試聴映像
映像を観る
- 時間
- 98分
- 価格
- 1.0 枚 500 円 ( 税込 550 円 )
概要
前回までで中論の基本を一通り押さえたので、漸く梶山氏の名著「中論と空Ⅰ」をテキストとして本格的な内容に入ることができる。ただ今回は、ナーガルジュナの論法を明確に理解するために、彼が批判した説一切有部の主張とその誤りについてもう一度復習しておく。
目次
1.独自の解釈が必要な理由 (00:00:00)
梶山氏ですら有部についての解説は混沌としている。それは、無我へのこだわりのために大半の仏教論理が破綻しているからである。私(竹下氏を指す)の解釈は、有部と中論両者の良いところを生かすための独自のものであり、仏教学者の正統的な解釈とは異なる。
2.神秘的直観の世界 (00:08:50)
ナーガルジュナが般若経思想から受け継いだ神秘的直観の世界と、言葉で語られる区別・論理の世界について見ていく。
3.説一切有部の問題点 (00:20:40)
説一切有部は、究極の存在(構成)要素「五位七十五法」を示し、この中に自我は存在しないと主張した。また、①「ただ一つの本体と機能をもつもの」を究極の構成要素と定義したが、これらの主張に含まれる誤りや問題点を解説する。
4.一即多、多即一(分割できても分離はできない) (00:49:59)
「実在するものは二つ以上の本体と作用をもちえない」という説一切有部の主張に従えば、実在である木々の集合体としての森は実在ではないという馬鹿げた結果になる。これに関連して、一即多、多即一の世界観の重要性を説く。
5.これは実在すると思いますか? (01:04:08)
「実在」を言葉で定義することは困難であり、揚げ足を取ればどんな論理も破綻する。ここでは、奇怪な生物(デメニギスなど)の写真を紹介しながら「実在」という言葉の常識的な意味を確認する。
6.論理の限界 (01:20:16)
ものが独立して存在すると考える科学・論理には限界があり、全てが融合している意識の世界を説明できない。心・意識も含めた全体を認識・理解するには、論理とは別のものが必要になる。
終わり(01:38:42)
※詳しい目次は、映像を購入してログインすると見ることができます。
参考文献
- 「中観と空Ⅰ」梶山雄一著作集 第四巻、春秋社
5件のコメント
珍しい映像や月のお話など、楽しく観ることができました。ありがとうございます。
竹下先生の画像シリーズ、今回も最高でした!とにかく笑みがこぼれてしまうものばかりで、大変和みました。
「ナーガールジュナは性根がネジくれてるのかな?」とも思いました。
中論というと、僕がおぼろげながらに思い出すのは、今回の講座を見るまでは、よくテレビに出演されるある政治評論家が、中観派を自認しており、単純で影響を受けやすい僕は、なんとなく良い印象を受けていたのですが、ナーガールジュナの思想が、近代の哲学に大きな影響を及ぼしてきたのは、致し方のないことなんだな、と思いました。
なぜなら近代の娯楽であるインターネット、テレビ、音楽、映画、ラジオなどの多様なメディア形態には捻れ体癖が必ずといっていいほど紛れると思うからです(笑)。
「真理は平易な言葉で語るのが真実であり理想」
なのであって、分りやすく伝えることがどれほど難しい事なのか、大切なことなのかと、この回を見て本当に思いました。
.
私たちが頭の中のおしゃべりを止めれば、ありのままの世界を見られる。
そうかあ! それが坐忘や瞑想につながるんですね。
今回この講義を見るのは2回目のはずなのに、まったく初めて聞く感じ?
ハシビロコウが出て来るまでは!
「そうか~! これ前に見たよ」ってね。
そこのとこだけ、覚えてました・・・
対立や区別は思惟と言語によって生じるので、言語を否定し思惟を超越したら区別や対立は存在しないというのが『般若経』の思想だが、現実には言語や思惟を使っていない猫でも区別や対立をしているとのこと。区別や対立が言葉や思惟以前のレベルで生じるのが、アハンカーラがマナスより前に生じるのと符合し、興味深いです。
論理的に証明できない世界を、科学者(恐らく多くの人々も)が認められないのは
義務教育の影響が大きいのではないかと思いました。
支配層の策略で、人々の意識を言語と論理だけの狭い世界に閉じ込めて
同時に分離感を植え付けることで、非論理的な事象や主張を下げずみ
虚栄心や優越感を満足させるように作っているのかもしれないと
妄想してしまいました。笑ってください。
中論が論理的思考のしかたを徹底的に非難しているというのは
大変良い部分だと思いますが、有部の理論を破綻させたのが
「揚げ足取り」だったというのが頂けないです。
言葉が真相の1/4しか包めないのなら、ご指摘の通り「揚げ足取り」は最強ですね。
言葉の本質を使う者が理解しておかないと、無用な議論に時間を浪費してしまいそうです。
説一切有部のヴァスミトラのように高い意識を実現した論者でも
無我の呪縛から逃れることはできませんでした。
それには、自己より高い自性や、プルシャより更に高い自己や自性の
実現が必要だったのかもしれませんね。