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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第2話 ― 満洲国設立へ

日本は今もなお「満洲」の呪縛に囚われたままであるように私には見えるのです。
 その著書『満洲暴走 隠された構造』のプロローグの中でこう語られているのが安冨歩氏です。この呪縛とは日本に植え込まれた「植民地根性」であり、「立場主義」であるとの見解です。
 またこの呪縛とは、満洲を植民地化、つまり都合で支配したことを意識化せず眼をつむっているうちに自分が「被植民地化」している事実、支配されてしまった不自然な状態にあることに気づかず、その被植民地の状態で与えられた「立場」のみを重視し、本来の自分とは遠く隔絶した状態に縛られている事実、こういう言い方もできるでしょうか。

 安冨歩氏はこの著書の中で語ります。
この植民地化された魂は、日本を、特に支配的な地位にいる政治家・官僚・大企業の経営陣などなどを、覆い尽くしています。
 現在の日本、まさにこの安冨歩氏の指摘どおりです。現在開かれている国会中継を視聴すれば、「植民地化された魂」が、そして支配された立場からその立場を死守しようとする「立場主義」が、続々と延々と登場しているのに気づくでしょう。
 話の論点をすり替えて誤魔化して事実を隠蔽しようとし、事実が表に現れていないうちは平気でウソを通し、事実が表に出てきてもなお誤魔化し隠蔽しようとする…。
 彼らが必死で守ろうとしているのはいかに大きな既得権益があるかは知りませんが、支配される中で与えられた小さな部所であり、立場に過ぎません。
 そして、そうやって彼らが本来の自身の生命を削りながら奴隷根性で立場を死守しようとする行為は、法治国家や民主主義を破壊していく暴走でもあるわけです。
 こういった現在の日本の姿は満洲支配呪縛の継続でもあったようです。

追記:石原莞爾のドイツ留学の年号(正しくは1922年)とそれに続く一文を訂正させていただきました。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第2話 ― 満洲国設立へ

満洲支配への背景


満洲、その地域についてはウィキペディア記事では以下のようにしています。

おおむね北辺はスタノヴォイ山脈、南辺は長城、西辺は大興安嶺、東辺は鴨緑江・図們江 (豆満江) の内側を想定している。しかしながら、マンチュリアの範囲は歴史的変化に伴い、その範囲は伸縮していた。

日本で満洲と呼ばれる地域は、満洲国の建国時の地域全体を意識することが多く、おおよそ、中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる、現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部を範囲とする。

満洲(マンチュリア)の範囲
Wikimedia_Commons [Public Domain]

日本から言えば、いわば満洲とは満洲と蒙古、つまり「満蒙」とういうことになります。この地域に流れる中心河川がアムール川です。このアムール川(黒竜江)にちなんで玄洋社(=白龍会)の内田良平が中心となって黒龍会を組織したのが思い出されます。

要するに、八咫烏並びにその政治組織である五龍会は、早くからアムール川(黒竜江)の流域地域を掌握していくことを見越して行動していたということでしょう。

また、明治天皇(大室寅之祐)の曾孫を自認・自称する張勝植氏が主張する“高句麗”は、地域としてはその範囲は更に大きく拡大しますがこの満洲、満蒙の地のことも指しています。

張勝植氏のその著書のP32~33にて“高句麗”は中国(清国)を含み、ユーラシア大陸の大半、南はコーカサス山脈から北はウラル山脈、その一帯より東側は全て“高句麗”の版図だとしています。

また、蒙古のチンギス・カンも高句麗家そのもので、その象徴が八咫烏だと語っています。

チンギス・カン時代のモンゴル帝国最大版図
Wikimedia_Commons [Public Domain]

張勝植氏が奉じていて、明治天皇(大室寅之祐)も奉じていたとされる「教旨」とは、神ではなくハイアラーキーの計画書でした。また一方、八咫烏の背後にはハイアラーキー、銀河連合、星の教団がありました。

