「自分が嫌い」と「自分が大好き」、この両極端はどちらも幸福な心の状態ではない ~「私は誰か」を追求すると、最終的に「私は私」に~

竹下雅敏氏からの情報です。
 昨日の記事で、“自分で自分を裁いている人が幸福なはずがない”と記したのですが、自己イメージが否定的で“自分が嫌い”という人がいます。それがあまりにも強いと、吉濱ツトム氏の言う「底なしの劣等感を抱えている人」になるのでしょうか。冒頭のツイートのリプライを見ると、“全部当てはまります”というような人がたくさんいることがわかります。
 「深い劣等感を持つ人の日常は自己否定との戦いだ」とあるように、このような心の状態は望ましいとは言えません。しかし、これと対極にある“底なしの優越感に浸っている人”が幸福とも思えません。また、自己肯定感が強く“自分のことが大好き!”という人も、ひょっとしたらナルシストかも知れません。要するに、この両極端はどちらも幸福な心の状態ではないと思われるのです。
 悟りを得ている人は“自分が嫌い”でも“自分が大好き”でもありません。悟りを得ている人に聞いてみると良いでしょう。 “私のことをどう思うかですか? 私は私ですよ”と答えるでしょう。
 「私は誰か」を追求すると、最終的に「私は私」に到達するのです。到達するという表現は間違っています。理想を追いかけている私は存在しないからです。
 「ヨーガ・スートラ」では、冒頭で「ヨーガとは心の働きを止滅することである」と書かれており、次に、「心の働きが止滅されたときには、純粋観照者である真我は自己本来の態にとどまることになる」と書かれています。
 難しい表現ですが、「心の働き」とは、「理想を追い求める心の働き」だと考えるとわかりやすいでしょう。“悟りを得た人の心は静かであり、常に、あるがままの私に安らいでいる”と言っているわけです。要するに、ツイートに書かれているような、自分を責める「内なる声」はありません。また、自分を褒める「内なる声」もないのです。
 残念ながら、一足飛びにこの意識状態に辿り着けるわけではありません。自分の心を肯定も否定もせず、ただ見つめ続けるという行が必要でしょう。ひょっとしたら、病気の治療と霊的な修行の方法論は一致するかも知れません。ポイントは、“肯定も否定もせず”というところです。
 悟りを得る直前の意識状態というのは、五感を研ぎ澄ませ、内側も外側も全てに気づき続けるというものです。J・クリシュナムルティというインドの哲学者は、この状態を「全的な気づき」と呼んでいます。
 苦しみからの解放は、心を見つめて、心のトゲとなっている想念を暴き出すより方法がありません。それは、気づくことによって直ちに起こります。
 冒頭の動画で語られているように、親の何気ない一言が、本人には呪いの言葉になっているというケースが多々あります。子供を不幸にする呪いをかけないようにするにはどうすれば良いでしょう。それは、「あるがままを愛すること」です。
(竹下雅敏)
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子育てに於いて「しっかりしなさい」と言う言葉は禁句
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