ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第22話 ― 「異界」との境界

「穢れ(けがれ)とは、忌まわしく思われる不浄な状態。死・疫病・性交などによって生じ、共同体に異常をもたらすと信じられ避けられる」
(ウィキペディア「穢れ」)

 この一文で共同体、つまり里の民は「穢れ」を忌み、里の外れに放逐しようとしてきたのが窺えます。
 里の民とは江戸時代でいうならば士農工商制度のうちにある民です。「里」の外は「異界」になりますが、その結界というか境界があります。川がその境界になる場合も多くあり、その場合は、川の内側は里で川向うは異界となっていたでしょう。
 そしてその境界に生活する人々もいました。「河原者」などと呼ばれていました。河原は昔は多くは葬送の場所で、遺体を棄てる場所でもあったのです。
 河原の住人は里から必然的に出てくる「汚れ」を処理する役割を担ったりしていました。死牛馬の処理や屠畜などのはその代表的なものです。それで「穢多」という蔑称がでてきたようです。また「河原者」には旅芸人なども含まれ、「河原乞食」と呼ばれていました。
 一方、里の民に対して異界の民がいました。その最たる存在が異国人です。謎の山窩(サンカ)もそうでしょう。境界の住人が異界の民と繋がった窓口的な役割を果たした様子でもあります。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第22話 ― 「異界」との境界

蘭癖と天忠党の関係 〜蘭学者の起こり


外国勢力を招き入れ「英領日本」を導いた人物群の一角に「蘭癖」と称された人々がいたことを前回見ました。蘭学者や九州の外様大名などで、外国勢力と彼らは繋がっていました。その「蘭癖」の代表が薩摩の島津重豪。重豪の子である奥平昌高・黒田長溥や、曾孫の島津斉彬」とのことでした。

島津重豪とその 曾孫の島津斉彬は共にその娘を将軍家に嫁がせて権勢を振るったのですが、天忠党には「諸国同士」の同盟者として島津斉彬の名が上がっています。

蘭癖大名の筆頭・島津重豪
Wikimedia Commons [Public Domain]
島津斉彬
Wikimedia Commons [Public Domain]

天忠党は八咫烏の倒幕と親政を目的に結成された政治組織であり、天忠党こそが明治維新の中核組織であったことは既に度々見てきました外国勢力を招き入れ「英領日本」を導いた「蘭癖」の一群と、天忠党は協働していたということでしょう。

天忠党図の下部には天忠党の仲間、もしくは下部組織として薩摩以外にも筑後久留米藩、肥後藩、筑前黒田藩、豊後岡藩、以上の九州の藩名が上がっています。この中、特に注目すべきは筑前黒田藩でしょう。

筑前黒田藩(福岡藩)はバテレン大名の黒田孝高(官兵衛・如水)の息子で同じくバテレン大名の黒田長政から始まっています。ウィキペディアの「福岡藩」には次のようにあります。

「10代・斉清は、江戸時代後期、蘭癖大名として世に知られ、肥前長崎の黒田家屋敷に何度も往来して見聞を広げている。」

11代・長溥は、薩摩藩・島津氏からの養継嗣。正室は斉清息女、純姫。父や養父と同じく蘭癖大名であった。」

黒田藩(福岡藩)黒田長溥
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蘭癖島津重豪の子である黒田長溥とは、筑前黒田藩(福岡藩)の11代藩主であったわけです。バテレン大名から始まり、蘭癖大名が治めていたのが筑前黒田藩で、長い期間にかけて外国勢力と繋がっていたと見るのは自然でしょう。

また 筑前黒田藩の7代と9代は「御三卿・一橋徳川家からの婿養子」ともあります。 筑前黒田藩が注目なのはバテレン大名、蘭癖、島津氏と繋がっていたこともありますが、後の玄洋社に繋がっていくからでもあります。

秘密結社八咫烏の政治組織天忠党と蘭癖がどうやら深く関わっていた様子なのですが、一方この蘭癖に関して前回に挿入されていた「本物黒酒」さんのツイートには次のようにありました。

「蘭学者はもともと、出島に四足を供給する穢多で、その解体と肉加工に従事する間に蘭語や徳語や英語を覚え、通訳・翻訳家・蘭医になった人々。特に鉱脈に詳しい山窩が英米に喜ばれ、外患誘致した」

この内容によると、蘭癖の中でも蘭学者は被差別部落民の穢多から元々は出来上がり、その中でも鉱脈に詳しい山窩が重要な役どころになっていたとの見解です。

サンカとして紹介された人々の暮らし
毎日新聞社「毎日グラフ(1954年3月31日号)」より
Wikimedia Commons [Public Domain]

山窩といえば前回記事で昨年12月26日の竹下さんの記事から「日本のサンカと呼ばれる勢力が日本のゴールドを海外に流出させて、それが『アメリカ独立、フランス革命、ナポレオン戦争、そして、永世中立国スイスの誕生』に繋がった」とあるよう、サンカが外国勢力と深く繋がり、協働する勢力であったことを見ました。

果たして秘密結社八咫烏と蘭癖、被差別部落民、サンカがどのような関係にあったのか?が気になります。

里の民と異界の民 〜牛肉食を好んだ人物


秘密結社八咫烏と蘭癖、被差別部落民、サンカ、これらの関係や立ち位置、これは難しいです。正直私自身、その正体らしきものをちらちらと垣間見られることはあっても、きちんとした整理や理解もできていないです。何しろ謎が多いのです。