要は、日本が朝鮮半島から満蒙の地を併合していくのはハイアラーキーや銀河連合の計画であり、八咫烏にしても明治天皇(大室寅之祐)もその司令に順じていたということになるでしょう。

さてこの満洲ですが、安冨歩氏は満洲地域には、その経済社会形態が他の中国の各地域のそれとは大きく異なった特徴があると指摘されています。

安冨歩氏は『満洲暴走 隠された構造』の中で満洲の経済社会構造の研究をされた石田興平教授と米国の地理学者・人類学者・歴史学者G.W.スキナーが、第2次世界大戦直後に四川省で行ったフィールドワークに基づいて提唱した「定期市ネットワーク」を比較します。

そのことによって満洲と華北などの他地域での中国地域の経済社会形態の相違と満洲の特殊性を明かしています。


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歴史の襞の中から6 ― 医療界の闇より ―

 「新型コロナの切り札となるワクチン接種を。」国会でメディアでこの言葉を聞くたびに心底うんざりとします。
 それでも、ようやく国会の中で「イベルメクチン」のことが取り上げられ、田村厚労大臣の口からもイベルメクチンのことが語られていたのは、一縷の光になるかな?との思いもあります。
 今回の新型コロナワクチンのとてつもない危険性といおうか、害毒についてはシャンティー・フーラの記事で多く取り上げられてきました。人間としての生命を終了させてしまうようなワクチンが、今回のコロナワクチンと言えるでしょう。
 しかし、マスメディアではその実際の危険性と害毒を決して取り上げず、報じません。それどころか、過去から現在に至るまで、マスメディアはワクチンの実態を取り上げるどころか、その偽りの効能を喧伝してきたのです。製薬会社を含めた日本の医療界とマスメディアが結託した日本民衆への洗脳行為です。
 マスメディアと結託し、それが「医療行為」だと宣言されれば、それが本当は生体実験であったとしても、その医療界の行為は全て許されてきた。実際に集団予防接種や大量被爆が強いられるX線検査を強制された私などには、この感が強いです。
 医療界もまた大きな問題といおうか、深い闇を抱えていたようです。そして、その闇とは結局人間をどう見るか?にかかってくるようです。
 医療界は日本の民衆を利用価値の有無の視点から、そしてゴイムと見る傾向が強かったのでは?と思わされます。
(seiryuu)
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歴史の襞の中から6 ― 医療界の闇より ―



表沙汰になった日本の臓器移植問題 〜日本の医療界を抉った石垣純二氏


ご隠居、今日でこの旅路も終了のようでやすが、一連の話の語り手、歴史の証人であった瀧山澄子さんの父親であった石垣純二氏にはいくつもの裏の顔があったとのことでやしたが、具体的には?

そうだね。石垣純二氏については、2015年12月の公開された情報の中で既に次にのように語られている。基本的にはその内容が全てともいえるかもしれないね。

彼は今上陛下の家庭教師の一人でした。日本国の裏の特捜のドンでもありました。マッカーサー元帥やケネデイ家とも親交があり彼らとは親友だったと聞いております。また内務省出身という立場で国内外の悪人退治を昭和50年病で倒れるまで行っていました。

ふーむ、「マッカーサー元帥やケネデイ家とも親交があり彼らとは親友だった」。これは石垣純二氏の祖父、そして母がイギリス系だったことにやはり関係が?

うむ。そうだね。
滝山氏は幼少時に石垣純二氏のはからいによって、ケネディjr.とキャロラインの兄妹と遊んだことがあったと語られていたね。あの暗殺事件の後、ケネディ兄妹はしばらく日本に避難していたようだ。
石垣純二氏とケネディ一家とは相当の深い繋がりがあったのは確かなようで、その背景には石垣純二氏の祖父、そして母がイギリス系だったことが、やはり関連してくるのだろうね。

