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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第7話 ― 天忠党(下)

 明治維新は複雑です。国内で幕府と朝廷などが争い、また、そのそれぞれの国内勢力が内部で争い、更にその全体に外国勢力が関わると言った具合、様々な要素が絡み合っているのです。特に本来は敵同士なのが、目的遂行のため手を取り合ってもいる事実を幾度も見かけるので厄介です。
 明治維新の主題は天皇の統治でもあります。天皇にとってはその血筋・血統が命脈です。天皇は日本最高の大神官です。日本全国で先祖が祀られており、原則として祀るのは先祖の血筋・子孫です。神官とは祀るその先祖神の血統をひくものなのです。
 「皇祖神であり日本の総氏神」が天照大御神とされます。皇祖神なので天照皇大神とも記されます。天皇は神武天皇以来男系で血筋が保たれ、その血統は天照皇大神まで遡ります。先祖神、皇祖神の天照皇大神の血筋を引くから大神官の天皇が成立するのです。
 逆に皇祖神の血筋を引いていないと天皇の資格なしなのです。正統な天皇との主張は祖神の血筋を引いているということです。南朝と北朝のそれぞれが「自分たちこそが正統の天皇」との主張とは、「自分たちは祖神の血筋であり、相手はその血筋を引いていない」との主張になるでしょう。これは決して互いに相容れることはないので、南朝と北朝は敵同士にならざるを得ないのです。
 さて、これまで見てきたように明治維新の中核組織が天忠党でした。天忠党は実は秘密結社八咫烏に所属し、南朝を正統とする政治組織です。南朝勢力になりますから北朝とは敵対組織に当然なるはずです。ところが、この天忠党をその意思で組織として立ち上げたのは北朝天皇の光格天皇です。北朝天皇と天忠党が所属する八咫烏は本来的に敵同士になる関係です。しかし王政復古を実現させるために北朝の光格天皇と八咫烏は手を結んでいたのです。
(seiryuu)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第7話 ― 天忠党(下)


天忠党組織図が示す意味 〜天忠党総督が大日本皇道立教会会長に


天忠党は討幕を目的とした軍隊組織であったので、徳川幕府政権下では必然的に地下組織にならざるを得ません。天忠党が地下の闇組織であったがゆえに、貴嶺会が出している組織図に示されるような天忠党組織は実在していたのか? またその総督の中山忠伊が光格天皇の皇子とされているが本当か? この2点に疑問を持つのも自然かも知れません。

しかし天忠党の後継組織となった大日本皇道立教会は、父の中山忠伊から天忠党総督を継承した中山忠英(秀)を会長に冠した組織であり、表に出ている組織です。

明治44年に組織された大日本皇道立教会は、明治の元勲で元首相の大隈重信らを押さえて全く無名の中山忠英が会長になっており、天忠党が存在していなかったら大日本皇道立教会も組織されなかったのは当然で、また全く無名の中山忠英がその会長に就任しているのは、彼が光格天皇の孫であることの傍証になってもいます。


貴嶺会の天忠党図で「諸国同士」とされ同盟関係にあったのが徳川斉昭、島津斉彬、坂上一族でした。総督の中山忠伊は彼らを同盟者として持ち上げてはいたでしょうが、少なくとも対等か、それ以上の関係にあったでしょう。

中山家そのものは羽林家の中級公家で禄高は200石です。それに対して島津斉彬などは実禄は100万石を超えると推定された大大名です。中山家と島津家の禄高など比較もお話にもなりません。それがなぜ対等以上の関係となっていたのか? 中山忠伊が光格天皇の皇子であったからこそ、徳川斉昭や島津斉彬ら同盟者と対等以上の関係が結べていたと見るしかないです。

それだけではありません。朝廷内部の秘密組織であった天忠党の本部の関係を見ると、中山一族の後ろに前関白の近衛忠煕とあります。朝廷は言うまでもなく序列を非常に厳密に重視します。格上の人物の前に格下の人物が記されることはありません。ところが朝廷の最高職である関白を勤めた近衛忠煕の前に中山一族の名が記されているのです。近衛家は公家最高の五摂家の筆頭でもあり、羽林家の中山家が先に記されるのは本来ありえないのです。

