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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第2話 ― 明治の逆転劇、北朝天皇はありえない
200年間の「朝敵」が神に 〜建武中興十五社の怪
神戸市中央区に湊川神社があります。明治2年にその場所は確保され、社殿は明治5年に完成。明治期最初から全国に設立されていった招魂社と同時並行的に湊川神社は設立されたのが分かるのですが、湊川神社は最初から“神社”として創建されました。この神社の祭神は「楠木正成」です。
1336年 #7月4日 #楠木正成 討死,失政に奔る #後醍醐天皇 を見捨てず必勝策を退けられても従容と死に就いた尊皇忠臣の象徴。埋没五百年を経て幕末水戸学の会沢正志斎に見出され維新後の #皇国史観 で武神大楠公に昇格,南朝方の新田,菊池,名和の子孫にまで爵位が与えられました⇒https://t.co/FwhBsgBFQD pic.twitter.com/x0OnxxFfRt
— 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ (@History_JP_5963) 2019年7月4日
楠木正成は朝廷が南北に別れ争った南北朝時代の武将で、後醍醐天皇に仕えた南朝側の武将です。楠木正成は「日本史上最大の軍事的天才」として高名ですが、1336年の湊川の戦いで北朝側となった足利尊氏によって自刃に追い込まれました。その後に南北朝の争いは北朝側の勝利となります。
その結果、楠木正成はどのような扱いとなったかは彼のウィキペディア記事に次にある通りです。
「南北朝の争いが北朝側の勝利に終わると、南朝側に尽くして死んだ正成は朝敵とされてしまった。だが、永禄2年(1559年)11月20日、正成の子孫と称した楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願し、正親町天皇の勅免を受けて正成と楠木氏は朝敵でなくなった。ただし、この時点では『先祖である朝敵・正成の非を子孫が深く悔いたから』許されたという形式になっており、正成に非があるとする汚名の返上にまでは至らなかった。」
いつの時代でもそうですが、その人物の評価は時の為政者で権力を握った側の都合で決められます。「勝てば官軍、負ければ賊軍」です。朝廷への子孫の嘆願と献金によって正成は約200年間の「朝敵」とのレッテルは外されました。しかし北朝側からすればやはり正成は大悪人です。そして室町時代中期以降の天皇は代々北朝の血統子孫なので、基本的に正成は幕末までは大悪人の扱いのはずだったのです。
ところがそれが明治になると、その元は朝敵であった悪人が一転して大忠臣の大英雄で神として奉られるのです。実は明治の世におけるこの逆転劇は正成だけではありませんでした。湊川神社は明治に次々と建設された建武中興十五社の一つで、ウィキペディアによると「建武中興十五社(けんむちゅうこうじゅうごしゃ)とは、建武中興(建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などを主祭神とする15の神社である。」とのことです。
要は明治になると、楠木正成をトップとしてそれまで北朝側にすれば大悪人であったはずの南朝側の皇族や武将を神として奉るようにしたのです。これは政府による国民統治のための施策です。
しかし明治天皇は北朝の天皇のはずで統治権を有していますが、本当に北朝の天皇ならば、国民統治のために敵方であった南朝の皇族や武将を神として奉る神社を創設していくでしょうか?
笹川良一は楠木正成を崇拝していた。
— change_heart (@changeheart3) 2019年8月14日
楠木正成を大楠公(だいなんこう)と言って崇め、
家紋を菊に一紋に変えた。
※本当は楠木正成の使っていた菊水紋を使いたかったのか? pic.twitter.com/mNFsGV6EGm
「尊皇攘夷」は水戸学から 〜南朝天皇の血統が長州に?
「いやいや明治天皇はお心が広く、南朝北朝の別はなく朝廷に尽くした功労者を差別なく讃えられたのだ」と主張される方がおられるかも知れません。しかしそれならば、結果として北朝の功労者となった足利尊氏の明治以降の扱いについてはどう説明されるでしょうか?
