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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第21話 ― 蘭癖
オランダの実態 〜消滅していた国家
「2020年元旦をもってオランダは正式な国名ではなくなる。ネザーランドが正式国名となる」。このニュースが今年の1月に飛び交いました。2019年12月29日のYahoo!ニュースでは以下の解説がありました。
「オランダには、ネザーランド(Netherlands)とホーランド(Holland)という二つの呼び名がある。しかしホーランドは、ネザーランドとは異なり、それはまるでスペインを“マドリード”と呼ぶようなものであり、首都アムステルダムを含むある一定の地域しか含まないことになる。ネザーランド(Netherlands)は、オランダ12州の総称であるのに対して、ホーランド(Holland)は、アムステルダムを含む2州の地域の呼び名でしかない。」
ホーランド、つまり日本語表記ではオランダとは、アムステルダムあたりの地域名でしかないということです。
日本では、鎖国した江戸時代を含めてずっとオランダという国と貿易を今日まで続けてきたことになっています。しかし実際は、日本の貿易相手はオランダという国家ではなくオランダ東インド会社だったのです。
学校が隠している史実➡オランダ商館は1799年に消滅し👻、1799 -1809年はアメリカ商館🇺🇸だった‼
— 本物黒酒 (@honest_kuroki) 2017年9月5日
オランダ商館はオランダ東インド会社の日本支店だから、同社が消滅した1799年には支店も消滅。日本🇯🇵はすでに1797年から、オランダ国旗🇳🇱をたてた米国船🇺🇸と貿易中だった pic.twitter.com/ESZ1V9DJgr
事実として江戸時代のある時期には、ナポレオンに征服されてオランダと呼ばれていた国家はなくなっていました。日本はオランダ人と貿易をしていたわけではないのです。元々がオランダ東インド会社は世界初の株式会社であり、多国籍企業です。オランダ東インド会社の本拠地がアムステルダムでありここが本社、日本のオランダ商館とはオランダ東インド会社の日本支社という関係になります。
アムステルダムとは、フェニキアを本拠としていたカナン族の黒い貴族たちが地中海から世界支配を目論み、本拠を移してきた地です。彼らはアムステルダムから更にイギリス乗っ取りの攻勢をかけた歴史があります。
オランダ東インド会社の本拠地がアムステルダムにあることを考慮すれば、オランダ東インド会社とはカナン族、つまりブラック・ロッジがその主体となった組織であったと見るのが自然でしょう。
Author:MaCRoEco [CC BY-SA]
日本編 前触れ2で見たように、江戸時代以前の日本侵略の外国勢力の主力はイエズス会でした。その侵略は密かにかなりやばい段階まで進んでいました。それに豊臣秀吉に続き、徳川家康も強い危機感のもとイエズス会を日本から放逐し、”鎖国”と称される体制を築きました。
イエズス会はブラック・ロッジに属していました。ところが、日本はブラック・ロッジからの縁を切ったように見えてそうでは無かったのです。江戸時代も貿易を続けてきたオランダ東インド会社は、ブラック・ロッジが主力となる株式会社の多国籍企業だったはずなのです。
明治維新にホワイト・ロッジ及びホワイト・ロッジ闇組織の関与があったのは既に見てきました。しかし基本的な路線としては、外国勢力にとっての日本とはブラック・ロッジの“シマ”だったと見るのが自然でしょう。それで維新後の日本をデザインしたのがイエズス会の別働隊のカルヴァン派のグイド・フルベッキということになるのでしょう。
蘭癖者の実態 〜バテレン大名の藩が蘭癖大名藩に
欧米列強の意向や動きは、オランダ東インド会社を通じて日本は得ることになっていました。従って江戸の後期、とりわけ幕末で列強諸国と条約を結ぶなどの作業もあり、非常に重要な役割を担ったのが蘭学者など、オランダ東インド会社と深く通じていた人物群です。