また、近衛忠煕の後には内大臣の西園寺寛季、三条実万とあります。近衛忠煕以下のところは序列通りです。西園寺家は五摂家に次ぐ清華家、三条実万は七卿落ち筆頭の三条実美の父ですが三条家も清華家です。五摂家や清華家の前に羽林家の中山家が上座に記される不思議。朝廷で最高職の関白の上位にあるのは唯一、天皇のみです。

編集者註:公家の家格は摂関家>清華家>大臣家>羽林家・名家>半家。明治期の華族制度で比較すると、伯爵に相当する中山家(羽林家)が天忠党組織図では、公爵に相当する五摂家筆頭の近衛家や、侯爵に相当する西園寺家・三条家(清華家)よりも格上に記されているということ。

天忠党組織内で近衛忠煕の上座に中山一族があるのは、光格天皇の意思で天忠党は作られ、その天忠党総督が中山家の養子に入った光格天皇の皇子であるから」。これ以外では事実の説明がつかないのです。

改めてですが、討幕を目的とし光格天皇の皇子がその総督になっていたこの天忠党は実在したのです。そして天忠党が明治からの国家体制を作っていったのでもあります。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第6話 ― 天忠党(中)

 1867年10月に出された「討幕の密勅」。この原本写しが、それぞれ下された側の鹿児島(薩摩)と山口(長州)の資料館にあります。中山忠能らが署名したものですが、これはどう見ても偽造の密勅です。この密勅には天皇の筆が一切記されていません。
 公史上では、この1867年1月にすでに孝明天皇は崩御していて、密勅を下すのは睦仁親王が即位した明治天皇のはずですが、この時は明治天皇はまだ15歳の少年です。おまけに睦仁親王はその3年前の1864年秋に「禁門の変」で、朝敵とされることになった長州勢から自分の住居の御所に発砲され、その騒ぎの中で卒倒もしているのです。
 この睦仁親王が、自分の意志で朝敵であった長州などに討幕令を下すなど考えられないのです。更に署名した中山忠能なども密勅書に押印していません。1867年の討幕の密勅は偽造と見るのが当然なのです。
 それでは天皇からの徳川幕府の討幕の勅が存在していなかったか?といえば、「密勅はあった」のです。中山家に、中山忠能の曽祖父である中山愛親に、光格天皇から密かに討幕の密勅が下されていたのです。この密勅が後に倒幕の王政復古としての明治維新へと繋がるのです。
 逆に言うと明治維新への展開や維新の中核組織天忠党のその後の展開を見れば、“①光格天皇から中山愛親らへ「討幕の密勅」が下された ②天忠党総督の中山忠伊は光格天皇が中山家に養子に出した自分の皇子”。このことは事実と見る以外にないのです。そうでないと明治維新に関わる事物の辻褄や整合性がとれないのです。
(seiryuu)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第6話 ― 天忠党(中)

天忠党の魁となった中山愛親 〜天忠党の同盟者たち


天皇を、そして朝廷も左右し、日本全国の志士たちなども動かした天忠党。天忠党総督は光格天皇の皇子であったとされる中山忠伊であったことを前回見ました。東吉野村のホームページに興味深いことが記されています。天忠党の正体が示唆されているのです。

1863年8月の孝明天皇大和行幸の勅をうけて決起挙兵したのが「天誅組」で、天忠党の下部組織です。この天誅組の大幹部で総裁の一人であったのが藤本鉄石です。東吉野村のホームページには、藤本鉄石が壮絶な討ち死にをする前日に残した辞世の句となった3首を載せています。その一つが次です。

八咫烏 みちびけよかし 大君の 事しいそしむ 御軍(みいくさ)のため

5・7調の句の切り方が合っているかは分からないのですが。この句の意味はごく簡単には「八咫烏よ、導いてくだされよ。天皇に尽くすべく立ち上げたこの皇軍を。」でしょう。