なるほど。
で、石垣純二氏は日本の内務省にあって、裏の特捜のドンとして指揮をとっていたとのことでやすね。

そうだね。
石垣純二氏が日本の裏の特捜のドンであったとの情報、これは表情報のどこにも出てこないので情報の裏取りができず、深入りはできないが、…
うん、まぁしかし、あくまでも想像の世界だが多少の推測もできないこともないね。

そうでやすね。
石垣純二氏についてコトバンクには、
内務省衛生局に入り、厚生官僚の道を歩む。
また、
日本医師会などを批判し、43年の和田寿郎の心臓移植手術では“和田心臓移植を告発する会”を組織するなど、医療、福祉全般にわたり鋭い評論活動を続けた。
とありやすね。

そう。
石垣純二氏が裏の特捜のドンだったとすれば、彼が内務省の厚生官僚であったのは表情報からも確かだから、石垣純二氏は主には医療関係の犯罪捜査に従事していただろうとは想像できるね。

「43年の和田寿郎の心臓移植手術」、これはいってぇどんなものだったんで?

昭和43年(1968年)、札幌医科大学胸部外科チームを主宰していた和田寿郎が起こした事件だね。
和田寿郎たちは溺死事故を起こした21歳の男子大学生から摘出した心臓を、18歳の心臓弁膜症の男子高校生に移植した。心臓移植を受けた男子高校生は一時的に回復の傾向を見せたが、結局は手術後3ヶ月もたたずに死亡した。
この心臓移植手術を巡るドス黒い事件だね。

右から二人目が心臓移植手術をする和田教授

ドス黒い事件❓ ふーむ、脳死・臓器移植に関する問題でやすね。
昭和43年1968年か、確か脳死・臓器移植が日本社会で大きな話題になったのは立花隆著の『脳死』が発表された1986年以降でやしたから、随分早い時期でやすね。
それでこれがドス黒い事件とは?

この事件は、ネットでも詳しい情報があるからそれを参照すればよいが、まず溺死したとされる21歳の男子大学生に対し、札幌医科大は蘇生への適切な処置を行わず、脳死判定の適切な処置も全く行っていなかった。この男子大学生への殺人罪が疑われる。
そして心臓移植を受けた男子高校生、こちらも心臓移植を希望していたわけでもなく、心臓移植が必要な病状でもなかった。それにも関わらず男子高校生から心臓が摘出され、代わりに溺死したとされる大学生の心臓が移植され死亡に至っている。男子高校生の摘出された心臓はしばらく行方不明だったようだ。こちらの高校生への殺人罪も疑われる。

ウワーッ❗ひでぇ話だ。
始めから臓器移植の実験、生体実験ありきで進められた手術のようでやすね?

そうだろうね。
和田寿郎は殺人罪等で刑事告発され、嫌疑不十分で不起訴となっているが、ただし、限りなくブラックに近いグレーでの不起訴の印象だね。
この事件の捜査に石垣純二氏が携わっていたんだろうね。

ふーむ、ひでぇ事件でその実行者が不起訴に終わっていやすが、調べ直すと、心臓移植手術がその後日本で再開されたのは1999年でやすね。
日本の臓器移植手術が約30年間止まっていたのは、この「和田寿郎の心臓移植手術」事件とそれに対する石垣純二氏たちの対応が大きな影響を与えたようでやすね。

