ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第20話 ― 明治天皇のすり替え

 明治天皇のすり替えは、表の政体天皇と裏の国体天皇に分ける体制作りとセットになっています。この表裏の天皇制度が明治維新の隠された肝心部分となるでしょう。
 ハイアラーキーのハルマゲドン計画がありました。その計画は、天界レベルでは天照政権を転覆し、ハイアラーキーが全宇宙を支配するものでした。明治維新はそこに至っていくための重要ステップだったと見ています。
 地上世界においては、地球の霊的統治の中心は日本であり、日本の北朝天皇には天照大神の血統が父系を通して受け継がれています。ところがユダヤ系の南朝天皇を正統として、天照大神の血統を引く北朝天皇を排することは、天界での天照政権の転覆と連動することになるでしょう。
 地上では南朝皇統は元々ダヴィデ王の血統を引いているとし、そこに洗礼者ヨハネの「王家の血流」、更にカエサルの血流も合流しているとし、「世界統一天皇」を打ち立てるのが最終目標であったのではないかと思えるのです。
 明治維新とは「英領日本」の成立でもありました。しかし、英国女王では日本の国体は担えないので国体天皇は裏に配し、それと同時に表には大室政体天皇をたて、表裏の天皇制度を明治維新で作ったと見受けられます。そしていくいくは南朝皇統が正統であるとして、表裏に分かれた天皇制度を一つに統一する計画だったよう思えます。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第20話 ― 明治天皇のすり替え

「小御所会議」での出来事 〜裏に回った睦仁親王


ウィキペディアの「東京奠都(てんと)」に次のようにあります。

「天皇は同年(執筆者註:新暦1868年)10月13日に江戸城へ到着、江戸城はその日のうちに東幸の皇居と定められ東京城と改称された。続いて同年10月17日には、天皇が皇国一体・東西同視のもと内外の政を自ら裁決することを宣言する詔(万機親裁の宣言)を発した。」

この天皇はいうまでもなく、睦仁親王からすり替わって明治天皇となった大室寅之祐でしょう。この後、一旦大室明治天皇は京都に戻りますが、翌年3月28日に東京城に入りこれを「皇城」と呼び皇居とします。以来今日まで江戸改め東京が首都となっています。

明治天皇の東京行幸
Wikimedia Commons [Public Domain]

明治天皇が東京に遷都したのは、京都には睦仁親王の顔を知るものが多数存在しており、大室寅之祐が明治天皇として京都に在るのはまずかったからでしょう。それではいつ明治天皇のすり替えが行われたか?

新暦1867年1月、孝明天皇は薨去と称して本圀寺に移ります。それによって一旦は睦仁親王が明治天皇として践祚したでしょう。その後、睦仁明治天皇が大室明治天皇とすり替わったのは、小御所会議の「王政復古の大号令」時と思われます。ウィキペディアの「小御所会議」の中に次のようにあります。

 新暦1868年1月3日未明に「公卿たちが退廷した後、待機していた薩摩藩・芸州藩・尾張藩など5藩の軍が御所9門を固め、摂政二条斉敬をはじめ要人の御所への立ち入りを禁止した後、明治天皇臨御の下、御所内学問所において王政復古の大号令が発せられた。新政権の樹立と天皇親政をうたい、摂政・関白・将軍職の廃止、新たに総裁、議定、参与の三職を置くなどの方針が発表された。」

同記事によると、旧体制における最後の朝議となる摂政二条斉敬が主催した1月2日の朝議で、長州の毛利氏の復権、三条実美ら5人の公卿の赦免、および岩倉具視ら謹慎処分解除が決定されます。朝議が終わり公家衆が退出した後、翌3日未明、御所を兵で固める中、岩倉具視らが主体となって「小御所会議」進め王政復古の大号令を発し、 摂政・関白・将軍職を廃止しているのです。

編集者註:明治天皇(奥)・山内豊信(中央左)と岩倉具視(右)・大久保利通(右下背)

つまり御所を兵で固めた中での「小御所会議」による摂政・関白の廃止であり、御所内の人員の総入れ替えが行われたように取れるのです。

ここで睦仁親王と大室寅之祐が入れ替わり、大室寅之祐が明治天皇になり、睦仁親王は本圀寺に移って裏に回ったのではないか?と考えています。これで表の天皇つまり政体天皇を大室寅之祐、裏の国体天皇を孝明天皇そして睦仁親王が担っていく体制が作られたと見えます。

明治天皇のすり替え、そして表の政体天皇と裏の国体天皇の表裏体制、これには薩長などの討幕派とされる要人や三条実美や岩倉具視などの公家だけではなく、公武合体の佐幕派とされる人々も関わったていたでしょう。

堀川勢力 〜孝明天皇が裏に回った理由


明治維新の極秘計画』にて落合莞爾氏は、幕末に孝明天皇と徳川慶喜そして中川宮朝彦親王はいわばタッグを組み、「堀川政略」を進めていた公武合体勢力だったと提唱しています。その上で「岩倉・薩長政治連合に政権を譲った公武合体勢力は、維新後は在野で国体を支えることとなり、孝明の皇孫堀川辰吉郎を仰ぐ「堀川勢力」に発展しました。」(同書287頁)

更に続けて「堀川勢力の本拠は慶喜直参たちと、本願寺を頭とする京都寺社勢力でした。この護衛のための在野部隊として、黒田藩の政治結社玄洋社と、光格天皇以来皇統に仕える丹波大江山衆が、政体に代わって大陸・満州政策に尽力しました。」と記しています。