「蘭癖」という言葉がありました。簡単には「オランダかぶれ」の意味ですがウィキペディアの同記事では次のようにあります。
「蘭癖の学者や武士は結託し、オランダ商館側とともに”自主的独立国家としてのオランダ”が存在しない事を日本国内で隠し続けた。滅亡していたはずのオランダ国旗をアメリカ船に掲げさせて入港させるなど、1815年にネーデルラント連合王国が建国するまでの、オランダ国が存在しない20年ほどの期間、他の日本人を欺いて日蘭貿易を偽装した。(中略)...政治面でもたとえばオランダ商館長と最も密接な関係にあった薩摩藩主島津重豪の政治的画策を助けた。オランダ商館長であったヘンドリック・ドゥーフ著『日本回想録』によると、娘を将軍徳川家斉の正室として嫁がせることで幕府と薩摩藩を結合させ、諸侯を服従させようというものであったとされる。」
蘭癖の学者や武士は結託し、日本人を欺き外国勢力を日本に招き入れていた、とこの記事では指摘しているのです。
山窩は弥生時代以来大陸や半島からの渡来人に蹂躙されてきた先住民の子孫で、固有の言語を守り、結束していました。また、薩摩藩の藩主で将軍岳父に昇りつめた島津重豪は蘭癖で、ユダヤ教に改宗しています。蘭学者もオランダ正月と称してイエスの割礼年初を祝うユダヤ教徒。ユダヤ人とも結束していた。
— 本物黒酒 (水原紫織)『もう一人の「明治天皇」箕作奎吾』好評発売中 (@honest_kuroki) December 28, 2017
その蘭癖の代表が将軍徳川家斉の正室に娘を嫁がせた薩摩藩主島津重豪であり、彼が「オランダ商館長と最も密接な関係にあった」としているのです。記事は更に次のように続けています。
「蘭癖大名の分布としては、主に九州の外様大名が多い。(中略)...このような蘭癖大名の典型例として知られる代表的な人物として、シーボルトと直接交流のあった長崎警固を勤めた福岡藩主の黒田斉清や薩摩藩主・島津重豪が挙げられる。重豪の子である奥平昌高・黒田長溥や、曾孫の島津斉彬もまた、重豪の影響を受けたためかそれぞれ蘭癖大名と称されるほどであった。」
島津氏を始め、蘭癖の九州の外様大名たちが明治維新の主力であったことはよく知られている事実です。バテレン大名の藩の多くが結局は蘭癖大名になっているのです。イエズス会が最初に上陸したのが薩摩であり、イエズス会の日本最初の拠点は大内氏によって長州にたてられています。
鬼塚英昭氏は「日本の真相」ビデオメッセージで「田布施は大内氏の残党の村」との内容を語っていました。これが事実ならば田布施一味も外国勢力と密かに継続して繋がっていたような気もします。
更に注目すべきは堀田正睦も蘭癖だったと記事にあることです。堀田正睦は1858年の日米、日英条約などの安政五カ国条約を調印した江戸幕府の老中首座でした。彼も外国勢力を積極的に招き入れた一人でしょう。
Wikimedia_Commons [Public Domain]
福沢諭吉の実態 〜「英領日本」を導いた人物群
安政五カ国条約の実行スケジュールを決定させた文久遣欧使節、そのメンバーであった福沢諭吉もどうやら蘭癖の一人だったようです。福沢諭吉の主君は蘭癖島津重豪の孫の中津藩主・奥平昌猷であり、諭吉が学びその人生を決定づけたのが蘭学だったのです。
諭吉についてですが、平等主義者とのイメージが私達には植え付けられていますが、この頃は全くの異論で、正反対の差別主義者で帝国主義者であったとの論説が出てきています。
IWJのインタビューに出られていた杉田聡氏、その著書『福沢諭吉と帝国主義イデオロギー』ではその紹介で内容を「脈々と現代に受け継がれる福沢諭吉の思想。その本質は、アジア侵略・人種差別・軍備増強からなる『体系的帝国主義イデオロギー』だった。“近代日本の祖”の虚像を暴く! 」とあります。
安倍、改憲、日本会議の源流がここに。『福沢諭吉と帝国主義イデオロギー』(杉田聡、花伝社)が発売されました。
— 清風堂書店 (@seifudosyoten) December 23, 2016
