宗教学講座 初級コース 第78回 大乗仏教(中論:相依性の縁起)

試聴映像

映像を観る

時間
86分
価格

概要

前回、小乗仏教において時間的な強意の因果関係と理解されていた縁起の思想を、ナーガルジュナが相互依存関係に拡大解釈して論理を展開したことを話した。今回はこの部分を突き詰め、丁寧に解説する。

目次

1.有と無の相依性に関する議論 (00:00:00)

有と無に関するナーガルジュナの主張を、ある立場から完全に論破することで、彼の立場を鮮明にしてみる。

2.ナーガルジュナの才能 (00:21:37)

ナーガルジュナとマイトレーヤの才能(哲学、語学、宗教、論理)のレベルを公表する。

3.縁起と因果関係の違い (00:27:35)

縁起とは、①「これがあればかれがある」と②「これがなければかれがない」の両方が成り立つときの「これ」と「かれ」関係のことだった。ここでは縁起と因果関係の違いを説明する。

4.相依性の縁起 (00:47:59)

前章①の対偶①′「かれがなければこれがない」を用い、ナーガルジュナによる相依性の縁起を定式化して、従来の縁起(前章の①かつ②)との違いを見ていく。また、対偶についても解説する。

5.ナーガルジュナの誤り (01:09:09)

ナーガルジュナは、対偶を用いて従来の縁起の表現「無明に縁って行があり・・・」を、「行がなければ無明も生じない・・・」と書き換えた。無明と行のように時間の前後のある関係で、この様な書き換えが可能か否かを検証する。最後に、ナーガルジュナの議論の意図、問題点、改良点について簡単に述べる。

終わり(01:26:19)

※詳しい目次は、映像を購入してログインすると見ることができます。

参考文献

うんこの全体、しんにょう、すり替え、ふんにょう、わき見運転、アリス・ベイリー、サーンキヤ哲学、パタンジャリ、プラクリティ、プルシャ、ベンジャミン・クレーム、一、一方向的な時間的生起関係、不浄、中道、事故、人間のである、倒錯、双方向的な相依的関係、善行方便、多、天之御影命様、天界の学校の小学生、妄想、対偶は真、巧みな手立て、浄、無明の滅、煩悩、狡い、空、紙がある、自性がない、自性ではない、般若経作者、菩薩の徳、行の滅、西暦500年、論理の飛躍、論理的相関関係
Share.

About Author

3件のコメント

  1. 参考になった(4)

    内容とは関係ないですが、ちょっと感動したので書き込み致します。

    自分の中でどうしても願望を手放せずモヤモヤしてことがあり、なぜ手放せないのか、また、そうしなきゃいけないのか?という答えを求めていました(あってもいいと思えた願望だったからです)。自己を見つめても納得できる答えが出なかったので神様に答えをくださいと祈って過ごしていました。
    ふと、何となく映像配信で見ていないところを見ようと思って、この回を見ていたらそこに答えとなる言葉がありました。答えを見つけたら、それまであった心のモヤモヤが嘘のようにす〜っと消えました。その答えは「○○だから願望を捨てなさい」ということだったのですが、人は本当の答えが見つかれば、自分にとっては厳しい内容でも受け入れられるのだなと思いました。そして、妙に納得できたので抱いていた願望がなくなりました。なかなかしつこく頑固な願望だったのですが、こうもあっさりと落ちるとは思いませんでした。

    「[光の素足]”気づくと消える”はホントだった」(http://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=43010)は、ホントでした。ガンコな汚れにも効くことが分かりました。答えをくださりありがとうございましたm(__)m

    内容も面白かったです。なんか頭の体操になり、頭が良くなった気がします(笑)。あのキャラの前身はここに出てたんですね。

  2. 参考になった(0)

    どんなものも本性上、有(プルシャ)かつ無(プラクリティ)だが、ナーガールジュナは形而上の有無と形而下の有無を混同しているとのこと。概念をきちんと区別しないと、正しい結論は得られません。

  3. 参考になった(0)

    ナーガルジュナの才能に唖然、マイトレーヤの才能にボー然、
    この程度の才能は、先生の天界の学校の小学生レベルだそうです。
    これで小学校に入学できるのなら、私も入学したいです!!!

    論理学の対偶という関係性と、その対偶の時間的な前後関係を含めた正しい取り方は
    「でない」と「がない」等のすり替えに続いて、ナーガルジュナの論法のトラップを理解する
    大切な視点でした。

    縁起=非自性=空とし、非自性をものが自性でないと定義すれば、論理は完璧になり、
    説一切有部や般若の思想も生き残って、両方が並び立つとのこと。
    確かに、無為法を認めるか認めないかという立場の違いはあるけれど、後の五蘊はそうなりますね。
    しかし、論理的に整合性がとれても、ストレートに真実とは言えませんよね。無我説ですから。
    今回、ナーガルジュナへの反論を通して、ある立場に立てば、議論は何とでも言えるということを
    解説されていました。
    これらを考慮すると、真実は最終的に直観によって導かれるということなのかもしれませんね。