試聴映像
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- 時間
- 80分
- 価格
- 1.0 枚 500 円 ( 税込 550 円 )
概要
大乗仏教の要である空の思想は、小乗の説一切有部の理論に対する批判から生まれた。従って、空の思想を理解するには説一切有部の教義を先に見ておく必要があり、今回から3回の講義をこれにあてる。
目次
1.導入 (00:00:00)
説一切有部の理論は支離滅裂で難解だが、真意を上手く汲み取ると面白い部分が見えてくる。
2.十八界(五蘊の細分化) (00:03:33)
仏陀は人間の構成要素である五蘊(色・受・想・行・識)の中にアートマンは無いと説いたが、五蘊の概念は、細分化された十八界(六根、六境、六識)の概念や、世界の構成要素を意味する法(ダルマ)という概念に発展していった。
3.説一切有部の五位七十五法 (00:20:12)
説一切有部は世界の究極の構成要素として五位七十五法を説いた。これは恒常な三つの無為法と無常な七十二の有為法に分けられるが、さらに細かい分類を概観していく。
4.五位七十五法の目的 (00:41:35)
説一切有部の法の研究(アビダルマ)には2つの目標があった。それは涅槃、解脱を説明することと、無我を証明することである。このために彼らが用いた方法と、その成果について解説する。
5.説一切有部の問題点 (01:02:06)
説一切有部は有為法を無常としながら、これを含む七十五法は実在であると矛盾した主張をした。またアートマンは存在しないとしたため「因果応報、輪廻転生の主体は何か?」という問題を作った。これらを解決するために考え出された刹那滅の概念と、私(竹下氏)が考える2つの解決策を説明する。
終わり(01:19:57)
※詳しい目次は、映像を購入してログインすると見ることができます。
参考文献
- 「空と無我」定方晟著、講談社現代新書
- 「ナーガルジュナ」中村元著、講談社
- 「解説ヨーガ・スートラ」佐保田鶴治著、平河出版社
- 「わかる仏教史」宮元啓一著、春秋社
7件のコメント
難しそう~、と思って再生すると、
お話を聴かないで、竹下先生の服に関心をもってしまいました。(以前にも…) 竹下先生のファンより
↑そんな感想読んでしまってから見ると つい服に目が釘付けになってしまいました。わざとねらってるのかな〜(笑)次回も楽しみ
難しい内容をわかりやすく具体例を上げながら説明してくだっさているので意外とおもしろかったです。こんなことを学者さんたちは議論しているのか…..う〜ん 単純にわかりやすい方が一般人には助かります。
わかるという感覚が納得いきました。
宗教学講座は、前のめりでわくわくしながら観れる回と、難解でついていけない回があります。
今回は後者でした・・・。
しかし、あとの講座のために必要なのでしょう。
これまでも、後の講座を聞いて納得することがありました。
この後どのようなお話しが聞けるかたのしみです。
私もシャツに気を取られてしまいました。
月を観るのでなく、指し示す指を観るのでもなく、色(しき)、構成という単語がでてくると、シャツを観察したくなりました。
いつものように、講義をする竹下先生。
しばらくしてから再度視聴して、もう少し理解しなければと感じました。
仏教は、サンキャ哲学とちがって、アハンカーラを飛ばして解脱をさせるための思想だったのだろうか。我は否定する目的となり、自己を空しくする苦行の上に解脱を説いたのだろうか。名の残っていない仏教徒で解脱した人はいるのだろうか。出来そうな感じもする。仏教は解脱に至るあいだの、アハンカーラ、ブッディという段階がわからなかったのだろう。解脱だけがあるので、なんとかそこに橋を架けようとしたのはわかる。私自身、アハンカーラ、ブッディというのは、心理的な状態や理解によって了解したとき、つまり理詰めで悟ったときに到達できるものだと思った。つまり「方法」があるのだと思った。それで本や論文を読んでみたけれど、どうやら、瞑想で没入しなければ到達できずに、「方法」がないものであることに気付いた。我執というくらいだから、エゴの強い人なのかと思ったけれど、進化段階あるいは体表の波動が0,1の人との区別がつかなかったりする。こころの状態を分析した仏教は、いろんな気付きを得ることができるが、感情と一体となった想念の、感情を我と一緒に止念することで解脱できると思ったのだと感じた。感情を消すための体系だとしか思えない。よくもわるくも。竹下先生の仏教講義がなかったら、難しいし、文献もどれ読めばいいのかよくわからないので、一生縁がなかった気がします。もうちょっと仏教講座みていきます。
意(マナス)は感覚器官、意識はその中の電磁的反応、法は意識の内容として区別すべきとのこと。形而上学的仮定は少ない方がよいとされているので、霊眼で意を見るか、『魂の科学』を読んでいなければ、これらを混同するでしょうね。
無我にとりつかれている人達に、無我説を捨てるという選択肢は無かったんでしょうね。仏教徒も当然、霊道を受けていたと思いますので、ワザと混乱させられていたのでは? と勘ぐりたくなります。
一番捨てられないものを捨てることが、真実への道だったわけですが、自分の中にも同じようなものがないかと内省したくまりました。