ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第18話 ― 田布施村の大室寅之祐

 山口県熊毛郡田布施町、アベシの本籍地になるであろうこの土地こそが、日本にとっては大変なポイントとなる土地なのです。明治天皇になる大室寅之祐がこの田布施村の出身だからです。
 七卿落ちした三条実美たちが向かったのは長州でした。【異聞・隠された明治維新】の〔13話〕によると、長州に着いた三条実美たちが正義党久坂玄瑞の案内によって向かい、しばらく滞在したのが「周防国熊毛郡田布施の高松八幡宮だった」とします。そして、そこで三条実美が引き合わせられたのが「伊藤博文と井上多聞」だったとします。田布施の高松八幡宮のごく近所に南朝の血統である「大室家」があるのです。
 無論、ここで三条実美たちに大室寅之祐が紹介されたでしょう。『れんだいこ』さんの「大室寅之祐→明治天皇考」では三条実美が田布施で滞在したのは大室家だったともしています。
 七卿落ちしたのが1863年の秋です。この年、長州では高杉晋作を中心に「奇兵隊」が組織されています。現在の山口県光市と田布施町にまたがる石城山には奇兵隊の練兵場があり、そこに毎日のように伊藤博文に連れられて大室寅之祐は行っていたようです。そうして大室寅之祐は奇兵隊の力士隊に入隊しています。大室家は南朝の血統ですが、大室寅之祐は母親の連れ子の養子であり、大室家の血統は引いていません。  三条実美たち自体がそのことを把握していたか分かりませんが、三条実美たちと伊藤博文そして井上多聞らが相談し、大室寅之祐を大室家即ち南朝皇統を継ぐ者として天皇に仕立てようと画策していたことは推測されます。この田布施の土地で明治維新の肝心部分の青写真が作られていたことになります。それがフルベッキ写真に繋がっていくのです。
 大室寅之祐のもとの名は寅吉でした。一方大室家当主の大室弥兵衛と寅吉の母親スエとの間には寅助が生まれていたのですが夭逝しています。それで伊藤博文らが、大室家の血統を引く寅助に寅吉がなりすまさせたと思えます。
 一方、大室寅之祐即ち寅吉の実父は朝鮮半島出身の血筋で、姓は「李」だったようです。日本名は「岸」と名乗っていた模様です。この「李」即ち「岸」が岸信介や安倍晋三に繋がる可能性もありそうです。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第18話 ― 田布施村の大室寅之祐

英国女王のしもべとなった天皇 〜英国陸軍元帥の天皇


300人委員会が英国女王を代表にたて「英領日本」を迫り、そのために突きつけたのが次の二つの要件だったであろうことを記してきました。

日本全土を天皇の領土にすること。
日本天皇は英国女王のしもべとなること。


①については明治天皇の誕生によってそれが成立したことは、「帝国憲法」や「教育勅語」など表に出ている事柄からも明瞭です。

問題は②です。これは日本人に隠されてきたことであり、これを事実として受け入れるには多くの日本人にとっては大変な抵抗があると思われます。しかし、明治天皇以降の表に出ている日本の天皇は「英国女王のしもべ」だったのです。ウィキペディアの「ガーター騎士団」には次の一文があります。

「(ガーター勲章は)日本に対しては、日英同盟の関係から1906年(明治39年)に明治天皇が東アジアの国の元首として初めて贈られた。」

ガーター勲章をコノート公爵アーサーより伝達される明治天皇(1906年)
Wikimedia Commons [Public Domain]

ガーター騎士団とは英国女王から叙勲されてその一員になるもので、騎士団とは当然ながら女王を守護する女王配下の一団です。「ガーター騎士団」記事を読めば明治天皇以降の大正天皇、昭和天皇、平成天皇、全てガーター騎士団員だったことが記されてあります。

更にはウィキペディアの「陸軍元帥(イギリス)」を検索すれば、英国陸軍元帥として大正天皇と昭和天皇が写真つきで紹介されています。ただし「元帥(イギリス)」記事では「非イギリス国籍者への儀礼称号としての元帥」の欄に大正天皇と昭和天皇があるので、元帥の称号は外交儀礼だったとされるかもしれません。

騎士団の正装をした大正天皇
Wikimedia Commons [Public Domain]
昭和天皇
Wikimedia Commons [Public Domain]

しかし、少なくとも昭和天皇は外交儀礼の元帥ではなかったのです。1930年6月27日の英国官報のガゼット紙に「昭和天皇は、正規兵の英国陸軍元帥(Field-Marshal)」と書かれているのです。第2次世界大戦中も昭和天皇の英国陸軍元帥の肩書はそのままでした。


陸軍省、
1930年6月27日。
正規軍。
英国陸軍大将である裕仁天皇陛下、日本の天皇、ガーター勲章、バス勲章、ロイヤル・ヴィクトリア勲章、英国陸軍元帥に。1930年6月26日
和訳はこちらより引用

更に極めつけがあります。英国にはEVIという「True Knowledge(真実の知識)」を掲げるインターネット回答エンジンがあるとのことです(2012年に米国のAmazonに買収され、現在はAmazonの傘下)。そのEVIが、「昭和天皇が英国ロイヤルファミリーの一員であり、その国籍は日本と英国と記載している」★阿修羅♪掲示板)としているのです。

