ユダヤ問題のポイント(日本 大正編) ― 第1話 ― 堀川辰吉郎と孫文

 1912年7月、睦仁親王が死去し明治時代が幕を閉じました。同年、大正天皇が即位したことで大正時代が始まったことになっています。しかし睦仁親王は初代裏天皇であり、跡を継いで2代目裏天皇となったのは堀川辰吉郎です。つまり大正時代初年の1912年は堀川辰吉郎が裏天皇として即位した年でもあるはずなのです。そして辰吉郎の裏天皇即位、こちらが歴史の本質としての大正時代の幕開けとなるでしょう。
 さて、この年の1月ですが、中国では前年からの革命運動が辛亥革命として成立し、清朝が倒れ、中華民国が誕生しています。臨時大統領ながらその初代の大統領となったのが革命運動の指導者である孫文でした。
 孫文は通称「中国革命の父」、台湾では「国父」と呼ばれている人物です。その孫文と日本の関係なのですが、実は孫文にとって日本は「第2の故郷」と言えるほどなのです。孫文は革命運動の中で日本に亡命し、長らくの期間に渡って住んでもおり、孫文は日本名で「中山樵」と名乗って(この“中山”の名が重要なポイントにもなっています。)もいたようなのです。
 そして更に意外にも、実は孫文と堀川辰吉郎は非常に密接な関係にあって、それは革命運動で生死をともにしたともされるほどの結びつきだったようなのです。
 孫文が初代中華民国大統領に就いた同年に、堀川辰吉郎が2代目裏天皇に即位して大正時代が幕開けとなったのには深い因縁を感じますが、孫文と堀川辰吉郎が何故そのように深く結びついていたのか? これには古くからの秘密結社ネットワークが、歴史的な背景があったはずなのです。
 堀川辰吉郎は八咫烏、そして孫文は客家だったのです。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 大正編) ― 第1話 ― 堀川辰吉郎と孫文


孫文に同行した堀川辰吉郎 〜孫文の革命運動の協力者だった頭山満


孫文(テーブル中央)と頭山満(右隣)の神戸での会見(大正13年)
呉竹会_頭山満 [Public Domain]

落合氏によると、堀川辰吉郎は福岡の玄洋社(白龍会)の頭山満、杉山茂丸によって保護・育成されたとされます。その後その頭山満は堀川辰吉郎を「中国革命の父」の孫文に託したのです。ウィキペディアの堀川辰吉郎の記事に次のようにある通りです。

折あたかも、頭山を頼って日本に亡命していた孫文が帰国の途につこうとしていた際であった。堀川は日本の学校にいられなくなったため、13歳のある日、頭山の依頼で孫文に托されて中国に渡ることとなったという。
(中略)
以後、1912年まで孫文と生死を共にして辛亥革命の成功に尽力した。このとき孫文が周囲に対して堀川を「日本の若宮」と紹介し、「日本が我らに若宮を托したことは、わが革命軍に対する日本の賛意の証」と主張して政治宣伝に利用した...(以下略)

孫文は1894年にハワイで興中会を創立、日清戦争後の動きと連動して武装蜂起を企て、清朝の打倒を掲げますが密告で挫折。ロンドン亡命後に日本に亡命し、その中で宮崎滔天が孫文を頭山に引き合わせます。

大アジア主義を掲げていた頭山は、新生中国誕生を見越して孫文の強力な保護者となっていったようなのです。孫文と頭山たちは密な交流をしていた様子ですが、革命の継続のために孫文が中国に帰還する際に、頭山は孫文に辰吉郎を託したのです。

これには実のところ歴史的背景があるはずなのですが、直接的には頭山の狙いとしては、辰吉郎が中国での革命運動を通じての更に広い視野の獲得と、実地での経験を積んでもらうためだったと思えます。
(ただし堀川辰吉郎の生年が不詳のため、辰吉郎が孫文と中国に渡った時期は正確にはいつであったのか?については混乱があります。)

一方、辰吉郎を託された孫文は、ウィキペディアに辰吉郎を周囲に「日本の若宮」と紹介したとあるように、辰吉郎を大切に扱い、辰吉郎もまた孫文の片腕として懸命の活動をした模様です。

辰吉郎の娘であろう中丸薫氏は、孫文と辰吉郎は生死をともにして活動したと以下のように記してもいます。少し身びいきの感はありますが、参考にはなるでしょう。

孫文はかたときも辰吉郎を身辺から離さず、最高の礼で遇したという。また重要な会議や会談にはいつも辰吉郎を伴い、自分の上席に座らせた。革命内部には、
「日本の皇子だそうだ。日本は孫文援助のために秘密裏に派遣されたらしい。この革命には日本がついている。絶対成功するぞ」
そんなささやきが交わされはじめ、やがて外部へと広まっていった。辰吉郎は激烈な革命闘争の中で、孫文の片腕として命がけの活動を開始し、生死を共にしていく。
(中略)
1912年7月30日には、明治天皇が61歳で崩御され、大正天皇がただちに即位されたことも、辰吉郎は中国の広野で聞いたのだった。
(読書日記「貴公子・堀川辰吉郎(1)」より)

「孫中山」の号の意味 〜孫文と八咫烏との関係


堀川辰吉郎と生死をともに活動したともされる孫文ですが、堀川辰吉郎のバックには八咫烏組織が当然ながらあるので、孫文は必然的に八咫烏と関わっていたことになります。そして孫文と八咫烏の関わりは、実は孫文が日本に亡命する前からあったように思えます。