明治になってから昭和の敗戦まで足利尊氏は朝敵、日本三大悪人(弓削道鏡、平将門、足利尊氏)の一人とされます。尊氏を擁護する者まで罪人扱いされたのです。
明治になって南北の別なく朝廷の功労者が讃えられたのではなく、単に南朝側にとって都合の良い人物は神として奉られ、南朝側にとっては裏切り者で憎むべき人物であった尊氏などは朝敵で大悪人とされたのです。明治天皇が北朝天皇で治世を行ったならばこのような事象は「ありえない」のです。客観的に起きた事象からは、明治維新によって天皇が北朝から南朝に転換したと見るのが自然なのです。
さて、戦を行うには大義名分が必要です。薩長が倒幕軍として明治維新を進めた合言葉が「尊皇攘夷」です。「攘夷」とは「野蛮な外国の敵を排する」で「尊皇」とは「天皇を尊ぶ」ですが、問題は「尊皇」の対象の天皇とは誰なのか?です。
北朝天皇は実は「尊皇」の対象にないのです。何故か? 「尊皇攘夷」は水戸学から来ています。水戸徳川の光圀つまり水戸黄門さんが「南朝の天皇が正統」としたのです。(光圀が南朝の忠臣であった楠木正成を讃えたのが湊川神社創設の伏線ともなっています。)この「南朝正統」の光圀の提唱が水戸学となり、その水戸学の強い影響を受けたのがあの長州の吉田松陰です。水戸学が、そして吉田松陰などが父となって幕末の志士たちを産んだとも言えます。
⑤大室寅之祐が護良親王の後裔である話は吉田松陰も記録しており、松蔭が天皇としての英才教育をしていたとしています。また梨本宮守正の娘で李王朝に嫁いだ李方子も「明治帝は南朝の人」、藤原北家広橋真光に嫁いだ方子の甥・興光も「北朝の睦仁親王と明治帝は別人だ」と証言しています。 pic.twitter.com/FhOUrHPBuc
— 國體京都皇統情報部・特務”落合機関” (@kyoutok) 2017年5月6日
そして吉田松陰の尊皇(勤王)運動の原動力となったのが、“実際に長州に密かに南朝天皇の血統が守られてきたことにある”とするこの情報、「『我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ』と云う事を打ち明けた時に、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩摩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した」との言には相当の説得力があります。
実際に建武中興十五社の一つで熊本県に明治3年に創建されたのが菊池神社であり、この神社は「南北朝時代に南朝側で戦った菊池氏の3代を祭る」神社で、この菊池氏の子孫が西郷隆盛とされるのです。
睦仁親王と明治天皇の埋められないギャップ 〜大室寅之祐が明治天皇に
孝明天皇の子息、睦仁親王は小柄で虚弱体質、線の細い少年と伝わっています。一方明治天皇は東京皇居で馬を乗り回す体重90キロの巨躯、山岡鉄舟(西郷隆盛とも?)と相撲に興じた、などとされます。
検索すれば睦仁親王と明治天皇を比較する情報は多くあり、それらを重ね合わせれば、睦仁親王と明治天皇が同一人物であるなどとは、これも「ありえない」と判断するしかないのです。
以降の日本の迷走は、すべてここから始まった。
— 火中の栗 (@kakachunokuri) 2014年12月29日
明治天皇すり替え説:南北朝時代に端を発した、南朝と北朝の対立構造 http://t.co/4S9UFyi9rw pic.twitter.com/qsZ4JF0UXd
前回見た招魂社を「神社」に命名、代々天皇が禁じてきた「死者への招魂祭」儀式の断行を含め、今回見た湊川神社など建武中興十五社の創建等々、明治天皇のその行動は歴代天皇の行動とは異質で乖離しすぎています。明治天皇が北朝天皇であるには無理がありすぎるのです。説明不能で辻褄が合わないことが満載なのです。