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歴史の襞の中から2 ― 忍びの者より ―

 大正天皇がテロに遭遇し、大正期が終焉させられた。その大正天皇は、徳川慶喜の一族に人質として軟禁された。この一連の事件、この事件の主人公は当然ながら大正天皇と徳川慶喜ですが、もう一つ重要な一族があります。西郷隆盛の同族という瀧山一族です。
 従って、この一連の事件には天皇一族、徳川一族、そして西郷隆盛の同族の瀧山一族の3つの流れがあり、この3つの流れが絡み合って一連の事件が成立したことになります。そして更には、この一連の事件と絡み合い、付随するような事件も生じています。
 今回は一連の事件の背景を把握すべく、西郷隆盛とその同族という瀧山一族に関することを中心に見ていきます。このことで、なぜ富山の村が一連の事件の舞台になったのか❓がかなり見えてくると思われます。
 西郷隆盛は島津氏に仕える下級武士と大方は認識されていますが、ウィキペディア記事を見れば、彼が忍者であったことが浮かんできます。西郷隆盛の家系が忍者であり、同族の瀧山一族も忍者であった可能性は相当高いと思えます。ここに富山の土地柄の製薬、そしてサンカも絡んできます。
 まずは大正天皇が徳川慶喜に軟禁された基本情報1を改めて掲載し、そこから話を進めていきます。
(seiryuu)
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歴史の襞の中から2 ― 忍びの者より ―




基本情報1 〜徳川慶喜に軟禁された大正天皇


  • 大正天皇がテロ襲撃によって頭に重症を負い記憶喪失に。その時期は1925年前後と思われる。
  • 襲撃され、負傷した大正天皇を匿ったのが西郷隆盛の家系の末裔。彼らは治療療養のため、同族の住む村に大正天皇を移送した(移送先の村の同族の名字は西郷と異なり瀧山姓)。
  • 西郷隆盛の同族の瀧山一族が住んでいて、大正天皇が移送されたのが富山県のある村。この村のとある寺に西郷隆盛は自分の子どもたちを預けていた。西郷一族の隠れ里であった様子。
  • ところが、この村に15代将軍徳川慶喜が既に移住していた。徳川慶喜は1913年11月22日に死去となっているがこれは偽装。この村に移住した慶喜一族は中田姓を名乗るようになり、慶喜の息子の徳川五郎右衛門は中田久松を名乗った。
  • 西郷隆盛の子どもたちが預けられた寺と目と鼻の先の近所に住んでいた徳川(中田)一族は移送されてきた大正天皇をすぐに発見。自分の屋敷に拉致・軟禁した。この間に昭和天皇が即位。
  • 大正天皇を軟禁した慶喜は昭和天皇に手紙を出し脅す。「自分の孫娘を嫁にしてくれ。さもないとお前の親の大正天皇はどうなるかわからんぞ」と。
  • 昭和10年(1935年)頃、大正天皇の病が癒えて記憶を回復。大正天皇は帰城を希望するが、部下の「殺される」との説得で断念。
  • 大正天皇はこの頃、長年の体調悪化もかなり回復。体調悪化の原因は、天皇時代12番目の若い側室が鉛を入れた飲み物を飲ませていたため、この鉛毒による可能性がある。
  • 一方、この頃に徳川慶喜は1935年(昭和10年)1月25日に死去。享年99歳。
  • 大正天皇は慶喜の息子・徳川五郎右衛門こと中田久松の弟として戸籍を作られ、この村に居住。
  • 大正天皇はこの村で妻子を得るが、その妻子もテロで死去。大正天皇家族の家屋に工作がされていて、住居が台風の際に崩壊しその下敷きとなって妻子が死去した。
  • 大正天皇は納屋の土間での藁ぶとんでの寝起き。口の聞けないのふりをさせられ、野良仕事などでの生活。
  • 大正天皇は中田久松たちと奇妙な共同生活をするが、中田久松死去後も存命。しかし中田久松死去後は、久松の息子にいびられ殴られの生活。
  • 中田久松には息子と娘の兄弟がいた。息子の名前は不明。娘の名前は中田志げ。志げさんが大正天皇の世話をしていた。
  • 大正天皇は久松の弟として、90歳の長寿の祝いを地元市長から授与されるが、その後1977年2月27日に、死体になって発見された。

滝山善一氏からの情報提供をもとに作成した系図
参考:時事ブログ 2015/12/2411/1311/15
Wikimedia Commons [Public Domain]
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夢のお告げの通りに武仁尊(神武天皇)の前に、“ヤタノカラス(八咫の烏)と称する翁”が現れて、その導きで大和の宇陀に至った ~プラズマ体で武仁尊のいる「6層」に姿を現したヤタノカラスの翁