「福沢の差別的視線は、中国人、朝鮮人に対してのみか、障がい者、被差別部落民、老人、女性、平民(町人)等に対しておよんでいる」
隣は雁屋哲による『まさかの福沢諭吉』(遊幻舎) pic.twitter.com/MzPUtETD9V
確かに諭吉は少し彼の著書や言動を調べれば差別主義帝国主義者だったのが分かります。特に中国や朝鮮を蔑視し、逆に西洋に崇拝的だったのが見えます。この諭吉の仲間であり「同士同感、互いに目的を共にする」としたのが箕作秋坪と松本弘安(寺島宗則)とのことです。
『もう一人の「明治天皇」箕作奎吾』では213頁に、福沢諭吉と箕作秋坪が「外国奉行所の御書翰掛(ごしょかんがかり)という大変特殊な部署」に属していたと明かし、214頁で「御書翰掛」とは〈往復の書翰(書簡)や談判書類はすべてこの掛で取り調べるので、外国奉行所中の外交部である。(中略)...応接の趣意書も書翰も作成して差し出すのだから、外交の基軸は実際にこの 御書翰掛にあり、一人の老中だけでなく奉行もその掛(かかり)の意見どおりになった〉と明かし、「箕作秋坪と福沢諭吉は、老中や奉行に彼らの意見通りに外交させることができる立場にいた」と記しています。
また前回、1858年の「日英修好通商条約」とは実は「日英修好通商講和条約」であったことに触れました。翻訳者は敢えて「英領日本」となることを隠した翻訳をしたのですが、それが誰か? これを同書の246頁に次のように明かしています。
「戦争もしていないのに大英帝国からいきなり講和条約を突きつけられてしまった日本。このことを知っていた人物の中には、この翻訳の指揮を執った箕作阮甫がいました。」
箕作阮甫は箕作秋坪の義父で、蘭学者であり医学者、鉱物学者でもありました。要は日本人に事の真相を隠し欺きながら「英領日本」を導いたのが彼らであった、ということでしょう。
箕作は山を熟知した山窩の異称、幕末に箕作阮甫が『地質辨証』を編纂するにあたって多くの山窩が協力した。それで明治時代、その編纂に参加した山窩の子孫もそれぞれの採掘権者として、阮甫の孫の明治天皇と共同採掘権者に@nazonorekisi https://t.co/QFREct9Fub
— 本物黒酒 (水原紫織)『もう一人の「明治天皇」箕作奎吾』好評発売中 (@honest_kuroki) May 22, 2016
なお勝海舟と福沢諭吉は生涯不仲であったようです。勝海舟は福沢諭吉の正体を見抜いていたのでしょう。差別意識のもと、外国勢力を導き入れて日本支配をさせて、その中自分を特権階級に置く、この福沢諭吉の心情を。
明治維新とは英領日本の完成でもありました。こう見ると日本は受け身で外国勢力からの侵略を受けた側に見えます。無論その側面も強くはあります。
しかし一方的に日本全体が侵略されたわけではありません。日本の中に積極的に外国勢力を引き入れて日本支配に導きながら、自分たちの支配力・権力・権勢を高めるのに務めてきた人物群があります。
昨年12月26日の竹下さんの記事には、日本のサンカと呼ばれる勢力が日本のゴールドを海外に流出させて、それが「アメリカ独立、フランス革命、ナポレオン戦争、そして、永世中立国スイスの誕生」に繋がったとありました。
これだと江戸時代の早い段階で日本の中で外国勢力と深く繋がり、協働する勢力があったことになりますが、幕末には外国勢力と繋がる日本の人物群の動きは顕著になっています。
この人物群の最有名人が福沢諭吉です。万札の彼です。「天は人の上に人をつくらず…」の平等主義とされる彼が、外国勢力を日本に引きれ入れた一人です。
先の12月26日記事のリンク先のるいネットには「福沢諭吉は、『賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき』という指示を天皇に与えました。」とあります。日本の婦女子を外国に売り渡させたのが諭吉というわけです。
竹下さんはどこかで「紙幣に載せられる人物たちにまともな人間はいない」と語られていました、これはやはりどうも本当のようです。