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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第19話 ― 血流の混ぜ合わせ
大室寅之祐の母がハプスブルク家? 〜スエは大谷家か?
張勝植氏の『朝鮮名は張基元 朝鮮半島から[万人幸福の世界作り]を目指した明治天皇』によると明治天皇の大室寅之祐、朝鮮名は張基元は張勝植氏の家系の4代目とのこと。
その家系の初代と2代目は欧州に渡り「教旨」に従い、ハプスブルク家を支援し、皇帝フェルディナント1世の隠し子の娘を保護。その後2代目は3代目の正烈と保護した隠し子とその母親一家を伴って渡米し、アメリカ独立運動に携わったとあります。
そして「朝鮮名は張基元 朝鮮半島から[万人幸福の世界作り]を目指した明治天皇」の28、9頁に次のようにあります。
「2代目が保護してアメリカに亡命したフェルディナント1世の隠し子の娘が3代目の正烈と結婚し、生まれた息子が基元、つまり、長州・田布施の大室寅之祐であり、本当の明治天皇です。だから大室寅之祐は金髪気味なのです。」
張勝植氏の主張に基づいた家系図
編集者註:オーストリア皇帝フェルディナント1世(1793 - 1875年)は、ボストン茶会事件(1773年)のときにはまだ生まれていませんでした。
Wikimedia Commons [Public Domain]
Wikimedia Commons [Public Domain]
この本では「正統な南朝の天皇家に、カール6世のハプスブルク家の直系の血が入って、明治天皇が生まれたのです。」(29頁)と主張しています。
しかしここらの記述はぐちゃぐちゃのデタラメです。この本では2代目は皇帝フェルディナント1世の隠し子の娘を保護して渡米し、ボストン茶会事件を主導したように記しています。
しかしフェルディナント1世は1793年生まれとこの本では記しており、ボストン茶会事件の1773年には、隠し子の父さえ誕生もしていないことになります。
本当に大室寅之祐の父が3代目の張正烈で、母がフェルディナント1世の隠し子の娘と主張するならば、2代目と3代目が渡米し、アメリカ独立運動に携わったのは誤りになるでしょう。大室寅之祐が誕生したのは1850年、ボストン茶会事件の1773年から77年も経っています。
前回見たように大室寅之祐の実の父が地家(李・岸)作蔵、母が谷口(大谷)スエと見るほうがずっと説得力はあります。
前回の家系図に従えば地家(李・岸)作蔵が3代目の張正烈で、谷口(大谷)スエがフェルディナント1世の隠し子の娘とはなりますが、どうなのでしょうか?
いずれにしても気になるのが大室寅之祐の実の母であろう谷口(大谷)スエです。前回見たように、スエは父の谷口(大谷)昭顕と共に西円寺に入寺しているとあります。そしてネットでは、谷口(大谷)昭顕は本願寺の大谷家の血族であるような情報もあります。そうだとすればフェルディナント1世の隠し子の娘が大谷家に隠されたのか?ともなります。
また、スエが隠し子の娘ではなく本当に大谷家の血族ならば、その実子の大室寅之祐に皇統の血はいくらかは入っている公算が高いです。ウィキペディアの「大谷家」には次の記述があります。
「もともと公家の日野有範の子息である親鸞と、日野広綱(覚恵の父)の血統を引く東西両大谷家当主は、代々有力公家の猶子になる慣習があり、また、代々公家と通婚を続けており母系によっても公家化が進んでいった。このような経緯から明治維新後、両大谷家は華族に列し、ともに伯爵を授けられた。」
更に、記事では続いて大谷家の「近代以降の大谷家と皇室、華族(公家)間の通婚の例」も記されてあります。最初がいつかは不明ですが大谷家には皇統の血が入ってはいるのです。
ただし、スエが本当に大谷家の血族だったかどうかも判然としません。大室寅之祐の血統には情報が錯綜していて判断に苦しむのです。
日本皇統がハプスブルク家を? スエは南朝鷹司家?
