竹下雅敏氏からの情報です。
悟りの境地を大変美しい詩と文章で表現しています。見事です。
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こどもの国
転載元)
I'm here 12/12/2
ずっとないがしろにし続けてきたものがある。
私のとても子供らしい要求。私らしい自然なあり方。
いちばん認められなくてかわいそうなもの。
大人になることを強いられた、とても純粋で優しい心。
許されることのなかった「ありのまま」
大人達は残酷にも土足で子供たちの聖域である純粋性の中に踏み入ってきて、それを「正義」の剣で切り壊していく。
ああ、なんという悲惨。そして破壊。そして神の国の崩壊。
そのとき子供は帰る家を失い、ひたすら社会(大人)の奴隷におかれる。
子供たちは規範、規律、社会的常識、道徳といった鎖に繋がれて、徐々に「大人の国」へと連れて行かれる。そうして神の国は遠のいた。
そして多くの大人達が抱える苦しみ。
漠然とした不満。無力感。そして深刻な自分自身への不信感。
彼らは生きていながら、生きていない。
満足に与えられてこなかった無条件の「愛」。
埋まらない飢えと乾きをなんとか埋め合わせるために、バランスを欠いた心が今の社会をつくる。
そして、いったいいつから人間は真の自由を恐れるようになってしまったのだろう?
私はずっと不安でした。
「立派な人間になりたい」
「もっと人から愛される人になりたい!」
それは私が育った中で、いつのまにか深く身についてしまった契約に似た願望であり、要求でした。
「立派な人」ほど、模範や規律を重んじます。
そして大人達も私にそうなることを望みました。
「人間として正しい生き方を」
大人達はいつも「立派」でしたし、いつも「かく在るべき」理想に燃えているようでした。
私はずっと不安でした。
そうならなければ、愛される資格がないと、彼らはいつも私に、無言で、そう言っているようでした。
そして私は知っていました。
本当は、彼ら自身が一番苦しんでいたのだということを。
私はいつの間にか自分を見失いました。
「かくあるべき」大人達の理想の檻に、気が付けば自分自身も捉われていたのです。
そしてその檻の中で、どうすれば「幸せ」になれるのかずっともがき苦しんでいました。
大人達は一見「幸せそう」に見えました。
「自分は社会に対して正しいことを行っている。」
そういった自信に満ち溢れているようでした。
だけど私は知っていました。
ある瞬間急に夜が来て、彼らは自ら、見えない苦しみの中に取り込まれていたことを。
そして私は確信しました。
彼らの「理想」が返って彼らを不幸にしているのだと。
今、私は彼らから遠く離れて、一人静かな海を見つめています。
空からいくすじもの光の線が降りてきて、海の表をきらきらと輝かせていました。
空は高く澄んで、雲が流れ、風が吹き渡ってゆきました。
木々は豊かに実り、山々も誇らしく胸を張っているようでした。
全てのものが、理由なき理由の中で、燦然とした輝きを放っていました。
そして唯一人間だけが、惨めにも、「自らが存在する理由」を探しもがいているようでした。
そして、私はその瞬間、自分自身を苦しめ続けてきた「不安」の根本的な原因は、「それ」だったのだと気が付きました。
そのとき、両の耳を塞いでいた全ての思考は止まり、この果てしないものと自分とが一つに繋がったように感じました。
そして遥かなる神々の唄は、世界中に響き渡っていたのです…!
それは音なき音であり、完全なる調和であり、壮大なるシンフォニーを奏でているようでした。
そして周りを見渡すと、全てのものがその唄に声をあわせて歌っているのです!
たった一音の狂いもなく。理由なき理由の中で、燦然と歌っているのです!
