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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第3話 ― 明治維新の実働隊形成
朝敵になっていた長州 〜「尊皇」「勤王」の意味
帝国憲法は主に伊藤博文によって作成され、そこでは天皇について「御一身は神聖にして侵すべからず」とあります。尊皇攘夷を叫び、勤王の志士として明治維新を成し遂げた伊藤博文たち長州の志士たち、彼らが天皇を「万世一系にしてこの上なく神聖」と規定したのです。
しかし、逆に彼らほど天皇に対する崇敬の念を持たない日本人はいなかったのでは?とも思えます。幕末期、尊皇攘夷を叫び暴れまわる吉田松陰の弟子たちなどの長州勢は京都を席巻していました。しかし逆に孝明天皇に疎まれ、京都を追放された彼らは遂には実力行使の暴力クーデターを起こします。
それはなんと孝明天皇の長州への拉致等を計画したものからで、これが1864年の「禁門の変(蛤御門の変)」です。京都でのこの戦闘の中で、長州勢は孝明天皇、睦仁親王が住む皇居へ砲弾を撃ち込むという前代未聞の行動を起こしているのです。
1864年、元治元年7月19日
— JS.Kenta (@Transverse_Line) 2018年7月19日
蛤御門の変
前年8月の政変で地位を失った長州藩が京都で幕府軍(会津藩・薩摩藩・新選組など)と戦闘し敗退。その後、長州軍を率いていた来島又兵衛、真木保臣、久坂玄瑞は自害し、長州藩は朝敵となった。 pic.twitter.com/ttCgfK5QOR
結果長州勢は敗退し、孝明天皇から「朝敵」とされ討伐の命がくだされます。孝明天皇の命は当然でしょう。ところが紆余曲折はあったのですが、その明らかな「朝敵」長州が、明治天皇を前面に押し出して新政府を樹立して運営していくことになったのです。彼らは担ぎ上げた天皇を「神聖にして侵すべからず」と最大の崇拝姿勢を見せつけ、それを日本全国民に強制させました。
しかしその崇拝の言動は表に見せる部分であって、内心はどうだったのでしょうか? 彼らのもともとの「尊皇」だとか「勤王」だとかは、天皇を拉致して自分たちに都合よく利用しようとすることで、それがうまくいかないとなれば公然と天皇に刃を向いて孝明天皇、睦仁親王の住居に砲弾を打ち込んでいるのです。
天皇を利用しようとしてそれが叶わないとなれば砲弾を撃ち込むこのメンタリティ、これは危険なテロリストもしくはストーカーのそれでしょう。
「朝敵」の烙印が押されたのが1864年、大政奉還が1867年です。「禁門の変」から見るならば、彼ら長州の勤王の志士にとっての天皇は、担ぎ上げることで都合よく利用できれば「誰だって」「何だって」良かったのではないか? そう思えてしまいます。
尊皇の志士たちにとってまことに都合よく、「孝明天皇は1867年1月崩御」と記録されます。壮健だったはずの満35歳で逝去でした。孝明天皇は最後まで長州に嫌悪を示された様子です。
そして孝明天皇は都合よく崩御されたとはいえ、長州に対する嫌悪は睦仁親王も同様、それ以上の嫌悪感・不信感を持っていた可能性は高いです。幼い時分に受けた精神的な傷は成人になってからのもの以上に大きいですから。伊藤博文たちにとっては睦仁親王もまた邪魔な存在であったのは確かでしょう。
御物 孝明天皇御肖像
— 如意袢 (@kumaboon) 2016年2月28日
明治11年 五姓田義松
維新後の皇室依頼らしいが、リアルかどうかは不明。
孝明天皇を守っていた会津藩は賊軍として滅ぼされ、内裏事情に詳しい藩士や孝明天皇に関する記録は消滅した。 pic.twitter.com/7QjWO5pUFk
