試聴映像
映像を観る
- 時間
- 47分
- 価格
- 1.0 枚 500 円 ( 税込 550 円 )
概要
前回は「自己と世界―インド哲学の視点より」宮元啓一(ホームページ)をテキストとして、自己と世界に関する議論を見た。つまり西田幾多郎の哲学(唯識説)では意識を唯一実在としたため、自己が非実在になってしまった。では、通常我々が「私」と言っている自己をどう考えれば良いのかという結論の部分を今回は見ていく。
目次
1.世界外存在としての「私」 (00:00:00)
西田哲学において自己は実在ではないが、意識現象である「私」、自意識、自己意識は実在である。そうすると「私」とは心(意識)なのか身体なのかという果てしない議論が起こり結論が出なくなる。この堂々巡りの根本原因を探り、自己の正しい位置付けと「「私」問題」の解答を提示する。また、サーンキヤ哲学と物理学的世界観の関係にも触れる。
2.デカルトの物心二元論(迷走の出発点) (00:27:51)
「「私」問題」の迷走は、デカルトの物心二元論を大前提としたところから始まっている。ただの哲学・思想であるデカルトの二元論と、瞑想による実体験に基づくインドのサーンキヤ哲学の二元論の次元の違いを見ていく。
3.仏教徒には旅人は9人しかいなかった (00:32:45)
「寓話の中の10人の愚かな男たち」という例え話から、仏教とインド哲学の相違点を浮彫にする。またシャンカラの一元論の立場をとるラマナ・マハリシの教えを例にとり、自己・意識・物質の一つのみを実在とする限り納得のいく説明にはならない事を見る。
終わり(00:47:05)
※詳しい目次は、映像を購入してログインすると見ることができます。
7件のコメント
自分の内面を「意識」と「心」に分けて感じ取ることを、アダムスキー氏の「宇宙哲学」から学びました。
その学びがあって、竹下先生の講義がかろうじて理解できるようになっていると感じています。
この世では、この世界を理解するのに苦労していますが、多次元世界の中ではもっと難しいのでしょうか。
インド哲学では、自己は意識を超えていて、瞑想をして意識が完全に途絶えた所に出てくるものとのこと。自己を意識とするデカルトの誤りは、瞑想で確認できるのですね。
竹下先生は本当に具体的でわかりやすくてすごいです。
ラストの「十人の愚かな大人たち」の寓話がとてもシンプルであってかつ面白かったです。
仏教の無我ってそういうことだったのですね、
存在しないことにした。というのが可笑しかったです。
マハルシの「自己」のとらえかたは、世界は物質と言っているようなものだとは・・・おそれいりました。
とらえかた、関係性を理解するのはとても複雑で、瞑想ってとても大切なのだと改めて思いました。
自己と世界(1)(2)を続けて拝聴させていただきました。
西田幾多郎の哲学に初めて触れましたが、宮元氏のテキストを見て直ぐに唯識であると分かりました。
唯識の著名な研究者のお話しを聴いた時に抱いた疑問、明らかな論理破綻と矛盾を直ぐに想起させられました。
デカルトの二元論といいカントといいインド哲学の足元にも及んでいなかったのだなとあらためて分かりました。
この後いずれ視聴させていただくサーンキヤ哲学、それからナーガールジュナの思想について竹下師の明晰かつ眼ウロコな講義が今から楽しみでなりません。
竹下先生、やっぱりどの先生、講師の方よりも理解しやすいし、すごいと思います。涙。
十代の頃に触れた西洋哲学とインド・東洋哲学の違いがとても明快になりました。確かに思考の上だけの二元論と、瞑想を通して実体験として知った自己から哲学をすることの差は隔世の感がありますね。
学生時代に西田幾多郎氏の書籍なども少しかじっては、なんだかわかったようなわからないような、まさに思考の堂々巡りをやっていた頃が懐かしく思い出されました。
あと、仏教徒の「10人の愚かな男たち」の寓話が個人的にとてもツボでした(大笑
次回から仏教思想に入っていくのが今からとても楽しみです。
前回が難しかったので、最終的に理解できるか心配でしたが、無事スッキリしました!
最後の寓話の話は面白かったのですが、怖いなぁと感じました