つまり、天忠党はどうやら八咫烏に所属する組織であったようなのです。そして彼らは朝敵とされたので皮肉ではありますが、自分たちを皇軍と認識していたようなのです。彼らは占領した五条の地を「天朝直轄地」と称しています。

この天誅組が朝敵とされ壊滅したのが要因となって天忠党総督中山忠伊は自刃するのですが、貴嶺会の情報(2段目後半)によれば中山忠伊が自刃したのは平野郷の坂上一族の邸宅。日時は1864年2月10日との情報が別にあります。

貴嶺会の天忠党図によると「諸国同士」と記され同盟関係を結んでいたであろう人物図があります。筆頭には水戸の徳川斉昭、次いで薩摩の島津斉彬、そして次に坂上一族とあります。


倒幕勢力の本体で明治維新の核になった組織が天忠党であり、その筆頭の同盟者が水戸の徳川斉昭であり、次いでの同盟者が大奥を掌握していた篤姫の義父の島津斉彬だったわけです。徳川幕府内に討幕の中心勢力があったのです。そして同盟者の坂上一族とは征夷大将軍坂上田村麻呂の子孫で、大阪平野郷をその本拠地としており、朱印船貿易を取り仕切っていたようです。

貴嶺会の天忠党図を見れば天忠党の本部は朝廷内に決起した討幕の軍隊組織だったと見えます。その天忠党の総督の初代、もしくは天忠党組織の魁となった人物が中山愛親だと分かります。この座を中山家の忠尹、忠頼、忠伊が引き継ぎ、忠英(秀)へ引き渡されたのが記されています。

初代総督もしくは討幕運動の魁となった中山愛親は光格天皇の側近であり、江戸幕府に赴き「中山問答」と呼ばれる討議を幕府と展開した人物です。貴嶺会の情報によれば中山愛親はその後に光格天皇から「討幕の内勅」を受け、ここから討幕運動が展開されるのです。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第5話 ― 天忠党(上)

 偽造の密勅「討幕令」に署名した一人、中山忠能についてこうあります。

「朝廷に嘆願書を提出するために発砲しつつ御所に近づいている長州藩兵を会津・桑名・薩摩連合軍が撃退した(禁門の変)。その翌日7月20日(8月21日)の夜、宮中に不審者が300人以上侵入するという騒ぎが起こり、パニックの中で睦仁親王が一時卒倒した。長州藩に内通したとの嫌疑で外祖父・中山忠能に蟄居処分が下ることとなる。」(ウィキペディア「明治天皇」)

 これは異常な事態です。既に見たように、1864年の「禁門の変」で皇居に向かって発砲する長州勢も異常ですが、その翌日、皇居に不審者が300人以上侵入、睦仁親王が卒倒する事態、更にその手引をしたとして睦仁親王の母の父親、外祖父・中山忠能が処罰を受けているのです。
 「禁門の変」は京都御所(皇居)に放火し、孝明天皇と睦仁親王を拉致する計画から起きた暴力クーデターです。この長州勢と内通していたとして中山忠能は処罰を受けているのです。
 更にその前年1863年は、中山忠能の7男中山忠光が下関戦争となる外国船への発砲に加わったのち、大和で挙兵し「天誅組の変」を起こしています。「天誅組」の上部組織が「天忠党」です。天忠党は孝明天皇の意向を差し置いて、天皇の名代のように振る舞っていたよう見受けられます。
 しかしこの1864年には天忠党の総督にも驚愕の事態が訪れていた模様なのです。
(seiryuu)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第5話 ― 天忠党(上)

「大和行幸」の勅 〜 八月一八日の政変へ


1863年、外国勢力を武力で排そうとの攘夷の嵐が日本に吹き荒れていました。京都では浪人による「天誅」と称する暗殺、強盗、強姦等が横行し、主に「尊皇攘夷」を掲げる長州勢が京都を席巻していました。長州では尊皇攘夷の討幕派が実権を握っていたのです。