またここでは「ちなみに、明治天皇、今上天皇(編集者註:平成天皇のこと)の項も、英国ロイヤルファミリーの一員とあるが、国籍は日本のみ」ともあります。

[日本天皇は英国女王のしもべ]、これは日本人には受け入れがたいのですが、少し腰を据えて自ら調べてみれば間違いのない事実でもあるのです。

「鬼畜米英」と煽がれ、非常に多くの日本人がその犠牲となった第2次世界大戦、しかし通史や教科書の教える第2次世界大戦とその実際は全く異なるのです。

連れ子だった大室寅之祐 〜大室寅之祐の実の両親


昭和天皇に至っては、国籍を日本と英国の二重国籍とした上での英国ロイヤルファミリーの一員であり、「英国女王のしもべ」だったと見て取れるのですが、英国ロイヤルファミリーの一員の「英国女王のしもべ」になったのは明治天皇からだったのです。

「もう一人の明治天皇」の箕作奎吾はいずれ取り上げるとして、こういう状況を興した主役、明治天皇となった大室寅之祐を見ていきたいと思います。

長州の田布施村にあった大室寅之祐は、同じく田布施村の伊藤博文から大切に養育されていたようです。第9話で見たようにいくつかの雄藩では生き残り戦術として南朝天皇の血統を“玉”として匿っていました。そして大室寅之祐の「大室家は南朝天皇の血統として西国の大大名大内氏の時代から長州で匿われていたのです」。大室家は長州にとっての“玉”だったわけです。

しかし大室寅之祐が皇統の血統を引いていたかは定かではありません(参考として、落合莞爾氏は大室寅之祐は南朝天皇の血統と断じてはいます)。大室寅之祐は大室家に再婚で嫁いだ母親の連れ子で、大室家の養子だったようなのです。以下はいくつかのネット情報をまとめたものです。

1840年頃、何らかの事情で田布施村の西円寺に京都から興正寺もしくは佛光寺の谷口(大谷)昭顕とその娘の谷口スエが入寺します。谷口スエが大室寅之祐の母となる人物です。スエは満13歳で西円寺の隣接地に家を建てる地家作蔵と1844年に結婚。長女ターケに続き1850年に戸籍名は寅吉、後の大室寅之祐を西円寺で出産。続いて次男の庄吉、三男の朝平を出産します。


しかし1854年にスエは作蔵と離婚。スエは寅吉と庄吉を、作蔵はターケと朝平をそれぞれ引き取ります。1855年の秋にスエは大室弥兵衛と再婚し、それで地家寅吉は大室寅吉となります。同年の冬に大室弥兵衛とスエの間に寅助(寅吉ではない)が生まれますしかし産後のひだちが悪くスエは病死(西円寺で入水自殺説もあり)寅助も1歳数ヵ月で病死します。大室家の家督は連れ子の養子で入っていた寅吉と庄吉がとっていくことになります。

血統的には寅助の死去によって大室家は断絶しています。寅助の死去時の寅吉は6歳です。養子だった寅吉と庄吉は継母に育てられていきますが、寅吉は高杉晋作の奇兵隊に入隊した頃には大室寅助に、即ち大室寅之祐に成りすまし、大室寅之祐となります。この間もその後もずっと寅吉を世話していたのが伊藤博文というわけです。


大室寅之祐の父がたの血筋 〜「李」と「岸」姓の意味


さて、大室寅之祐の血統上の問題となるのが実の父母である地家作蔵と谷口スエの素性です。まず父の地家作蔵ですが、『otopa記』2019-05-15の記事を中心にネット情報を照らし合わせて見ていきますと以下のようになりそうです。

地家作蔵の地家ですがこれは元々の姓ではなく、作蔵も地家家の養子だった(作蔵が田布施町の中心地西円寺の隣りに家を建てた。それで町の中心を意味する「地家」を後付で名乗ったとの説もあり)。作蔵は廻船業を営む筋骨たくましい大男で、作蔵の父(寅吉の祖父)の名は李要蔵。つまり作蔵の本来の姓は「李」で朝鮮半島出身の血統だったわけです。元来長州は朝鮮半島と非常に縁が深いのです。

毛利氏以前に長州を収めていた大内氏は百済の聖明王の子孫と自称、朝鮮を始め中国といった東アジアとの交易交流を握っていたのです。鎖国とされた江戸中期にもウィキペディアの「長州藩」記事に以下のようにあります。

「天保8年(1836年)4月27日には、後に「そうせい侯」と呼ばれた毛利敬親が藩主に就くと、村田清風を登用した天保の改革を行う。改革では相次ぐ外国船の来航や中国でのアヘン戦争などの情報で海防強化も行う一方、藩庁公認の密貿易で巨万の富を得た。」

長州に多くの朝鮮半島出身者がいたのは普通のことで、作蔵が本来は「李」姓であり、寅吉がその血統を引いていたのは事実だったのでしょう。

この傍証となるのが明治天皇(寅吉、大室寅之祐)の玄孫を名乗る張勝植氏の著書『朝鮮名は張基元 朝鮮半島から[万人幸福の世界作り]を目指した明治天皇』のタイトルそのものです。張勝植氏は曽祖父の明治天皇(寅吉、大室寅之祐)には朝鮮名があり、それが「張基元」だとしているのです。

作蔵の父(寅吉の祖父)李要蔵は日本名としてはどうも岸要蔵と名乗っていたようです。を分けるとです。つまりでその当て字が「」になります。これはどうか分かりませんが、李要蔵の李氏とは悪魔13血流の「李氏」だと見るネット情報もあります。

また下に家系図を置いておきますが、『otopa記』2019-05-15記事では未確認としながらも、李要蔵は李氏朝鮮の太祖李成桂の末裔と見ています。記事の中には真贋は定かではないですが、それを示す文書も示されています。

この家系図を辿ると大室寅之祐の父作蔵には弟の岸信佑があり、そこから岸信介、佐藤栄作そして安倍晋三に繋がっていっています。無論これは今後の裏付けや検討は必要な事項です。



Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

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