五姓田義松による「御物 孝明天皇御肖像」
編集者註:1900年に描かれた肖像画とは明らかに雰囲気が異なりますが、皇室と密接な関係があり、孝明天皇陵のある泉涌寺の肖像画や、桓武天皇と孝明天皇をご祭神としている平安神宮の肖像画とは似ています。薩長同盟へ 〜神戸海軍操練所の意味
「禁門の変」で長州勢と主に戦闘したのが京都を守護していた会津藩です。この戦闘で京都は大火に覆われるのですが、西郷隆盛率いる薩摩軍が参戦し、長州勢を攻めることで長州勢は敗走していったのです。犬猿の仲となった長州と薩摩の確執はここにあったのです。
敗走した長州の人間たちの一部が逃げ込んだ場所がありました。神戸海軍操練所です。「海軍操練所」とは『コトバンク』では次のようにあります。
「幕末の幕府の海軍学校。江戸築地と神戸に設けられたが,現在は一般に築地の操練所を軍艦操練所,神戸の操練所を海軍操練所という。神戸海軍操練所は勝義邦(勝海舟)の建議を入れて1863年に設置が決まり,1864年開設。京坂の旗本・御家人のほか坂本竜馬・伊達小次郎(陸奥宗光)など西国諸藩の藩士も入所を許された。しかし同年の禁門の変により,入所者のなかに多数の長州藩士,攘夷の志士がいたことから勝が失脚,翌1865年に廃止。」
ウィキペディアの「神戸海軍操練所」の記事によると、神戸海軍操練所は「海舟は、従来の幕府や諸藩の垣根を越えた日本の『一大共有の海局』を作りあげるという壮大な構想を抱いていた」ことから建てられ、「幕臣でありながら幕府の瓦解を予見していた海舟の元には、倒幕派の志士も多く集っていた」とのことのです。
既に1862年に勝海舟と出会い、弟子となっていた坂本龍馬が「海軍操練所」と併設されていた「海軍塾」に入塾していました。そしてこの1864年に勝海舟と西郷隆盛も面会し、会談を交わしています。
Wikimedia Commons [Public Domain]
日本という地域を遥かに超えた広い視野の勝海舟に西郷隆盛が大いに感化されたとされます。これがが薩長同盟に繋がるというわけです。ここに勝海舟、坂本龍馬、西郷隆盛、そして薩長同盟が一つの線として繋がってくるわけです。
ただし、この線の裏には外国勢の存在があることも留意しておく必要があります。「海軍操練所」の原点が「長崎海軍伝習所」です。これは幕府による施設ではあるのですが「海軍伝習所」の建設を主導し並びに運営管理したのはオランダだったのです。
ここが日本を転覆・根本転換させる明治維新という革命の最重要拠点となるのです。別の言い方では薩長土肥のネットワーク、フルベッキ群像写真の原型になるのが長崎海軍伝習所です。
長崎海軍伝習所
Wikimedia Commons [Public Domain]
長崎海軍伝習所の意味 〜侵略、統治のパターン
「長崎海軍伝習所」はウィキペディアによると「安政2年(1855年)に江戸幕府が海軍士官養成のため長崎西役所(現在の長崎県庁)に設立した教育機関。幕臣や雄藩藩士から選抜して、オランダ軍人を教師に、蘭学(蘭方医学)や航海術などの諸科学を学ばせた。築地の軍艦操練所の整備などにより安政6年(1859年)に閉鎖された」とのこと。
オランダから派遣された教授陣によって日本の有望な若者に「軍艦の操縦だけでなく造船や医学、語学などの様々な教育が行われ」、活版印刷の技術も伝えられます。おまけに「さらに練習艦として蒸気船「観光丸」の寄贈を受けた」とあります。ここだけ見ると国難にあった日本は、オランダから望外の待遇を受けることができたともいえそうです。
