト教が入ってきていた、と。
今まで習ってきた歴史は何だったんだという感じです( ゚Д゚)
日本の古代文化にユダヤの流れがあるのは、なんとなくは知っていたが、
文献をもとに説明されているので、勉強になりました。
改めて、先生の講座で日本の歴史を学びたいと思います。
四天王寺って、アジール的だと思ってました。貧しい人たちを受け入れるアジール的ば場所、それは原始基督教の思想がとても影響していたからなのだとあらためて思いました。
だから古代、四天王寺はアジールになり得たのだと思う。
聖徳太子はいなかったという説は、一度に10人の話を聞き分け、仏教を拡めた天才的な作り話の聖徳太子は存在しなかったけど、厩戸皇子はいたのだというのは納得です。だって、聖徳太子のブレーンである側近の秦氏が原始基督教なのに、仏教なんて変ですよね。
四天王寺がなぜアジール感があったのかという謎が解けたように思います。
ありがとうございました。