そして朝廷内でもこれに呼応し、急進的な攘夷派が勢力をもち実権を握っていたのです。この3月、将軍家茂が孝明天皇の妹を嫁にいただく条件で上洛し、「攘夷決行」を約束する状況となります。

これを受けて長州藩は5月に外国船への砲撃という攘夷実行を断行。しかしこの長州の行為に同調する藩は皆無、長州藩の暴走という形になって諸外国からの報復の攻撃を受け長州藩は敗北します(下関戦争)。

編集者註:ツイート中の画像は、翌年(1864年)四国連合艦隊によって占拠された長府の前田砲台の様子。

巻き返しを計る「尊皇攘夷」勢力は改めて孝明天皇に強く働きかけ、孝明天皇は不本意ながら8月13日に「大和行幸」の勅を発しました。大和行幸は大和の孝明天皇が神武天皇陵と春日大社、伊勢神宮にまで行幸するものですが、これは「尊皇攘夷」勢力によって企てられた天皇による攘夷親征の計画でした。

攘夷親征とは、征夷大将軍の徳川家茂を通り越して天皇が直接大将となって外国勢力の夷狄を打ち払うというものです。天皇がたてば必然的に徳川幕府も攘夷の軍事行動を起こさなくてはならないですが、同時に天皇が直接攘夷に出るということは征夷大将軍、徳川幕府は不要ということです。

「大和行幸」の勅の実行は、後戻りができない攘夷と倒幕運動の実行を意味します。この画策は長州の正義党久坂玄瑞が中心となっていたとされます。この事態に、前年に寺田屋騒動で藩内の急進攘夷派を粛清し「公武合体」の意思を示した島津久光の薩摩藩と京都守護に入っていた会津藩が、孝明天皇と親しい中川宮朝彦と談義、急進攘夷派の京都追放を謀議します。

8月16日夜、中川宮の進言を受けていた孝明天皇は、長州ら急進攘夷派の京都追放の密勅を出します。その密勅を受けて8月18日未明より急進攘夷派の京都追放が断行されます。長州軍が放逐され、撤退する長州勢と共に三条実美たち七人の急進攘夷派の公卿公家も長州へ都落ちします。これが「八月一八日の政変」並びにそれに伴う「七卿落ち」です。


「大和行幸」の勅が逆転の「八月一八日の政変」を呼び、それが翌年にさらなる事態を呼びます。そして「大和行幸」の勅は別のドラマを生んでもいたのです。「天誅組の変」です。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第4話 ― 討幕派とは誰か

 明治維新の底流には外国勢力の日本侵略計画があることを見てきました。外国勢力とは全体として表現すれば欧州の「黒い貴族」という表現が間違いないでしょう。イギリス東インド会社のアメリカ支店のペリー率いる東インド艦隊来航が日本を大きく揺さぶり、その後の大変換を呼んだのです。
 ただし、無論具体的には外国勢力の働き中心で徳川幕府の転覆から明治維新が成立したわけではなく、日本の内部にある勢力の働きでそれは達成されていったのです。
 この日本内勢力は通常は薩長と捉えられているでしょう。明治維新は定番として“薩長VS徳川幕府”の構図で語られるからです。そして薩長が倒幕から明治維新の一大勢力であったのは間違いはないです。
 しかしそれ以前に倒幕、明治維新を牽引する国内勢力がありました。薩長などが合言葉にしていたのが「尊皇攘夷」で、これは水戸光圀からの水戸学から生まれた思想です。日本全国に広がった「尊皇攘夷」思想が倒幕、明治維新に繋がったのです。
 実は意外かも知れませんが、水戸徳川が倒幕勢力の中心でした。つまり、徳川幕府の内部に倒幕勢力の中心があったのです。そして更に水戸徳川と連携していたでしょうが、倒幕勢力の本体が別にあったのです。
 この勢力が現在の安倍政権とも繋がっている勢力でもあります。
(seiryuu)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第4話 ― 討幕派とは誰か