しかしそんなメルヘンはありません。オランダはアジアを中心に一大海洋帝国を築き、植民地を隷属支配したオランダ東インド会社の流れからの勢力です。奥をたどれば英国、米国、フランス、オランダと名前は異なっても支配層は同じところに行き着きます。
その彼らが「善意」や「同情心、親切心」から「無償で」教育を施し、練習船として軍艦を「寄贈」するはずがありません。彼らの侵略、統治パターンは基本的に一定です。狙った標的に対しては直接侵略もありますが、多くはその国家の内戦や革命の形態を取った間接侵略です。
いずれにしても国家体制を転覆させた後は、彼らの意の傀儡政権を樹立して統治するのがパターンです。日本に対してもこの基本は変わらず、内戦や革命の間接侵略からの傀儡政権樹立パターンを計画していたでしょう。
「長崎海軍伝習所」には勝海舟を筆頭とした幕臣伝習者と、それ以外に諸藩の伝習生「計128名(薩摩藩16名・佐賀藩47名・肥後藩5名・長州藩15名・筑前藩28名・津藩12名・備後福山藩4名・掛川藩1名)が伝習を受けた。(中略)...佐賀藩出身者が最も多く、活動も活発であった。」とのこと。
この諸藩の伝習者の布陣を見れば、その多くが維新の実働隊になっているのに気づくでしょう。更にはキリシタン大名の知行地だった藩が多いことにも。
大体「長崎海軍伝習所」はイエズス会の本部であったところに創設されているのです。佐賀藩を主力とした伝習者たちが、伝習所の閉鎖後はオランダ出身の(ユダヤ)宣教師フルベッキの弟子になったと見れば分かりやすいでしょう。伝習所が幕府施設であるにも関わらず「倒幕派の集合場」となっていたのに気づいていた幕府が、安政の大獄の一環として伝習所を閉鎖したと見るのが自然です。
この「長崎海軍伝習所」にも最初から関わっていたのが勝海舟であり、彼がフルベッキ写真に唯一幕臣として写っているのはこの流れからではあります。
善悪などの相対論で事物を括ると実態が見えなくなります。日米修好通商条約の1858年からわずか10年後の1868年に明治政府が樹立しています。この10年間を切り取るだけでも、大激動の大動乱で様々な出来事が目まぐるしく起きました。
「倒幕だ」「いや幕府を助ける佐幕が本来だ」「尊皇だ」「攘夷だ」「いや開国だ」と、公家から幕臣、大名、商人そして若者たちが激しく動きました。
そのそれぞれを大別して「尊皇攘夷」と「佐幕開国」としましょう。このどちらかが例えば「尊皇攘夷」が善で「佐幕開国」が悪とも、逆に「尊皇攘夷」が悪で「佐幕開国」が善であったなどとは括れないのです。
「倒幕」を主張し行動する人間には、本当にこの国の将来を憂いて自身を犠牲にしてでも道を開かんとした人々もいれば、自身の野心や野望を遂げるのが主目的で「倒幕」を主張した者もいたでしょう。これは「佐幕」を主張する人々も同様です。
それぞれ見えている風景や考え方や立場の相違で主張とその行動は別となりますが、「倒幕」「佐幕」いずれもがその動機が純粋できれいな心からのものもあれば、どす汚れた野心からのものもあるのです。
ただ日本全体を巻き込んだ激しい動乱の底流にあったのは、外国勢力からの侵略計画でしょう。結果として見れば維新の志士たちは外国勢力の手駒として実働した人々との見方は成立します。しかしその志士たちが「売国」の徒であったか?と言えばその見方は成立しないのです。
さて、全体を見通す力があり、外国勢力の動向や動機に気づいた上で、それを利用して自身の野望を遂行しようとした者もいたでしょう。そして同じく外国勢力の動向や動機に気づきそれに乗っかりながらも、その力を取り込み、日本の自立と将来のために役立てようと動いた人々もいたでしょう。
勝海舟、坂本龍馬、西郷隆盛は一本の線として繋がります。現時点での私の見方では彼ら3名は後者の部類に、日本の将来のため動いていた3名だと現時点では見ています。