竹下雅敏氏からの情報です。
 ウィキペディアの「神武東征」によれば、ホツマツタヱの伝承によく似た記述があります。

古事記
「神倭伊波礼毘古命が熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。すると 神倭伊波礼毘古命を始め彼が率いていた兵士たちは皆気を失ってしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの大刀を持って来ると、神倭伊波礼毘古命はすぐに目が覚めた。高倉下から神倭伊波礼毘古命がその大刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復した。神倭伊波礼毘古命は高倉下に大刀を手に入れた経緯を尋ねた。高倉下によれば、高倉下の夢に天照大御神と高木神(タカミムスビ)が現れた。二神は建御雷神を呼んで、“葦原中国は騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい”と命じたが、建御雷神は、“平定に使った大刀を降ろしましょう”と答えた。そして高倉下に、“倉の屋根に穴を空けてそこから大刀を落とすから、天津神の御子の元に運びなさい”と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に大刀があったので、こうして運んだという。その大刀は甕布都神、または布都之御魂と言い、現在は石上神宮に鎮座している。また、高木神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、さらに険しい道を行き大和の宇陀に至った。」

日本書紀
「磐余彦尊は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。この時、現地の住人熊野高倉下は、霊夢を見たと称して韴霊(かつて武甕槌神が所有していた剣)を磐余彦尊に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。この時、八咫烏があらわれて軍勢を導いた。磐余彦尊は、自らが見た霊夢の通りだと語ったという。磐余彦尊たちは八咫烏に案内されて菟田下県にいたった。」

高倉下命が見た夢の中で、“武甕槌命が「経津の御魂の剣を倉に置く。これを武仁尊に差し上げなさい」といったので、「あいあい」と言ったところで夢から覚めた”というのですが、「ホツマ物語 神とオロチ 鳥居礼著 新泉社」によれば「天日天日(あひあひ)」で、天日(あひ)とは、“天のアマテル神の考えのままに”という意味だという事です。
 武仁尊(神武天皇)は、ヤタノカラスの導きで大和の宇陀(奈良県宇陀郡)に至ったのですが、夢のお告げの通りに武仁尊の前に、“ヤタノカラス(八咫の烏)と称する翁”が現れたのです。
 2015年1月5日の記事で、“ヤタノカラスとは、3本足の烏ではなく翁なのです。おそらく杖をついた老人だったのでしょう。私はこのヤタノカラスというニックネームが付けられた翁は、イスラエルの失われた十支族のレビ族の長老で、この辺りに住み着いていたのだと思います”とコメントしました。
 さらに詳しく調べると、ヤタノカラスの翁は、当時「肉体(狭義)」を3.0次元の「7層」に持っていたことが分かりました。ヤタノカラスの翁は霊能力者で、プラズマ体で武仁尊(神武天皇)のいる「6層」に姿を現したのです。
(竹下雅敏)
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【29 タケヒト、ヤマト討ちの綾】

http://hotumatutaye.com/wp/wp-content/uploads/2014/06/260610ほつまつたゑ全文.pdf
タケヒト,ヤマト打ちの紋(アヤ)
(前略)
ネブルトキ タカクラシタニ 眠る時 タカクラシタに
ユメノツゲ タケミカツチニ 夢の告げ タケミカツチに
ミコトオリ クニサヤケレバ 「国喧擾ければ
29-14 ナンヂユケ カミニコタエハ 汝行け」 神に答えは
ユカズトモ クニムケツルギ 「行かずとも 国平け剣
クダサント カミモウヱナリ 下さん」と 神も「宣ゑなり」
ミカヅチノ フツノミタマオ 「ミカヅチの フツの御魂お
クラニオク コレタテマツレ 倉に置く これ奉れ」
アヒアヒト タカクラシタガ 「あひあひ」と タカクラシタが
ユメサメテ クラオヒラケバ 夢覚めて 倉お開けば
ソコイタニ タチタルツルギ 底板に 立ちたる剣
29-15 ススムレバ キミノナガネノ 進むれば 君の長寝の
イヱサメテ モロモサムレバ 毒気覚めて 諸も覚むれば
イクサダチ ヤマヂケワシク 軍立ち 山路嶮しく
スエタエテ ノニシジマイテ 末絶えて 野にしぢまいて
スメラギノ ユメニアマテル スメラギの 夢にアマテル
カミノツゲ ヤタノカラスオ 神の告げ 「ヤタの烏お
ミチビキト サムレバヤタノ 導き」と 覚むればヤタの
カラスアリ オオヂガウガツ 烏あり 遠祖が穿つ
29-16 アスカミチ イクサヒキユク アスカ道 軍率き行く
ミチオミガ ミチオミが
(以下略)