明治維新の牽引者 〜南紀派と一橋派の争い


明治維新の最大功績者は徳川慶喜。こう記すと「まさか!?」と驚かれるかも知れません。私自身もそのような情報に接した時「え!?」となりました。

私達には明治維新は”薩長VS徳川幕府”、この構図が刷り込まれています。それで私の中にも維新の流れを見ると、「徳川は随分あっさりと身を引いたものだな」との感はあっても、「徳川自身が明治維新を進めた」、こういった言葉が存在していなかったからです。

ただし事実として、徳川最後の将軍徳川慶喜はあっさりと「大政奉還」を宣言し、鳥羽・伏見の戦いでは部下を置き去りにし敵前逃亡、その後江戸城を開城しているのです。この慶喜の行動で速やかに維新は成立していったのです。

鳥羽・伏見の戦いでは、外国勢力は抜きにして薩長軍と幕府軍のみを比較したら、全体の兵力は幕府軍が圧倒していたのです。ところが司令塔が不在になり、幕府軍は敗退するのです。将軍慶喜の存在なくしてあのような明治維新は無かったのです。


さて、このような情報を与えてくれたのがリンパ球バンク株式会社の「表に出始めた明治維新の真実 ~総集編」という記事です。少し長いですが文章は巧みで、全文読まれたら良いかと思います。「どうかな??」と思える部分はありますが、概ねは記述されていることに間違いはないと思います。

この目次の中に「討幕の英雄三傑、慶喜将軍、勝海舟、榎本武揚のその後」とあります。薩長VS徳川幕府の視点ではなく、倒幕の英傑を慶喜将軍、勝海舟、榎本武揚の三名としているのです。明治維新を牽引したのはむしろ徳川内部からの勢力だったという視点です。

この記事では「倒幕派の重鎮」としてまず水戸徳川、そして島津斉彬(薩摩)山内容堂(土佐)松平春嶽(福井)の名を挙げています。ここで挙げられている「討幕派の重鎮」メンバーは、「倒幕派」というよりは全体的には「一橋派」とした方が正確で無難かな?とは思えるのですが、幕末に将軍の後継者問題が勃発し「南紀派」と「一橋派」の争いがあったのです。

歌川広景筆 『青物魚軍勢大合戦之図』
編集者註:将軍継嗣問題(一橋派 vs 南紀派)を風刺した幕末の浮世絵。蛸は水戸名産で「徳川斉昭」、藤顔(冬瓜)は「井伊直弼」。詳細はこちら
Wikimedia Commons [Public Domain]

簡単には血統を重視する保守派が「南紀派」、一方の能力主義の根本改革派が「一橋派」です。「一橋派」が推していたのが英名と評判の「一橋慶喜」、後の徳川慶喜です。しかしこの争いは「南紀派」が勝利します。

この流れの中で大老に就任していた井伊直弼は日米修好通商条約に調印し、それに激昂する水戸徳川などに対して「安政の大獄」を断行します。井伊直弼の行為は大老として徳川幕府の権威を守り回復し、外国勢力と正常に対処していくためのものだったと見受けられます。

しかしこの井伊直弼は程なくして凶刃に倒れます。「桜田門外の変」です。脱藩水戸浪士グループに大老が惨殺され、幕府の権威は完全失墜したのです。

そしてこの後は「一橋派」が日本国内を牽引していくのです。即ち「一橋派」が維新の主要メンバーとなるのです。

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[竹下雅敏氏]大日本皇道立教会の歴代会頭・副会頭 〜 八咫烏の政界工作組織・五龍会の中枢「黄龍会」の本体は大日本皇道立教会ではないか