その理由のまず一つですが、それは孫文の名前です。孫文は「孫中山」とも号し、中国ではこの名称のほうが一般的のようです。孫文は日本名としては中山樵とも称していたようでもあります。

それでは孫文のこの中山の名はどこから来たのか? 孫文のウィキペディア記事「号の由来」によると、以下のようにあります。

東京府の日比谷公園付近に住んでいた時期があった。公園の界隈に「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の字が気に入り、自身を孫中山と号すようになった。

この邸宅の主は、一般に明治天皇の生母とされる中山慶子(中山忠能の娘)の甥である貴族院議員の中山孝麿侯爵でした。

天皇家と中山家の系図
編集者註:貴嶺会の中山家関連系図によると、忠伊は光格天皇の実子で忠頼の養子、その忠伊の実子(光格天皇の孫)の一人が慶子で忠能の養子。

また同記事には、「宮崎滔天から孫文亡命の協力を頼まれた犬養毅と平山周が、身を隠すための孫文の日本名として中山忠能(明治天皇の祖父)から拝借したとする説もある」とあります。

つまり、孫文の「孫中山」の「中山」とは中山忠能の中山一族から来ているのは確かなのです。

さて、孫文は日本に亡命してから、近所の邸宅の中山の表札名に惹かれて自らも中山と名乗ったとありますが、それでは孫文は何故に中山の表札名に強く惹かれたのか?その理由があるはずです。

その理由とは、孫文が革命活動を開始した際には中山一族の関係者が関わっていた、もしくは少なくとも孫文が日本亡命前から中山忠能たちに非常に強い関心を持っていたからだ、と見るのが自然です。

革命家の孫文は、日本の一大革命であった明治維新に強い関心があったのは確かです。そして孫文がその名を取ってきた中山忠能は、倒幕の明治維新の中核組織である天忠党の主要人物であり、明治維新の最重要人物の一人です。また、八咫烏直属の五龍会の中心である黄龍会の初代総裁でもありました。

中山の名、ウィキペディアの孫文の記事全体を読んでも、孫文が生涯に渡ってこの中山の名を非常に大事にしていたのが分かります。そしてその現れの一つが、辛亥革命以降から現在まで中国で着られてきた人民服」なのです。人民服は孫文がデザイン、もしくは採用した服で「中山装(中山服)」ともいいます。

一方、中山一族側ですが、興味深いことに中山一族の情報が記載されている「貴嶺会」のHPに中山服」の欄があり、カーキ色の服の写真が掲載されています。この写真の中山服が中国人民服だったのです。


地上世界の再編を睨んで 〜明治維新と中国革命の連動


「貴嶺会」のHPの中になぜこの中山服の欄があるのか? 写真の中山服が一体何の服なのか? 実は私は怪訝に思っていたのです。
ところが、どうも中山一族と孫文とは強い関わりがあったらしい、このことを知ることでその謎が解けました。

「貴嶺会」のHPに「中山服」として中国人民服が記載されている、このことは、要は中山一族が、ひいては八咫烏は、孫文と深い関わりがあり、中国革命そして中国支配に強く関与していたということでしょう。八咫烏が中国革命に関与していた、これは辛亥革命後にも再び日本に亡命した孫文の犬養毅への次の言葉にも現れています。

明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である。

孫文は明治維新と中国革命は同質であり、連動していると言葉にしたと受け取れるでしょう。

明治維新を動かしたのは八咫烏であって、世界革命の一端でもありました。そして孫文は自分たちが起こした中国革命も八咫烏の動きに呼応したもので、これからも自分たちは八咫烏と連動すると表明したのでしょう。

明治維新と中国革命の連動の意味は、孫文(孫文の夫人だった宋慶齢も)が中国のユダヤ人客家であることに注目すれば理解できます。八咫烏と客家は古くからのネットワークで繋り、連動していたと言うか、元々が同根だったのでは?とも思えます。


八咫烏と客家の関わりについては「特別編(黄金の流出から)」を通じて以下のようなことを見てきました。

アメリカ独立戦争の最中の1777年客家の手によって蘭芳公司が設立
蘭芳公司が拠点となって日本の黄金が大量に欧州にもたらされる
日本の黄金流出を主導したのが八咫烏と大室寅之祐の初代などサンカであった。
この流出された黄金が、フランス革命など世界革命、世界潮流を生みだす原資となった。
*一方、日本では蘭芳公司成立の2年後1779年に光格天皇が即位し、その後の倒幕運動に繋がっていった

Author:Uwe Dedering [CC BY-SA]
編集者註:領土に関してはこちらを参考。
蘭芳公司(らんほうこうし)は、1777年から1888年にかけてボルネオ島西部に存在した客家系の華人による政権。アジア初の共和国とも言われ、現代中国語では蘭芳共和国と呼ばれる。(ウィキペディアより抜粋)

上記の他にもあるのですが、このように客家の動きと八咫烏のそれとは密接に連動していたのです。

孫文と頭山たちが「大アジア主義」を共有していたこと
②そして2代目裏天皇の堀川辰吉郎が、中国での革命運動に孫文と共にその身を投じたこと

これには八咫烏と客家の関係が、古くからの歴史的背景があって、成立していたでしょう。

秘密結社ネットワークを組む彼らは、やはり当時において、アジア全域からの地上世界の再編を睨んでいたのです。



Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

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