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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第17話 ― 孝明天皇の表舞台からの退去
「明治天皇のすり替え説」への違和感 〜孝明天皇は暗殺されたのか?
大室寅之祐の文字をネットを通してですが初めて目にしたのは15年以上前で、20年近く経過しているかも知れません。最初は何の意味か全く分かりませんでした。私は別に歴史に、特に皇室関係には当時全く興味がなかったのです。
ただし、その後に幾度も「明治天皇のすり替え」に関連する記事を読むうちに、確かに「明治天皇のすり替え」はあったのだろうな、と考えは固まってきました。しかしながらその一方では、明治天皇が大室寅之祐なる人物にすり替わったのは肯定しながらも、何か強いもやもやとした違和感もあったのです。
私のその違和感は今になれば明瞭ですが、当時の「明治天皇のすり替え説」に必ずセットとなっていた孝明天皇の暗殺説に対してのものだったのです。
続》この説の基盤になっているのが『明治天皇替え玉説』で、明治天皇の即位の裏には、幕末に伊藤博文らによって孝明天皇が暗殺され、田布施村に住んでいた大室寅之祐という人物が替え玉になり、明治天皇として即位したという話だ。この田布施システムによって、アベシも政権を維持しているというもの。 pic.twitter.com/HzxQX6StyY
— やのっち(。・ɜ・)d (@_yanocchi0519) January 6, 2017
当時から流布していたのは、「孝明天皇とその息子の睦仁親王が殺され、明治天皇が長州田布施の大室寅之祐へとすり替えられた」とするものでした。そして孝明天皇と睦仁親王を殺した犯人は岩倉具視もしくは伊藤博文とする説でした。これに違和感を感じていたのです。
なぜか? 岩倉具視もそうですが、最後は暗殺された伊藤博文も当時としてはそれなりの長命でした。これは本当に天皇を殺害しているならば「ありえない」とやはり当時も感じていたのです。これは甚だ非科学的ではありますが、天皇を殺して無事でいられるはずがない。祟り殺されるはずだとどこかで感じていたのです。この感覚は間違っていないと現在では断言できます。
孝明天皇は、肉体は人間でも魂はホツマの神だと竹下さんから教えられました。そのホツマの神を人間が殺して、その殺した人間が只で済むはずがありません。必ず祟られます。
菅原道真もホツマの神だったと竹下さんが明かされていますが、菅原道真を左遷しただけで、その左遷に関わった人間は皆祟られ、呪い殺されているのです。左遷でこうですからそれが殺害になると…。
さて、このように「明治天皇のすり替え」への違和感も持ったまま過ごしてきたのですが、ここ数年前になりますが竹下さんの解説を通して落合莞爾氏の説、「孝明天皇の崩御は偽装で、孝明天皇は睦仁親王と共に健在で歴史の表から姿を消して裏に回られた」を知りました。この説に接して「なるほど」と合点がいき落ち着きました。
孝明天皇は偽装崩御して裏天皇となった?~落合莞爾説の紹介 http://t.co/A4OhzeqRbY 鬼塚英明氏の孝明天皇暗殺説に対して、落合氏は孝明天皇の崩御はフェイクで京都の堀川御所に隠れて、東京の天皇と役割分担をしたという説を唱えている。早計に判断せず両方を吟味すべきか
— 山澤貴志 (@yama3nande) May 2, 2013
確かに孝明天皇、そして睦仁親王が暗殺されずに生きていて、それで歴史の表舞台からは姿を消して裏舞台に回った。これならば孝明天皇と睦仁親王殺害の祟りはないはずで、合点がいったのです。
そして実はもう一点、日本そして天皇に対しての知識を得るうちに、「この大問題はどう処理したのか?」と湧き上がっていた疑問に対しても辻褄が合うかな?となったのです。その疑問とは天皇は大神官であり日本最高神官であるということについてです。
孝明天皇への暗殺指令は不可能 〜代理がきかない最高神官
「英領日本」が突きつけられ、一旦、江戸幕府がそれを飲んだのは1858年夏の日英修好通商条約となるでしょう。
朝廷の許可が出ないままの条約締結でしたので、その後は朝廷も幕府もてんやわんやの大騒動となりました。幾度も示していますが、当時の日本の状況で「英領日本」を成立させるには次の2つの要件が必要でした。
①日本全土を天皇の領土にすること。
②日本天皇は英国女王のしもべとなること。
そして実は、この2つの要件が成立したとしても大変な問題も引き続いて残されることになります。天皇は大神官であり日本最高神官である問題です。
天皇は、建国者の末裔で、現代社会における国家元首であると同時に、古代から続く神道の最高神官でもあります。天皇が行う祭祀の大半は、皇祖皇宗への祈りです。平和と安寧を祈ります。
— タニグク🐸 (@tao1112) November 6, 2019
男系というのは、皇祖皇宗との関係であり、コレを破ると最高神官の資格を失い、もはや「天皇」とは呼べなくなる。
「英領日本」はその天皇の上位に英国女王がたつことを意味します。しかし英国女王が天皇の上位にたっても、英国女王がホツマの神を祭祀する大神官の役割を果たすことは全く不可能です。政治・経済王と祭祀王と分けると、「英領日本」が成立したところで、英国女王は政治・経済王とは成れても、祭祀王にはひっくり返っても成れはしないのです。
