ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝80 ― 東西対立米ソ冷戦の終焉

 第2次世界大戦後の地上世界を型どってきたのが、東西対立米ソ冷戦体制でした。この冷戦体制は1980年代をもって終了していきます。
(ブッシュSr. は1989年12月)地中海におけるマルタ会談で、ソ連のゴルバチョフ書記長と会談し、冷戦の終結を宣言した。これを標語的に「ヤルタからマルタへ("From Yalta to Malta")」という。
(ウィキペディア「ジョージ・H・W・ブッシュ」より)
とある通りです。
 東側諸国の共産主義体制が崩壊し米ソ冷戦が終了していく際に、西側のメディアは「平和な世界が到来」と吹聴しました。しかしその平和とは、普通の世界民衆の持っているイメージ、つまり私達一人ひとりが豊かで安心して暮らせることのできる平和な世界とは全く異なっていたのです。彼らの指す平和とは「新世界秩序」つまり「NWOによる平和」を意味していたのです。
 実際にウィキペディアの「新世界秩序」記事の冒頭には「新世界秩序(しんせかいちつじょ、英: New World Order、略称:NWO)とは、国際政治学の用語としては、ポスト冷戦体制の国際秩序を指す。」として次のようにも記載しています。
イギリス首相ウィンストン・チャーチルが、破滅的な第三次世界大戦を避けるには国民主権国家を廃絶し世界政府の管理による恒久的な平和体制の実現が不可欠であるとして、この言葉を使った。
そして次のように記してます。
この用語が一般にも広く知られるようになったのは、1990年9月11日に時のアメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュが湾岸戦争前に連邦議会で行った『新世界秩序へ向けて(Toward a New World Order)』というスピーチであった。
 冷戦体制の終了から「新世界秩序(NWO)」へ、これが彼らパワー・エリートの計画だったのです。NWO実現への手始めの生贄となったのがサダム・フセインのイラクということだったのです。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝80 ― 東西対立米ソ冷戦の終焉

ペレストロイカの中の原発事故


ミハイル・ゴルバチョフ

日本では「123便事変」「プラザ合意」があった1985年、ソ連はミハイル・ゴルバチョフが書記長に就任し、ペレストロイカが始まりました。ペレストロイカとは「再構築(再革命)」「建て直し」の意味で、グラスノスチ(情報公開)とともに行われたソ連の政治を民主的な方向に進める政治体制改革です。

1987年1月27日、ゴルバチョフはソ連共産党中央委員会の全体会議で、ブレジネフの任期を「停滞の時代」と呼び、「グラスノスチの時代」とペレストロイカというソ連の新時代の幕開けを宣言した。
その4年後、ソビエト連邦は消滅した。

これは西側メディアにも非常に好意的に報じられていました。当時の何も知らない私は、このニュース報道で米ソ冷戦が緩み、平和の方向に進んでいると思ったものでした。実際ゴルバチョフは、世界の政治家の中でもかなりまともな人物だったはずで、本当にソ連の政治体制を良いものにしようとしていたとは思います。

ただ…そのような中の翌年の1986年4月26日に、チェルノブイリ原発事故が発生してしまいました。それまでの原発事故で史上最悪のレベル7の深刻事故です。

Author:D5481026 [CC BY-SA]

当時私はソ連が原発事故を起こしたことに対して憤慨していたことを思い出します。
「古臭い技術しか有しない国家が無理して原発など稼働し、とうとう世界中に迷惑をかける最悪事故を起こしてしまった。」
「ソ連はその最悪事故をすぐには発表せず隠そうとした。バレてから発表する、やはり隠蔽国家だ。最悪の国家だ。」
「最悪国家は当初は事故がバレルまで住民を保護しなかったし、保護の仕方も…」
といった具合でした。

