ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第16話 ― 偽旗作戦

 ウィキペディアは「偽旗作戦」について次のように記しています。

「平たく言えば、敵になりすまして行動し、結果の責任を相手側になすりつける行為である。名称は自国以外の国旗、つまり偽の国旗を掲げて敵方をあざむくという軍の構想に由来する。」

 ここでは「敵になりすます」とありますが「味方になりすます」場合もあります。「なりすまし」によって相手に被害・損害を与え、その被害・損害の責任を相手になすりつけるのが「偽旗作戦」です。明治維新でもこの手法は取られています。
 中学生時分だったか、不可解ではあったのです。何が?といえば、明治維新で「尊皇攘夷」を叫んでいたはずの志士が、いつの間にか「日本の開国近代化」の英傑になっていたことにです。
 「攘夷」とは外国勢力を蛮族として日本から排除する思想です。「開国」は言うまでもなく外国勢力に日本を開いて受け入れ、協調することです。「攘夷」と「開国」は方向が真逆でこの2つが両立することはありえません。あるとすれば「なりすまし」をしていた場合です。
 つまり、外国勢力に通じていた、もっと言えば外国勢力を日本に招き入れようとしていた勢力が、逆に反外国勢力に「なりすましていた」場合です。
 強硬な急進攘夷派で「攘夷」を実行していた長州勢は、明らかに外国勢力と通じ利していました。公家では、維新後は太政大臣として新政府の頂点に立った三条実美は、長州勢と同じく急進攘夷派で密接な関係であったのですが、彼も「反外国なりすまし」が強く疑われます。
 「尊皇」を叫ぶ彼らが孝明天皇を苦しめてもいたのです。
(seiryuu)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第16話 ― 偽旗作戦


大政奉還の意味 〜英領日本でクーデター


邨田丹陵筆「大政奉還図」
Wikimedia Commons [Public Domain]

「大政奉還」の日、地上に降臨した神団の中心である大君の色上姫様は幽閉され、タケミカヅチ尊がその大君の座を奪取しました。軍神でおそらく神団の軍部のトップであったであろうタケミカヅチ尊が、「大政奉還」を色上姫様の大失政として「もう大君としての治世は認められない」と、色上姫様を幽閉したと見ています。

「大政奉還」がなぜ大失政だと咎められるのか? 天皇は稀な例外はありますが、代々父系を通して天照大神の血統を受け継いでいます。この正統な天皇が北朝天皇です。大君を交代で勤めてきた天照大神の后のヒメミコ様が、北朝勢力の最大守護者であると見受けられます。

一般に知られているように、「大政奉還」によって日本の実権が徳川将軍から天皇に奉還されたならば…、これは天皇を守護する北朝勢力の頭であろう色上姫様の失政ではありえません。むしろ逆に賞賛されることになるでしょう。

また通史が伝えるように、旧暦の1867年1月に北朝天皇の孝明天皇が崩御され、孝明天皇の血を分けた睦仁親王が明治天皇としてその皇位を引き継いで明治天皇になっていたのならば、色上姫様に何らの失政はないです。


ようは通史や歴史教科書が伝えるように、睦仁親王が孝明天皇の血を分けた皇太子で、即位して明治天皇となり、「大政奉還」で日本を差配する実権を握った。これならば色上姫様が幽閉されるという事態は起こり得ないのです。

ところが「大政奉還」で大君が幽閉される天界のクーデターが起きたのです。これは通史や歴史教科書で語られるものは表層の見せかけの物語に過ぎず、実体は全く違っていることを意味します。

幾度も1874年8月11日の英国官報ガゼット紙の「英国女王陛下は、中国皇帝と日本の帝の領土における権限と管轄権を過去も現在も持っている。」を取り上げました。これは日本が英領になっていたことを意味しています。

「英領日本」は英国女王を代表に立てた悪魔崇拝海賊団の300人委員会が突きつけてきたものです。そしてそれを成立させるには以下の2つの要件が必要でした。

①日本全土を天皇の領土にすること。
②日本天皇は英国女王のしもべとなること。


「大政奉還」とはこの①②の要件を飲み、「英領日本」が成立したことを意味するでしょう。

また明治天皇が従来の天皇から見れば全く異質で北朝天皇ではありえないことも見てきました。

1,「日本天皇は英国女王のしもべとなる」
2,「日本天皇が天照大神の血統を引く北朝天皇ではなくなる」


この2つは表沙汰にできないやはり途轍もないことで、このような結果をもたらす治世を行ったと、タケミカヅチ尊から厳しく咎められ色上姫様は幽閉されたと見えます。

しかしこれはクーデターの結果です。クーデターは数年程度の準備で成立するものではありません。タケミカヅチ尊のグループは狙いを定め、長い時間をかけて準備して来たでしょう。地上の動きでいうと300人委員会はタケミカヅチ尊が通じていた闇組織に属するのです。


攘夷実行による見せかけ 〜長州藩の利敵行為



ある貴重な建造物を守る組織があったとします。
🔯その組織の幹部の一人が実は火付け団の頭であり、その頭が組織が守っている貴重な建造物に自分の部下の火付け団に命じ火事を起こさせた。
🔯その上でその火付け団の頭が、建造物を守る組織のトップに火事が起きてしまった結果の責任をなすりつけて取らせる。