「完訳 秀真伝 下巻 鳥居礼編著 八幡書店」を参考にすると、意味は次のようになる。

(武仁尊の率いる神軍は荒坂(三重県南牟婁郡荒坂村)まで進むことが出来た。その地で動物霊を操る丹敷戸(にしきど)が軍を拒み、妖気を吐きかけてきた。神軍は毒気に当てられ、みな疲れ伏し眠ってしまった。)
高倉下命(タカクラシタノミコト)に夢の告げがあった。武甕槌命(タケミカツチノミコト)に天照大神から「国が騒がしいので汝が行くがよい」と詔があった。武甕槌命が「私が行かなくとも、国を平定する経津の御魂の剣を下せば大丈夫でしょう」と答えると、天照大神も「もっともだ」と仰せになった。
 武甕槌命が「経津の御魂の剣を倉に置く。これを武仁尊に差し上げなさい」といったので「あいあい」と高倉下命が言った所で夢から覚めた。倉を開けて床に立ててある経津の御魂の剣を取り出し武仁尊に差し上げると、君は毒気による眠りから目覚め、一行も覚め軍を進めた。山道が険しく道もなくなり、野原で沈んだ気持ちで君がまどろんでいると、夢に天照大神の告げがあった。「ヤタノカラスを導きとせよ」
 目が覚めると、ヤタノカラス(八咫の烏)と称する翁が現れた。翁が切り拓いた飛鳥道を、道臣(ミチオミ)が軍を率いて進んで行った。

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ユダヤ問題のポイント(日本 大正編) ― 第14話 ― 大正期の終焉

 外的世界だけでなく、個々人の内的世界を含めたこの私達の世界を通徹する根本法がヤマ・ニヤマ(禁戒・勧戒)と教えられています。そして、ヤマ・ニヤマの最も基礎部分となる法が非暴力です。今後築いていく私達の社会も、その基礎には非暴力が置かれなければいけません。これまで私達の社会は逆だったのです。暴力に支配される社会だったのです。
 人間の行為は身口意の三業の3つに分けられます。暴力という行為も身体による暴力、言葉(言論)による暴力、精神(思想統制など)による暴力という3種になります。また、個人による暴力と集団による暴力もあります。暴力とは法と秩序から逸脱した力の行使と言えるでしょう。同じ力の行使でも、それが法と秩序に基づくならばそれは暴力とは呼びません。
 1700年代後半からその展開を始めた世界革命(ヴァイシャ革命)は暴力革命でした。暴力によって生み出された社会体制は、やはり暴力をその基底に置くことになります。
 明治維新も世界革命の一環であり、間違いなく暴力革命でした。現に当時は京都を中心した暴力テロの嵐でした。暴力によって生み出された明治、そして引き継がれた大正期も暴力に振り回される社会だったと言えたでしょう。自分たちにとって意に沿わない都合の悪い人物や組織は、暴力でもって排除する行為が横行していたのです。
 この暴力テロの実行部隊の代表が、杉山茂丸が社主で頭山満が率いた玄洋社=白龍会だといって間違いないでしょう。別の言い方をすると裏社会を仕切っていたのが彼らだということです。伊藤博文の暗殺の背後には玄洋社=白龍会がいたことはこれまでに見てきた通りです。
 大陸に進出し、力による支配を計画していた八咫烏の目論見に反対していたのが伊藤博文でした。また、大隈重信が命を狙われて爆弾を投げつけられ脚を失っていますが、このテロ実行犯は玄洋社社員だったことは明らかにされています。ちなみに大隈重信は大正天皇の実父のようです。
 大正期を終焉させたもの、それはやはり暴力テロだった模様です。大正天皇ご本人が暴力テロを受けてしまったことで、大正期が終わったのが事実のようです。警備が厳しいはずの天皇がテロに遭遇、外部者がテロを成功できるでしょうか? 誰がそのテロ計画や実行に携わったかはおおよその見当はつくでしょう。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 大正編) ― 第14話 ― 大正期の終焉