むしろネット世界ではほぼ常識になっている「明治天皇すり替え」論、即ち、「長州に南朝天皇の血統である大室家が護られていて、その田布施に在住の大室寅之祐が睦仁親王とすり替わって明治天皇となった」。この論を取り入れたほうが、かなりの事柄の説明がつき、全体的な整合性も取れてきます。
続》この説の基盤になっているのが『明治天皇替え玉説』で、明治天皇の即位の裏には、幕末に伊藤博文らによって孝明天皇が暗殺され、田布施村に住んでいた大室寅之祐という人物が替え玉になり、明治天皇として即位したという話だ。この田布施システムによって、アベシも政権を維持しているというもの。 pic.twitter.com/HzxQX6StyY
— やのっち(。・ɜ・)d (@_yanocchi0519) 2017年1月6日
大室寅之祐は同じく田布施村にあった伊藤博文に“玉”として大切に養育され、巨漢であった彼は高杉晋作の奇兵隊の力士隊に所属していたとされます。これならば明治天皇が馬を乗り回す巨漢であったことと符合します。そして伊藤博文が日本初代の総理大臣となったことを始め、日本の中枢を担う政治家などが田布施村を中心として湧き出るように輩出された謎も説明ができるようになります。
総理大臣を勤めた岸信介、佐藤栄作、そして現在の安倍晋三もこの田布施村の系譜にあります。明治以降は田布施の系譜に連なる人物群が日本を占拠した側面があるのですが、それは「田布施出身で南朝系の大室寅之祐を明治天皇とした結果である」とすると筋が通るのです。
明治初期から日本全国に招魂社が次々に創設され、それは軍国日本とセットとなった国家神道の「神の国」帝国日本と繋がります。大日本帝国とは現人神としての明治天皇を前面に押し出すことによって作られた「ミカドのクニ」です。
この「ミカドのクニ」作りの計画は、フルベッキ群像写真が撮られたであろう1865年の春には既に成立し動き出していたでしょう。その後に次々と日本国民統治のための施策によって生じた明治以降の逆転現象などを客観的に観ずれば、フルベッキ群像写真は本物で、且つフルベッキ親子の前に明治天皇と記されて写っている少年は大室寅之祐であると見ることのほうが、他の見方よりずっと理にかなっているのです。
彼らのその主張は整合性が全くなく論理破綻していて、それを指摘されたところで平気であって、恥というものを知りません。ビョーキなのです。もちろん安倍一派がこれなのですが、彼らのビョーキは遺伝なのだろうなと感じます。
明治天皇を担ぎ上げることで明治政府は成立して稼働していきました。明治天皇の前の天皇、壮健だったはずが満35歳の若さで崩御したと記録される孝明天皇は北朝の天皇です。南北朝の争いを経て室町時代中期以降、天皇は代々北朝の天皇なのです。
ウィキペディアによると明治22年『(旧)皇室典範』制定に当たった伊藤博文は、皇位継承をできるのは父親である天皇の胤を受けた男子とします。その上で大日本帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とします。
こうなると明治天皇は孝明天皇の胤を受けた息子のはずです。でなければ「万世一系」でも「之ヲ統治ス」も成立しません。睦仁親王が孝明天皇の胤を受けた皇太子ならば、この条件をクリアし「万世一系ノ天皇」となります。そしてこの天皇は当然ながら北朝の天皇となるのです。
しかし明治天皇は、前回見た「招魂社」の件から見て、そもそも天皇としてあまりにも異質で代々天皇とは乖離しています。その上ましてや北朝の天皇としては全く「ありえない」のです。実際に明治政府が日本国民を統治するために行ってきた数々の事柄は、北朝天皇の日本統治としては完全に矛盾するのです。辻褄が全く合わないのです。
ある事柄同士が相矛盾し、辻褄が合わない、これは虚偽の特徴です。田布施出身の伊藤博文はその理由までは分かりませんが、意図的に数々の虚偽を押し通してきたのは明瞭です。血縁があるかは不明ですが、安倍晋三氏は伊藤博文と同じく田布施の系統です。