最も資料が多い被差別部落民をとっても、それがどのように発生したのか? その実態はどうだったのか? これらについても諸説があり明瞭ではないのです。ましてや秘密結社八咫烏など、竹下さんが取り上げていただいたのでおぼろげにはその姿が浮かび上がりましたが、それまでは存在自体が幻の謎の組織だったのです。サンカも同様です。謎だらけなのです。

ただしハッキリしているところもあります。江戸時代で言うと日本の通常の社会は士農工商制度で成立していました。士農工商の民はいわば身分は異なれども「里の民」です。それに対して「外れた」存在がありました。「山の民」「海の民」などがそうなのですが、八咫烏、サンカはその外れた側にあるのです。普通の「里の民」から見れば「異界」の住人でしょう。

編集者註:三角寛による創作とされる山窩(サンカ)像

「里の民」とそこを外れた民は生活形態、食文化を含めた生活文化を異にしています。

一例を挙げます。明治維新「英領日本」のタイムスケジュールを決定させたのは文久遣欧使節でした。この使節団メンバーが苦しんだのが食事の問題だったのです。使節団を乗せた舟はフランス船で、そこで出される料理はフランス料理でした。しかしこれを当時の「里の民」の普通の日本人が食すのは至難の業だったのです。

日本ではもともと天武天皇の時代からその後平安時代を通して獣肉食は「穢れ」として忌避されていました。そして江戸時代では獣肉食は禁じられていたのです。その普通の日本人にとってフランス料理の獣肉料理はもちろん、牛乳でも「獣臭く」パンでも「気味悪く」喉を通せなかったのです。それで使節団長の池田長発を始めメンバーの多くがひょろひょろのヘレヘレの幽鬼のような状態になったとの報告もあります。

編集者註:ツイッター画面でこのツイートが表示されない場合は、以下のURLを貼り付けてください。
https://twitter.com/rUyaCVtIiRxgC9M/status/1210838186122825728

ところがこのような日本人メンバーと全く異なった使節団メンバーがいました。福沢諭吉です。この御仁は洋食、とりわけ牛肉食が大の好物だったようで、明治で獣肉食が解禁されると、盛んに牛肉食を世間に薦めています。ウィキペディアの「日本の獣肉食の歴史」に以下のようにあります。

「福翁自伝によれば、福澤諭吉が適塾で学んだ江戸末期の1857年(安政4年)、大阪に2軒しかない牛鍋屋は、定客がゴロツキと適塾の書生ばかりの『最下等の店』だったという。」

諭吉が学んだ適塾とは蘭学塾です。その近くにあった牛鍋屋で諭吉と蘭学塾の仲間は既に牛肉食をとっていたのです。江戸時代獣肉食は禁じられていたのですが、蘭癖大名や蘭学者は様相が異なっており、彼らは明らかに獣肉食をとっていたのが分かります。里の民と蘭癖となった人々とはその文化を異にしており、蘭癖も里の民と一線を画していたのが見えます。


穢多と山窩の関係 〜一部重なる生活様式


文久遣欧使節のメンバーで、諭吉をして「同士同感、互いに目的を共にする」とした箕作秋坪と松本弘安(寺島宗則)も獣肉食は平気だったのでは?という気がします。

「本物黒酒」さんは先のツイートにあるよう穢多の中に山窩が含まれていると見ているように思えます。その上で『もう一人の「明治天皇」箕作奎吾』で「御書翰掛(ごしょかんがかり)」の要職にあった福沢諭吉と箕作秋坪が穢多であったと推察されているようです。

①穢多に山窩が含まれる。②福沢諭吉と箕作秋坪が穢多であった。この2つの見解ですが、私自身は調査が不足していることもありますがかなり懐疑的ではあります。ただし、穢多と称されていたような被差別部落民が、イエズス会や外国商人などに接触して最初の蘭学者になっていったとの見解は「そうなんだろうな」と思えます。

穢多や非人と称された彼らは士農工商の枠から外れた存在で、死牛馬の処理を行い皮革製品を取り扱ったりしました。死牛馬を解体する彼らはその肉を食してもいたでしょうし、欧州異国人に牛肉などを提供したのは紛れもなく彼らでしょう。その異国人との接触の中で蘭学を身に着けていったのも自然に思えます。


一方、穢多と山窩の関係ですが、山窩が穢多の中に含まれてしまうのか?については疑問です。しかし穢多と山窩は親和性が強いのも事実でしょう。山窩は一般的には定住せず、山を川を移住する漂泊の民とされます。一方穢多の中には「河原乞食」とも称された漂泊の旅芸人もいたからでもあります。

また、山窩は里人とは異なった独特の生活スタイルが知られています。「山窩(サンカ)とは何か」という記事には「山窩料理」として「川魚料理をだす。米を食わないサンカらしく、米飯がなく、よもぎソバがメインの料理」とあります。米麦等の穀物が主食の里の民とはかなり食文化が違います。

更に穢多と山窩の関係ですが、この記事では「サンカは明治初期から次第に被差別部落や都市部のスラム街に溶け込んでいったという。」とあります。穢多と山窩は同一ではないにしても、山窩が被差別村に入ったり、逆にそこの住民が山窩として被差別村を出ていったりする交流はあったように思えます。

そして「本物黒酒」さんは前回の挿入ツイートの中で「山窩は弥生時代以来大陸や半島からの渡来人に蹂躙されてきた先住民の子孫で、固有の言語を守り、結束」との見解を出されていました。

編集者註:画像は下関市の彦島杉田丘陵にあるペトログラフです。
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この「山窩(サンカ)とは何か」の記事でも山窩の起源について幾つかの見解の中「大和朝廷に征服された先住民族であり、原日本人である」との見解を重視しているのが分かります。ただしこの見解と全く異なる見解もあります。


Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

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