その声を聴いたとき、人間である私もそれに加わりたいと心の底から願いました。
自然は、すぐに私を仲間に入れてくれたようでした。
すると音なき音はより大きく高く、豊かに響き渡っていきました。
自然は、人間が一緒にその唄を歌うことを心から歓迎してくれているようでした。
「いちばん小さい音が、いちばん大きく聞こえる」
これは舞踏家ヤン・リーピンの言葉です。
人間は「思考」や「幻想」の檻の中に、自らを閉じ込め、世界を遮断します。
そしてわけも分からず、もがき苦しみます。
その苦しみを造っているのが、自分自身であることにも気が付かずに。
思考の檻の中では「願望」そして「欲望」が一番大きな音を占めます。
鳴り止まぬ騒音の中で、音なき音はいつも聞き取られる事なく静かに流れ続けているのです。
私のとても子供らしい要求。私らしい自然なあり方。
いちばん認められなくてかわいそうなもの。
大人になることを強いられた、とても純粋で優しい心。
許されることのなかった「ありのまま」
大人達は残酷にも土足で子供たちの聖域である純粋性の中に踏み入ってきて、それを「正義」の剣で切り壊していく。
ああ、なんという悲惨。そして破壊。そして神の国の崩壊。
そのとき子供は帰る家を失い、ひたすら社会(大人)の奴隷におかれる。
子供たちは規範、規律、社会的常識、道徳といった鎖に繋がれて、徐々に「大人の国」へと連れて行かれる。そうして神の国は遠のいた。
そして多くの大人達が抱える苦しみ。
漠然とした不満。無力感。そして深刻な自分自身への不信感。
彼らは生きていながら、生きていない。
満足に与えられてこなかった無条件の「愛」。
埋まらない飢えと乾きをなんとか埋め合わせるために、バランスを欠いた心が今の社会をつくる。
そして、いったいいつから人間は真の自由を恐れるようになってしまったのだろう?
私はずっと不安でした。
「立派な人間になりたい」
「もっと人から愛される人になりたい!」
それは私が育った中で、いつのまにか深く身についてしまった契約に似た願望であり、要求でした。
「立派な人」ほど、模範や規律を重んじます。
そして大人達も私にそうなることを望みました。
「人間として正しい生き方を」
大人達はいつも「立派」でしたし、いつも「かく在るべき」理想に燃えているようでした。
私はずっと不安でした。
そうならなければ、愛される資格がないと、彼らはいつも私に、無言で、そう言っているようでした。
そして私は知っていました。
本当は、彼ら自身が一番苦しんでいたのだということを。
私はいつの間にか自分を見失いました。
「かくあるべき」大人達の理想の檻に、気が付けば自分自身も捉われていたのです。
そしてその檻の中で、どうすれば「幸せ」になれるのかずっともがき苦しんでいました。
大人達は一見「幸せそう」に見えました。
「自分は社会に対して正しいことを行っている。」
そういった自信に満ち溢れているようでした。
だけど私は知っていました。
ある瞬間急に夜が来て、彼らは自ら、見えない苦しみの中に取り込まれていたことを。
そして私は確信しました。
彼らの「理想」が返って彼らを不幸にしているのだと。
今、私は彼らから遠く離れて、一人静かな海を見つめています。
空からいくすじもの光の線が降りてきて、海の表をきらきらと輝かせていました。
空は高く澄んで、雲が流れ、風が吹き渡ってゆきました。
木々は豊かに実り、山々も誇らしく胸を張っているようでした。
全てのものが、理由なき理由の中で、燦然とした輝きを放っていました。
そして唯一人間だけが、惨めにも、「自らが存在する理由」を探しもがいているようでした。
そして、私はその瞬間、自分自身を苦しめ続けてきた「不安」の根本的な原因は、「それ」だったのだと気が付きました。
そのとき、両の耳を塞いでいた全ての思考は止まり、この果てしないものと自分とが一つに繋がったように感じました。
そして遥かなる神々の唄は、世界中に響き渡っていたのです…!
それは音なき音であり、完全なる調和であり、壮大なるシンフォニーを奏でているようでした。
そして周りを見渡すと、全てのものがその唄に声をあわせて歌っているのです!
たった一音の狂いもなく。理由なき理由の中で、燦然と歌っているのです!
その声を聴いたとき、人間である私もそれに加わりたいと心の底から願いました。
自然は、すぐに私を仲間に入れてくれたようでした。
すると音なき音はより大きく高く、豊かに響き渡っていきました。
自然は、人間が一緒にその唄を歌うことを心から歓迎してくれているようでした。
「いちばん小さい音が、いちばん大きく聞こえる」
これは舞踏家ヤン・リーピンの言葉です。
人間は「思考」や「幻想」の檻の中に、自らを閉じ込め、世界を遮断します。
そしてわけも分からず、もがき苦しみます。
その苦しみを造っているのが、自分自身であることにも気が付かずに。
思考の檻の中では「願望」そして「欲望」が一番大きな音を占めます。
鳴り止まぬ騒音の中で、音なき音はいつも聞き取られる事なく静かに流れ続けているのです。