しかし、2011年3月11日つまり福島原発事故以来、ソ連が日本より遥かにマシな国家だったことを思い知らされました。どのような面をとってもです。事故対応と後始末、事故内容の報告、住民の保護など、どれをとってもソ連は当時の力の許す限りの誠実な対応をしたのでしょうし、福島原発事故の日本はソ連に比べてもあまりに不誠実でお粗末でした。隠蔽と嘘しか能力のないお粗末国家は日本の方でした。悲しい現実です。しかしソ連の原発事故対応も、褒められるようなものではなかったのも確かだったでしょう。

とどのつまり、現在の人類の状態では核・原発技術に手を出してはいけないということになるでしょう。「トイレのない住居」つまり核廃棄物の後始末さえできないのが現実なのですから。


それに現在の人類では、素晴らしいテクノロジーを手に入れてもそれを活かすことができるのかは甚だ疑問です。過去の例を見ていけば、人類は高い技術を獲得すれば戦争での殺人技術といった他者を支配する道具などに、自分の野心を満足させるツールにしてしまうことがあまりにも目立つのです。素晴らしいテクノロジーを手に入れても、現状では自分と他者そして世界を豊かに、幸福にしていける方向に使用できるかは甚だ疑問なのです。逆に用いてしまう可能性の方がずっと高いな、と。

ともあれ、チェルノブイリ原発事故はソ連国家を揺るがし、ソ連国家のより一層の弱体化を招いたのは間違いのないところでした。



「ベルリンの壁崩壊」共産主義体制の崩壊


トドメ的にソ連国家を弱体化させたのがチェルノブイリ原発事故でしたが、それ以前にソ連を弱体化させていたのが、日本で言うソ連のアフガニスタン侵攻でした。1979年から始まったソ連のアフガニスタンへの軍事介入、これはソ連もアフガニスタンにも混乱と大被害をもたらすだけのものであり、1989年2月に10年の歳月を経てようやくソ連がアフガニスタンから撤兵し、それを公的に発表しました。

アフガニスタンから撤退する最後のソ連軍部隊
Author:A.Solomonov [CC BY-SA]

これに先立つ1989年1月には、ついにナチス第3代総統のブッシュSr. がアメリカ大統領にまで登りつめていました。1989年はソ連を中心とする東側共産主義体制が次々に崩壊していった年だったのです。『ユダヤ・ロスチャイルド世界冷酷支配年表』p259に以下にあるとおりです。

この1989年には次々と革命が起こったが、その大半は共産主義政府を転覆し、共和国国家への転換を図るものであった。こうして東ヨーロッパの共産主義支配(鉄のカーテン)は弱体化し、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)が行われ、共産主義は最終的にソビエト連邦だけでなく東ヨーロッパ諸国においても崩壊した。

1989年は東側共産主義体制が崩壊した年であり、東西対立米ソ冷戦が終焉となった年でもあったのです。

これの象徴となった出来事が「ベルリンの壁崩壊」でした。東西の分断と対立の象徴となっていたのが1961年に建設された「ベルリンの壁」でした。国境検問所が置かれ、長らく東西を分断していたベルリンの壁、ところが1989年11月、東ドイツ側が記者会見にて不用意な発表をします。この会見にて人々がすぐさま壁に殺到し、壁を乗り越えていきました。28年間東西ベルリンを分断していた壁は一夜にして崩壊したのでした。


その様子はテレビで生中継されていたのです。その中継を見ながら、この地上世界が大きく変化していることを感ぜずにはおられませんでした。
「これで米ソの核戦争などの可能性はなくなったな、この世界からはきっと戦争がなくなり平和な安心できる時代がようやく到来するのだろう。」
無邪気にこのようなことを思っていたものでした。

事実、ベルリンの壁崩壊から一ヶ月後には米国のブッシュSr. 大統領とソ連のゴルバチョフ書記長がマルタ島で会談を行い、このマルタ会談にて44年間続いた東西冷戦は終結したのでした。