大正天皇はポンコツ人間だったのか? 〜内部情報漏洩の意味


大正天皇が葬られた当時の多摩陵
Wikimedia Commons [Public Domain]

日本の大正期、それは唐突な印象で終了します。1926年12月25日に享年47歳にて大正天皇が崩御、これにて大正の終わりとされているのです。

その頃中国では張作霖が12月に北京で大元帥に就任し、中華民国の主権者であることを宣言していました。一般に大正天皇は元々病弱であった上に、脳病も発症していたとされます。そのため1921年には裕仁親王が、3月から9月の欧州外遊から帰国後には大正天皇の摂政についたとされます。

大正天皇のウィキペディア記事によれば、裕仁親王が欧州訪問に出発の頃には大正天皇は、著しく心身が不安定な状態にあった上に、しばしば記憶喪失状態に陥る状態であったとし、同年の10月には大正天皇の病状が深刻であり、事実上公務を行うことができなくなっている旨の発表がなされたとしています。

そして11月に、大正天皇に側近などが摂政設置について報告と了解を求めようとしたが、 «大正天皇は「アーアー」というだけで意思疎通できない状態であった。» としています。ところが11月25日に正式に皇太子裕仁親王が摂政に就任した際には大正天皇は抵抗の姿勢も見せ、 «また、12月には侍従に対し「己れは別に身体が悪くないだろー」と何度も話しかけたりしていた。» と記しています。

これらの記述を読むと 大正天皇は心身、そして脳も壊れたどうしようもないポンコツ人物ということになりそうです。

しかし少し違和感を覚えます。大正天皇に関して脳病のことまでも含めて、一般にも大正天皇の病状が深刻であると知られるような情報が流れていたようなのですが、なぜそのような情報が?

帝国憲法上は天皇は「神聖にして侵すべからず」の現人神のはずなのに、まだ40代になってほどない大正天皇の病状は脳病を含めて深刻だと一般人にも知られたらならば、天皇家の威信を大きく傷をつけることにならないか?

天皇を中心とした国家像にゆらぎが生じてしまうのではないか?

安定した国家運営を考えるならば、むしろ逆に病状が本当に深刻であるならば徹底してその情報は漏らさないようにするのでは?と思えるのです。

つまり、むしろ天皇家の威信を傷つけてでも宮内庁からして大正天皇を排除しようとしていたのでは?と思えるのです。

大正天皇はいわば“つなぎ天皇でした。明治編で見たように明治天皇は1910年台初めに朝鮮半島に移住し、その代理の表天皇として即位したのが大正天皇でした。そしてどう見ても大正天皇は周囲からも“無下な扱い”を受けているのですが、それは彼の出生に原因があったのでしょう。

2015/11/11の竹下さんの記事で、大正天皇は明治天皇(大室寅之祐)の側室の柳原愛子と大隈重信との子であったことが明かされています。要は大正天皇は血統としては全く北朝も南朝も関わりなく、天皇家の血筋を引いていないのです。

明治天皇・大正天皇・昭和天皇の系図
参考:時事ブログ 2015/11/1111/1311/15
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