この手の事件は世界中で起こされてきたのですが、タケミカヅチ尊の天界のクーデターもこれと同様でしょう。偽旗作戦です。

タケミカヅチ尊は天照大神の血統を引く天皇を守護する北朝勢力の一員を装っていたが、敵方に通じていた、というどころか、裏南朝勢力の頭でもあったのです。


この図は明治維新に至る地上世界の動きも類似しているのです。
明治維新で「尊皇攘夷」運動が大きな高まりになって、遂に煥発させられたのが「大和行幸の勅」でした。大和行幸は長州の久坂玄瑞が中心となって画策され、「七卿落ち」した三条実美たち急進攘夷派が孝明天皇にその実行を迫ったはずなのです。となると長州勢と急進攘夷派の公家たちは気脈を通じる非常に近い関係にあったのは明瞭です。

三条実美たち公卿は八咫烏の政治組織天忠党に属していたはずですが、同時にタケミカヅチ尊を祖神とする藤原の一門でもあります。

この急進攘夷派公卿と長州勢が孝明天皇に認めさせた大和行幸にはその前段があります。長州勢は実際に「攘夷」の実力行使に出ていたのです。1863年の大和行幸の前に英仏蘭米の4ヵ国艦隊に砲撃を加えた「下関事件」を起こしていたのです。

外国勢力に対する実際の武力行使攻撃、これだけを見ると急進攘夷派の公卿と連携していた長州勢は、外国勢力の脅威から日本と天皇を守護する勢力であるように一見は見えます。彼らと外国勢力は敵対関係だな、と。

Wikimedia Commons [Public Domain]
Wikimedia Commons [Public Domain]
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しかし実際は違います。「下関事件」と同時期に伊藤博文たち長州ファイブが藩命で遺欧しているのです。その遺欧の手引をしたのが外国勢力300人委員会の大ボスのロスチャイルドの手先のマセソン社やグラバーたちでした。

当時のことです。遺欧には大変な時間をかけた下調べと準備が必要であり、長州藩と外国勢力は長い時間をかけ綿密な打ち合わせをしていたのは当然です。「下関事件」のはるか以前に少なくとも長州藩と外国勢力は通じていたのです。

更に下関事件を受けた翌年、下関戦争で長州藩は外国勢力に敗北。ところがそれで請求された300万ドルという超巨額の賠償金は幕府が肩代わりすることになります。長州勢の働きで外国勢力は300万ドルという巨額を幕府からせしめ、日本に介入できる口実を得たことになります。

長州勢の動きは「攘夷」の反外国勢力を装いながら、その実は徹底的にロスチャイルドたち外国勢力の利に貢献しています。


外国勢力と攘夷派の青写真 〜明治天皇誕生へ


長州勢と気脈を通じる「七卿落ち」公卿も長州勢を通じて外国勢力と通じていたでしょうが、他方面からも外国勢力と通じていた可能性もあります。

「七卿落ち」公卿のうち三条実美たち5名は長州から太宰府に移住しています。1865年(慶応元年)2月から3年間彼らが滞在したのが太宰府の延寿王院でした。そこには伊藤博文たち長州の維新メンバーはもとより、薩摩の西郷隆盛や土佐の坂本龍馬たち維新の多くのメンバーが訪ねてきたことが記録されています。あのフルベッキ写真の維新の面々です。

明治維新からの日本国家をデザインしたのは、改宗キリスト教のフランキストであったであろうグイド・フルベッキだと記しました。(前触れ2)。フルベッキ親子を中心に維新の面々が一同に会した写真が有名なフルベッキ写真です。

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このフルベッキ写真は長崎で撮影された模様ですが、その撮影時期は前触れ2で指摘したように、貴重証言から1865年「二月中旬から三月十八日までの間」です。ちょうど三条実美たちが太宰府に移住した時期です。

三条実美たちの太宰府移住に合わせて維新メンバーは集結し、長崎と大宰府を行き来していて、三条実美たち公卿とフルベッキのもとを訪れ、その中でフルベッキ写真が撮影されたのです。この写真には写っていないながら、維新メンバーとフルベッキに連なる重要人物が三条実美たちだったのです。

攘夷とは外国蛮族を排除する意味ですが、急進的に攘夷を叫んでいた維新メンバーや公卿たちが外国勢力と通じ、明治維新の青写真を描いていたのです。

フルベッキ写真の中央に位置しているのがフルベッキ親子と西郷隆盛、そして明治天皇と記されている大室寅之祐です。繰り返しになりますが、明治天皇になる人物にまずは求められていたのは次の2つの要件でした。

①日本全土を天皇の領土にすること。
②日本天皇は英国女王のしもべとなること。


孝明天皇のはこの2つの要件を飲める人物ではありませんでした。このことは孝明天皇の歴史からの退場を意味していました。①②の要件を満たすことのできる人物が大室寅之祐だったということでしょう。

1865年春、フルベッキ写真が撮影されたこの時点で、フルベッキ写真に集結していたメンバーでは明治天皇の誕生、そして維新後の日本の大まかな骨組みは既に決定事項となっていたわけです。


もちろんそれを主に背後から導いていたのが闇組織の[裏]南朝勢力のメンバーだったはずです。


Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

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