それではたとえば、英国女王の代わりにローマ法王が日本の祭祀王と成れるか?といえば、これも全く無理です。天皇即ち日本の最高神官の祭祀王の資格を有するのには、天照大神から神武天皇の血統を代々父系をつうじて受け継ぐという条件のクリアが必要なのです。この天照大神の血統を引き継いできたのが北朝天皇です。
天照大神から神武天皇までの系図
そして大室寅之祐の血統に関しては現在様々な情報が出されていますが、どの情報を照らし合わせても、少なくとも大室寅之祐は北朝天皇の血統を父系を通して受け継いでいないのは明らかです。つまり、大室寅之祐に日本最高神官を勤める資格はないのです。
孝明天皇が抹殺されたならば、ホツマの神を祭祀する大神官、最高神官が日本から消滅することになり、誰もその代わりになる者はいなくなるのです。このような日本最高神官を消滅させることになる孝明天皇の暗殺、これを命じることは誰もできなかったはずです。
例えば大君の座を奪取したタケミカヅチ尊はどうか?といえば、ホツマの神であるタケミカヅチ尊が、地上世界に関することに直接に指令を出すことはないでしょう。それにタケミカヅチ尊はシリウス第3レベルの神ですが、その上位のシリウス第2レベルの天照大神の政権は健在です。天照大神の血統を根絶やしにするような指令はこの時点で発せられないでしょう。
もちろんホツマの神とは質的に下位にあるハイアラーキーが、たとえ人間の肉体に転生していたとしても、ホツマの神である孝明天皇の殺害を命じられるはずもないでしょう。天皇とは「国体」そのものであったのです。
日本は地球の霊的統治の中心であり、その日本の「国体」を抹殺する指令は、この時点ではやはり出せないのです。孝明天皇の他殺説は無理がありすぎるのです。
国体(國體)天皇と政体天皇 〜明治天皇の見せかけと実際
ウィキペディアでは「国体」とは冒頭「国家の状態、くにがらのこと。または、国のあり方、国家の根本体制のこと」とあります。
また国家のあり方や運営の上で「国体」と「政体」という概念があるのですが「政体」については「国家などの組織における、政治体制、統治形態。支配者が誰かに着目した統治の形態。政体の上に国体という概念をおき、主権者が誰かを指す概念として国体を用い、政体をより細かな統治の形態とする場合もある」とあります。
要するに「政体」の上位に「国体」が座するのです。
そして日本の「国体」と「政体」ですが、日本はその長い歴史の変遷の中で様々な顔を見せ、統治者も変化しました。貴族が実権を握っていた時から武士が幕府として実権を握った、という具合です。ただし、この変遷する統治は政治・経済部門についてです。日本では政治・経済王つまり「政体」は時代によって変遷しました。
しかし一方、この日本で連綿と一貫して続いていたのが祭祀王としての天皇です。天皇が最高神官として日本を宗教的に統治してきたのが、日本の不可侵の「くにがらであり、国のあり方であり、国家の根本体制」だったのです。つまり天皇が国体であったのであり、孝明天皇が国体天皇に該当するのです。
ところで「国体」記事では、幕末の水戸学からはじまり帝国憲法と定型化された「国体論」では、「国体は、天皇が永久に統治権を総攬する日本独自の国柄という意味をもち、不可侵のものとして国民に畏怖された」とあります。
「国体論」の天皇とはまさに「英領日本」の要件の[①日本全土を天皇の領土にすること]に該当し、歴史の舞台では明治天皇の誕生でこれが実現しました。この意味で明治天皇は完璧な国体天皇に見えます。
しかし同時に隠された部分では、明治天皇は[②日本天皇は英国女王のしもべとなること]も任じていたのです。この意味で明治天皇は国体天皇ではないのです。そして英国女王も、天皇の上位に位置づけられても国体天皇は任じられません。明治天皇は表舞台では国体天皇を装いながら、その実は政体天皇だったのです。
「政体」を司る明治天皇の裏でその上位に座するのが英国女王です。ただし、英国女王は「国体」足り得ず、真の日本の「国体」を温存させるため、国体天皇の孝明天皇は歴史の表舞台から去り、裏に回ったということでしょう。
新暦の1867年1月、孝明天皇は崩御したことになっていますが、落合莞爾氏はこの崩御を偽装として、孝明天皇は睦仁親王と共に皇居を去ったとしていますが、これは全くの事実でしょう。
実はこの本圀寺こそが、京都の皇居を退去した孝明天皇が睦仁親王とともに移住してきた施設であると、落合莞爾氏が提唱しています。
通史や歴史教科書では、新暦の1867年1月に孝明天皇は崩御されたことになっています。しかし落合氏の説は、孝明天皇は歴史の表舞台からは退去したが、実は健在であって睦仁親王とともに裏に回られたということです。
創建であったのにも関わらず孝明天皇は、35歳の若さで急死されたとされます。それでその死因には、多くの疑念が持たれてきたのです。一応はその死因は天然痘となっていますが、疑念が絶えず、ヒ素による毒殺説等の他殺説が多く存在しているのです。
そのような中、孝明天皇の崩御は偽装であり、孝明天皇は健在であったとの説が出されたのですが、これは事実だと見受けられます。先ず孝明天皇の35歳の若さでの急死は、多く疑念があることから分かるように相当の無理があります。そして毒殺などの暗殺・他殺説も検討すれば無理があるのです。
いくつかの観点から、特に最終的には地球の霊的統治の中心である日本の「くにがら、あり方、国家の根本体制」といった「国体(國體)」、そしてそれに付随する「政体」という観点から見て、「孝明天皇は健在で裏に回られた」とする説が最も理にかなっているのです。