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今回は十二因縁説の最終回で、仏教はこれで一区切りということになる。十二因縁説の誤りについて考察し、仏陀が悟った三転十二行相の復元を試みる。そして仏陀による縁起に基づく解脱の方法論をはじめ、ほとんど全ての宗教が犯してきた大きな間違いを指摘し、正しい道を提示したい。
前回は十二縁起の各項目を大まかに説明したが、「名色」と「六処」についての問題点を残していた。今回は、この二点と最大のポイントである「取」を解説する。「取」は十二縁起の本質だが、執着と訳され全く理解されていないことが多い。そこで「取」を中心に、生まれ変わりのメカニズムをより細かく丁寧に、分かりやすく説明する。
今回は「仏教」下(ベック著)をテキストとし、十二因縁説の一つ一つの言葉(無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死)の意味を詳しく見ていく。この中で解釈に問題がある「名色」、「六処」、「取」は次回詳しい説明をし、今回と次回の講義で十二因縁説の本当の意味と問題点を明確にする。
今日から4回に渡り、仏教の非常に重要な教義である十二因縁説を詳しく解説する。1回目の今回は、「仏陀は何を悟ったのか」、また「十二因縁説は仏陀の直説か後世の添加物なのか」に関する私(以下竹下氏を指す)の見解を説明する。
次回から十二縁起を説明するが、その準備として五蘊(色受想行識)の深い理解が不可欠である。様々な宗教を理解する上でも非常に重要な内容だが、仏教徒を含めほとんど誰も理解していない。特に五蘊の本当の意味、十二縁起の「行(サンスカーラ)」と五蘊の「行」が全く別物である事、そして無明の意味について解説する。
前回で仏教の前半を終えた。仏教の問題点は、釈尊(仏陀、ゴータマ・シッダールタ)が何を悟ったのかが未だに不明な事である。釈尊は縁起を悟ったと言われるが、縁起は本当に釈尊が悟ったものか、それとも後の創作物かという問題に焦点を合わせて今後は説明をしていく。釈尊が実際に悟った事柄に関し、一般の理解とはかけ離れているが、私(以下竹下氏を指す)独自の明確な見解がある。この説明のために、今回は釈尊の最大の関心事を確認し、彼に対する多くの誤解を説く所から始める。
前回、仏陀はアートマンが存在するという立場も、存在しない(無我)という立場も共に愚かなものとして捨て、アートマンの存在に関する質問などには返答せず沈黙した事を説明した。今回は、仏陀がこの様な態度をとった真意、意図を別の角度から見ていく。
今回と次回は仏教の無我の思想を少し詳しく見ていく。仏教は無我と言って、真の自己・アートマンの存在を否定するのだが、これは「アートマンが存在しない」と言っているのではない。ここを理解しないと後の様々な哲理が分からなくなる。この最も微妙な部分を上手く説明していく事が今回と次回の目的である。
前回は仏教の基本教義とその後の発展を概観した。今回は、当時のインドにおけるバラモン教の宗教観から、仏教がどれ程逸脱した独創的なものだったかを見ると同時に、仏教の宗教観に対する私(以下竹下氏を指す)の見解も述べていく。
これから何回か連続して仏教を説明していく。仏教には非常に難しい部分、微妙な部分があり、最初から難問を扱うと混乱を招く。また、この講座は何も知識を前提としていないので、今回は仏教の基本教義と、後に発展した宗派を概観する。その過程で基本教義に対する通説とは異なる見解も述べていく。
シャンティ・フーラ 映像配信
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