マルタ会談」のウィキペディア記事によればこの共同声明にて、
ゴルバチョフは「私はアメリカ合衆国大統領に対して、アメリカ合衆国と戦端を開くことはもはやないと保証する。」と述べ、
ブッシュSr. は「我々は永続的な平和と、東西関係が持続的な共同関係になることを実現することができる。」と述べたとされます。
本当にこの発言通りなら、地上世界に平和な時代が到来するはずでした。…しかし…。


「クウェート侵攻」を開始合図に


1990年代が始まりました。その1990年8月2日、イラク軍はクウェート国境を越えて侵攻を開始したのです。サダム・フセインのイラクによる「クウェート侵攻」です。


この「クウェート侵攻」は外伝79にて触れたように、駐イラク米大使エープリル・グラスピーのサダム・フセインへの唆しで始まったものでした。元々イラクはクウェートを自領との主張をしていた上に、イラクはイラン・イラク戦争にて経済的な窮地にありました。そのためイラクはクウェートを併合する構えを見せ、国境付近に軍隊を集結していたのです。

「クウェート侵攻」の一週間前の7月25日、サダム・フセインはアメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーと会談、そこでサダム・フセインはクウェートを本来の自治領に戻す軍事構想を語り、米国のそれへの意見反応の打診を行いました。これに対して、米イラク大使グラスピー女史は「米国は介入するつもりはない」と、クウェート侵攻を許可すると受けとれる発言をしていたのです。

We foolishly did not realize Saddam was stupid. - April Glaspie
我々は愚かにも、サダムが愚かであることに気づかなかった。
― エイプリル・グラスピー ―

クウェートへの軍事行動への米国の許可を得たと受けとったサダム・フセインは、8月2日イラク軍をクウェート侵攻を開始させたのです。サダム・フセインはアメリカの罠に嵌ってしまったのです。サダム・フセインのイラクは侵攻即日のうちにクウェート全土を占領します。しかしこれに対するブッシュSr. 大統領と国連の対応も即座の迅速さでした。

国際連合では、侵攻当日の8月2日のうちに、イラク軍の即時無条件撤退を求める安全保障理事会決議660が採択された。
8月7日にはアメリカ陸海空軍の指定された部隊に対して湾岸地域への展開命令が発令され、砂漠の盾作戦が発動された。

上のように「クウェート侵攻」ウィキペディア記事の「国際社会の反応」欄にある通りです。文字通りブッシュSr. らは“それを待ち構えていた”と見て間違いありません。

そして、ブッシュSr. は同年911に連邦議会にて『新世界秩序へ向けて(Toward a New World Order)』というスピーチを行うのでした。日付に注目です。この11年後の9月11日に何が起きたかはご承知のとおりです。

George H. W. Bush New World Order Quotes
✅ 〜01:02までの機械翻訳:
このような困難な時代から、私たちの第5の目標である新世界秩序(New World Orderが生まれる可能性があります。新しい時代とは、テロの脅威から解放され、正義の追求が強化され、平和の追求がより確かなものとなる時代です。世界の東西南北の国々が繁栄し、共生できる時代です。
100世代にわたってこのつかみどころのない平和への道を模索してきた一方で、人類の努力の範囲を超えて1000の戦争が猛威を振るい、そして今日、その新しい世界が生まれようともがいています。私たちが知っている世界とは全く違う世界。法の支配がジャングルの支配に取って代わる世界。各国が自由と正義に対する共通の責任を認識する世界。強者が弱者の権利を尊重する世界が。

このスピーチをうけて1991年117「湾岸戦争」が開始されました。この日付も注目です。この4年後の1月17日に阪神・淡路大震災が起きます。これは偶然か否か?

冷戦終了後の平和とは、平和は平和でも「米国の一極支配による平和」つまりパクス・アメリカーナであり、その実現の手始めが湾岸戦争との計画だったはずです。「クウェート侵攻」がその開始合図でした。


Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

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