私には大室寅之祐こと張基元に ハプスブルグ家等の血流が入っているかの判断は不能です。ただこれと繋がってくるような内容を提唱されているのが落合莞爾氏です。
落合莞爾氏の著書には『欧州王家となった南朝皇統』『日本皇統が創めたハプスブルク大公家』があります。著書の題名通り落合氏は、欧州王家は日本皇統から創られたと提唱されているのです。しかもそのような動きは7世紀から始まっており、「日本皇統が創めたハプスブルク大公家」には7世紀後半に皇族が渡欧したと記してあります。
本当にハプスブルク家などが皇統から出来上がったならば、そのハプスブルク家の血統が逆に大谷家などに入り、それが大室寅之祐に繋がる場合も可能性としてはあるでしょう。しかし一般には7世紀に皇統の人間が渡欧したとの説は受け入れがたいでしょう。
ただし、この説を「ありえない」と一笑に付すこともできません。奈良の正倉院の宝物にはペルシャからの輸入品なども納められていますが、その前の聖徳太子の時代には、既に奈良はシルクロードの東端で国際都市になっていたのです。
長谷川 良: 8世紀の奈良にペルシャ人が住んでいた… https://t.co/6j794JNKXY #国際 #アゴラ
— アゴラ (@agora_japan) January 18, 2020
聖徳太子の家庭教師はペルシャ人が勤めていた模様で、聖徳太子がミトラ教を信奉していたのはこのあたりのことからでしょう。
少なくともペルシャ人やミトラ教や原始キリスト教が日本に7世紀の最初には入ってきているのですから、7世紀後半に日本から皇統の人間などが欧州に向かうのも完全には否定はできません(ただし、私自身個人としては『日本皇統が創めたハプスブルク大公家』に目を通してもピンとはこず、無理があるかな?とは感じはしています)。
また落合氏の大室寅之祐に対する見解ですが、「ブッソロジー」2013年4月21日記事では次のような落合氏の見解を示しています。
「田布施にある南朝系鷹司家が代々住職を努める円光寺住職の娘スエが幕末に生まれ、隣家の地家作蔵に嫁ぎ寅之助(編集者註:正しくは“寅之祐” 以下同様)が生誕。その後、スエは離縁し大室家に嫁ぎ、子息を正式に「大室寅之助」とします。」
スエが地家作蔵と結婚し後の寅之祐が誕生、その後スエは作蔵と離婚し、後の寅之祐を連れ子にして大室家に嫁いだ。ここまでは前回の記事内容と同様です。相違点は、落合氏の説では西円寺は南朝鷹司家が代々住職を勤める寺だとしていることです。スエは父親の佛光寺もしくは興正寺の大谷昭顕と共に京都から入寺したのではなく、最初から西円寺で生まれた南朝鷹司家の娘となっています。
「世界天皇」の資格 〜「教旨」とは何か?
落合氏は、大室寅之祐が大室家への連れ子の養子であったことを認めながらも、大室寅之祐は正統な南朝の皇統だと主張しています。
先の記事の中で落合氏は「後醍醐天皇の第一子・護良(もりなが)親王の子・興良(おきなが)親王の末裔である『大室家』」としていますが、養子である大室寅之祐はこの「大室家」の血統を引いていないのです。それでも落合氏はなぜ大室寅之祐は正統な南朝の皇統だとするのか?
私は落合氏の主張の全てに目を通しているわけではないので何ともいえないですが、大室寅之祐の実父であろう「地家(李・岸)作蔵が南朝の血統である」との説を落合氏が出されているのを見ていません。父系を通していなくても、大室寅之祐の母のスエが「南朝鷹司家の娘」だから大室寅之祐は正統な南朝の皇統だとの主張になるのか?
どうも不明です。
日本の天皇は代々父系の血統を継ぐ。逆に母系の血統を継がなければそうとは認められないのがユダヤの血統となってはいますが。
無論、私にはスエが「鷹司家の娘」なのか「鷹司家」が南朝なのかは確認もできませんが、落合氏の情報源は京都皇統とその秘書役と最近は明かされています。京都皇統とは裏に回り裏天皇となった「睦仁親王」の子孫でしょう。そして「鷹司家」で思い出されるのが2015年11月9日の竹下さんの記事の次の部分です。
「初代裏天皇となった睦仁親王は、孝明天皇の子ではありません。この人物は、伏見宮貞教と鷹司積子との子を養子としてもらい受けたのです。」
伏見宮貞教の母もまた鷹司家で、鷹司家が南朝かどうかは分かりませんが、落合氏が南朝皇統が正統と提唱していますので、その情報源たる京都皇統も同様でしょう。どうも彼らの主張は南朝が正統であり、その正当皇統がハプスブルク家などを創った、ということです。
そうするとハプスブルク家などには「王家の血流」が受け継がれているので、南朝皇統にはハプスブルク家などの「王家の血流」が混ざり込んでいるということになります。「王家の血流」とはダヴィデ王から洗礼者ヨハネへ続く血統をマグダラのマリアを通して受け継いできた血流です。
天皇家と王家の混交、これと同様の主張をしているのが明治天皇こと張基元の曾孫を名乗る張勝植氏ということでしょう。正統な天皇の血統に王家の血流が混ざっているからこそ「世界統一王」、張勝植氏の表現では「世界天皇」の資格があるということのようです。彼らの共通の行動原理が「教旨」でしょう。
「教旨」は世界幕府を、つまり世界統一政府の建設を目的としているようです。「教旨」は「ハイアラーキーの計画」だと竹下さんは明かされています。ハルマゲドン計画のことでしょう。ちなみに大室寅之祐について竹下さんは「私が調べたところ南朝の血筋ではありません。」とされてはいます。
伴野優子さんは、明治天皇になった大室寅之祐こと張基元の血族(子孫?)のようです。それで彼女は、自分は張勝植氏同様に「清王朝、大伴氏、ハプスブルグ家、ロマノフ王朝...などの血を受け継いでいる」とÈriさんに伝えていた模様です。
張勝植氏などは、自らは天皇の血統の上にハプスブルク家などの「王家の血流」が合流しているとしているのです。
同様に、結論としては正統な南朝皇統とハプスブルク家などの「王家の血流」が繋がっていると提唱しているのが落合莞爾氏です。そしてその落合莞爾氏のバックにあって、その情報源となっているのが「さる筋からの仄聞」と表現されます京都皇統です。
日本皇統に「王家の血流」が合流しているとする彼らを動かすものがあります。張勝植氏の表現では「教旨」です。