①「堀川辰吉郎」②「政治結社玄洋社」③「丹波大江山衆」④「政体に代わって大陸・満州政策に尽力」、これらは今後の重要部分です。ただし、現時点では先走った内容なので今回は言及せずに置いておきますが、ここに記された落合氏の見解はおそらくほぼ全て事実に合致していると思われます。


「堀川勢力」を守護する主力に「本願寺を頭とする京都寺社勢力」とあります。要は京都寺社勢力が明治天皇のすり替えにも尽力しているということです。その京都寺社勢力の中でも本圀寺が非常に重要な役割を果たしたのはいうもでもありませんが、京都寺社勢力の頭とされる本願寺も明治天皇のすり替えと天皇の表裏体制構築に大きく関与したことが見てもとれます。

ウィキペディアの「東京奠都」には天皇の江戸行幸の前に大阪への行幸と滞在があったとして次のように記しています。

「慶応4年3月21日(1868年4月13日)、天皇が京都を出発。副総裁・三条実美ら1,655人を伴い、同年3月23日に大坂の本願寺津村別院に到着、ここを行在所とした。」

記事には本願寺の津村別院に、大室明治天皇が「40日余り」滞在したとなっているのです。天皇のすり替えと天皇の表裏体制に対する本願寺の関与は明白です。

さて翻ってですが、孝明天皇そしてその霊的守護であったであろう色上姫アサコ様が、大政奉還と孝明天皇が裏に回ることをなぜ承諾されたのか? それは日本における大流血の戦争を避けるため、これがその主因だったと思えます。それには外国勢力との戦争と敗戦を避ける意味も含みますが、特に日本人同士の戦争を避けるためです。

そしてこれに尽力したのは最後の将軍徳川慶喜も同様です。「勝てば官軍、負ければ賊軍」で薩長と本当に戦えば勝てたであろうに敢えて賊軍の将を選び、鳥羽・伏見の戦いでは敵前逃亡の醜態ともいえる姿を演じ、江戸城を無血開城したのは、慶喜の「日本人同士の大戦争をなんとしても避ける」との覚悟からのものだったでしょう。

この点は孝明天皇とよく確認しあっていたと思えます。慶喜は若年から聡明として有名であり、政治手腕もあり外国列強との交渉をもこなす人物でしたが、何よりも胆力が座っていた人物だったように私には見えます。



明治維新の肝心部分 〜決められていたスケジュール


明治天皇のすり替えと、それによる表の政体天皇と裏の国体天皇の表裏体制という明治維新の隠された肝心部分、この隠された肝心部分を核とした明治維新のスケジュールは予め決められていたでしょう。それは「両都両港開市開港問題」からです。ウィキペディアの「ロンドン覚書」に次のように記される問題です。

1858年、江戸幕府は開国を迫る欧米列強と相次いで修好通商条約を結ぶ(安政五カ国条約)。その中で、幕府は江戸・大阪(両都)の開市、新潟・兵庫(両港)の開港を約束していた。しかし、国内の経済問題や政治問題によって期限内の履行が難しくなり、これら開市開港の延期を各国に求めた。

安政五カ国条約で最も重要なのが幾度も取り上げた日英修好通商条約です。「英領日本」を迫るものでした。この日英条約を江戸幕府は朝廷の許しを得ずに調印し、その発効は1858年の翌年1859年となってしまっていたようなのです。

しかしこの条約調印は朝廷の許可なきものであって、さらに国内での激しい攘夷運動によって、両都両港の開市開港の延期を各国(特に英国)に求めざるを得ない状態に江戸幕府は陥っていました。この延期のスケジュールを決めたのが「ロンドン覚書」でした。

両都両港開市開港問題で特に重要なのが兵庫開港問題だったのです。皇都京都と兵庫港は間近の位置にあります。兵庫港に自由に外国軍艦が集結できる状態になれば、御所にある天皇の喉元に匕首が突きつけられる状態となります。「ロンドン覚書」に基づく兵庫開港の日程は新暦の1868年元旦と定まりました。この日程に合わせて明治維新のスケジュールは動いていきます。以下のとおりです。

1868年元旦の1年前の1867年1月孝明天皇が薨去と称し本圀寺に
同年11月に大政奉還
1868年1月3日に明治天皇のすり替え
同年10月大室明治天皇が東京城を皇居に

「ロンドン覚書」が結ばれたのは文久遣欧使節団によってです。ウィキペディアの記事の中には次のようにあります。

文久遣欧使節(第1回遣欧使節、開市開港延期交渉使節)は、…文久元年(1862年)にヨーロッパに派遣した最初の使節団である。正使は、竹内保徳(下野守)、副使は松平康直(石見守、後の松平康英)、目付は京極高朗(能登守)であった。この他、柴田剛中(組頭)、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(後の寺島宗則)、箕作秋坪らが一行に加わり、総勢36名となり、さらに後日通訳(蘭語、英語)の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名となった。」

福澤諭吉(1862年、オランダにて)
Wikimedia Commons [Public Domain]

使節団のメンバーで目を引くのが福沢諭吉です。そして実はもう一人注目すべき人物がいるのです。箕作秋坪です。彼は備中国(現岡山県)の蘭学者でしたが「もう一人の明治天皇」の重要関係者なのです。

箕作秋坪(34歳当時)


Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

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