竹下雅敏氏からの情報です。
 八咫烏は政治に関与せず、下部組織の五龍会が政界工作をしているらしい、ということを前回説明しました。
 明治維新において決定的な役割を果たした天忠党の後継団体に、大日本皇道立教会があることを、何度か紹介して来ました。私の考えでは、大日本皇道立教会は、裏天皇・堀川辰吉郎に仕えていた政治結社ではないかと考えています。
 貴嶺会のサイトにある貴嶺会関係組織図によると、
大日本皇道立教会
(大正三年)
会長 前宰相  中山忠英
会頭      土方久元
副会長 前法相 千家尊福
副会長     中山忠宗
幹事長     頭山満
となっています。
 以下に大日本皇道立教会の歴代会頭、副会頭を紹介します。情報元はこちらです。
 人物像を見ていると、やはり血の繋がりというか、血筋が優先されるのだと思います。会長の中山忠英は、天忠党の総督中山忠伊の子です。忠伊は実は光格天皇の皇子であったわけで、天皇の孫の中山忠英が会長になっているわけです。
 前回の記事で、五龍会の一つの赤龍会の総長が上原勇作だったのではないかということを示しましたが、上原勇作と中山忠英では、血筋の上で圧倒的な開きがあります。五龍会の中枢は東西南北の“中”を意味する黄龍会ですが、おそらく、黄龍会の総長はこの中山忠英であっただろうと思います。要するに、黄龍会の本体が大日本皇道立教会なのではないでしょうか。
(竹下雅敏)
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大日本皇道立教会 歴代会頭・副会頭
000
土方 久元 大日本皇道立教会初代会頭
1833年11月23日~1918年11月4日
称号 伯爵 従一位 勲一等旭日桐花大綬章
日本の旗 第2代 宮内大臣(在任期間1887年9月16日 - 1898年2月9日)
日本の旗 第2代 農商務大臣(在任期間1887年7月26日 - 1887年9月17日)


001
千家 尊福 大日本皇道立教会初代副会頭
1845年9月7日~1918年1月3日
前職 神道大社教管長
称号 従二位 勲一等旭日大綬章 男爵
日本の旗 第14代 司法大臣(在任期間1908年3月25日 - 1908年7月14日)


002
四条 隆愛 大日本皇道立教会第二代会頭
1880年6月8日~1938年10月2日
陸軍軍人。陸軍騎兵少佐従二位勲三等侯爵となり、貴族院議員を務めた。元老院議官四条隆謌陸軍中将侯爵の子で、四条隆生の孫。妻の糸子は江戸幕府最後の征夷大将軍である徳川慶喜公爵の娘。家格は羽林家。


003
三島 彌太郎 大日本皇道立教会第二代副会頭
1867年5月4日~1919年3月7日
前職 銀行家
称号 勲三等旭日中綬章
日本の銀行家。子爵。三島通庸の長男で、最初の妻は大山巌の長女信子、離別後四条隆謌侯爵の三女加根子と再婚。1897年(明治30年)の第2回伯子男爵議員選挙で貴族院議員に当選。議員生活の傍ら金融業に深く関与。横浜正金銀行頭取を経て、1913年(大正2年)第8代日本銀行総裁に就任。

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写真出典:
http://omugio.exblog.jp/17737977/

四条隆徳 大日本皇道立教会第三代会頭
1907年3月 ~1977年11月 父・四条隆愛


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写真出典:
http://www.town.takanabe.miyazaki.jp/display.php?cont=120608101857

秋月 左都夫 大日本皇道立教会第三代副会頭
1858年2月24日 ~1945年6月25日
日向国生れの外交官。宮内省御用掛、正三位・勲一等。スウェーデン公使、駐ベルギー公使、オーストリア特命公使を歴任後、大正3年(1914年)に退官。大正8年(1919年)のパリ講和会議では全権顧問をつとめた。読売新聞社の編集顧問(後に社長)、京城日報社長。 政治家の古島一雄らとともに創価教育学会(創価学会の前身)の設立にも尽力した。

以上の画像の出典)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%96%B9%E4%B9%85%E5%85%83
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%AE%B6%E5%B0%8A%E7%A6%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E9%9A%86%E6%84%9B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E5%BD%8C%E5%A4%AA%E9%83%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E5%B7%A6%E9%83%BD%E5%A4%AB
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