ペレストロイカの中の原発事故
日本では「123便事変」「プラザ合意」があった1985年、ソ連はミハイル・ゴルバチョフが書記長に就任し、ペレストロイカが始まりました。ペレストロイカとは「再構築(再革命)」「建て直し」の意味で、グラスノスチ(情報公開)とともに行われたソ連の政治を民主的な方向に進める政治体制改革です。
27 de enero 1987, en pleno del Comité Central del PCUS, Gorbachov llamó al mandato de Leonid Brezhnev "la era del estancamiento" y anunció, el inicio de una nueva etapa soviética: la "era del glásnost" y la Perestroika.
— Revista Política y Poder (@revista_pyp) January 27, 2023
4 años después, la URSS dejó de existir. pic.twitter.com/3wDPbReN0J
その4年後、ソビエト連邦は消滅した。
これは西側メディアにも非常に好意的に報じられていました。当時の何も知らない私は、このニュース報道で米ソ冷戦が緩み、平和の方向に進んでいると思ったものでした。実際ゴルバチョフは、世界の政治家の中でもかなりまともな人物だったはずで、本当にソ連の政治体制を良いものにしようとしていたとは思います。
ただ…そのような中の翌年の1986年4月26日に、チェルノブイリ原発事故が発生してしまいました。それまでの原発事故で史上最悪のレベル7の深刻事故です。
当時私はソ連が原発事故を起こしたことに対して憤慨していたことを思い出します。
しかし、2011年3月11日つまり福島原発事故以来、ソ連が日本より遥かにマシな国家だったことを思い知らされました。どのような面をとってもです。事故対応と後始末、事故内容の報告、住民の保護など、どれをとってもソ連は当時の力の許す限りの誠実な対応をしたのでしょうし、福島原発事故の日本はソ連に比べてもあまりに不誠実でお粗末でした。隠蔽と嘘しか能力のないお粗末国家は日本の方でした。悲しい現実です。しかしソ連の原発事故対応も、褒められるようなものではなかったのも確かだったでしょう。
とどのつまり、現在の人類の状態では核・原発技術に手を出してはいけないということになるでしょう。「トイレのない住居」つまり核廃棄物の後始末さえできないのが現実なのですから。
それに現在の人類では、素晴らしいテクノロジーを手に入れてもそれを活かすことができるのかは甚だ疑問です。過去の例を見ていけば、人類は高い技術を獲得すれば戦争での殺人技術といった他者を支配する道具などに、自分の野心を満足させるツールにしてしまうことがあまりにも目立つのです。素晴らしいテクノロジーを手に入れても、現状では自分と他者そして世界を豊かに、幸福にしていける方向に使用できるかは甚だ疑問なのです。逆に用いてしまう可能性の方がずっと高いな、と。
ともあれ、チェルノブイリ原発事故はソ連国家を揺るがし、ソ連国家のより一層の弱体化を招いたのは間違いのないところでした。
A 30 años de la disolución de la Unión Soviética: la persistente actualidad de aquellas crónicas. ✍️ @algirondo. https://t.co/9dPoPFgvrj pic.twitter.com/gHSGyNRcdT
— Tiempo Argentino (@tiempoarg) December 20, 2021
「ベルリンの壁崩壊」共産主義体制の崩壊
トドメ的にソ連国家を弱体化させたのがチェルノブイリ原発事故でしたが、それ以前にソ連を弱体化させていたのが、日本で言うソ連のアフガニスタン侵攻でした。1979年から始まったソ連のアフガニスタンへの軍事介入、これはソ連もアフガニスタンにも混乱と大被害をもたらすだけのものであり、1989年2月に10年の歳月を経てようやくソ連がアフガニスタンから撤兵し、それを公的に発表しました。
これに先立つ1989年1月には、ついにナチス第3代総統のブッシュSr. がアメリカ大統領にまで登りつめていました。1989年はソ連を中心とする東側共産主義体制が次々に崩壊していった年だったのです。『ユダヤ・ロスチャイルド世界冷酷支配年表』p259に以下にあるとおりです。
1989年は東側共産主義体制が崩壊した年であり、東西対立米ソ冷戦が終焉となった年でもあったのです。
これの象徴となった出来事が「ベルリンの壁崩壊」でした。東西の分断と対立の象徴となっていたのが1961年に建設された「ベルリンの壁」でした。国境検問所が置かれ、長らく東西を分断していたベルリンの壁、ところが1989年11月、東ドイツ側が記者会見にて不用意な発表をします。この会見にて人々がすぐさま壁に殺到し、壁を乗り越えていきました。28年間東西ベルリンを分断していた壁は一夜にして崩壊したのでした。
Berlin Wall’s fall marked the end of the Cold War for the American publichttp://t.co/AS4NA7pByg pic.twitter.com/WOy0L5khhd
— Pew Research Center (@pewresearch) November 4, 2014
その様子はテレビで生中継されていたのです。その中継を見ながら、この地上世界が大きく変化していることを感ぜずにはおられませんでした。
事実、ベルリンの壁崩壊から一ヶ月後には米国のブッシュSr. 大統領とソ連のゴルバチョフ書記長がマルタ島で会談を行い、このマルタ会談にて44年間続いた東西冷戦は終結したのでした。
December 3, 1989: Gorbachev and Bush declare Cold War over at Malta summit
— Soviet Visuals (@sovietvisuals) December 1, 2018
RIP George Bush! pic.twitter.com/76CnvxnCap
「マルタ会談」のウィキペディア記事によればこの共同声明にて、
「クウェート侵攻」を開始合図に
1990年代が始まりました。その1990年8月2日、イラク軍はクウェート国境を越えて侵攻を開始したのです。サダム・フセインのイラクによる「クウェート侵攻」です。
45周年記念特別シリーズ第19回「中東を変えた45の瞬間」:イラクによるクウェート侵攻で、クウェート政府は亡命に追い込まれ、抵抗した数百人のクウェート人が処刑された。#アラブ国https://t.co/qA8euIfSQ9 pic.twitter.com/qKlZTRNZYV
— Arab News Japan (@ArabNewsjp) August 2, 2020
この「クウェート侵攻」は外伝79にて触れたように、駐イラク米大使エープリル・グラスピーのサダム・フセインへの唆しで始まったものでした。元々イラクはクウェートを自領との主張をしていた上に、イラクはイラン・イラク戦争にて経済的な窮地にありました。そのためイラクはクウェートを併合する構えを見せ、国境付近に軍隊を集結していたのです。
「クウェート侵攻」の一週間前の7月25日、サダム・フセインはアメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーと会談、そこでサダム・フセインはクウェートを本来の自治領に戻す軍事構想を語り、米国のそれへの意見反応の打診を行いました。これに対して、米イラク大使グラスピー女史は「米国は介入するつもりはない」と、クウェート侵攻を許可すると受けとれる発言をしていたのです。
クウェートへの軍事行動への米国の許可を得たと受けとったサダム・フセインは、8月2日イラク軍をクウェート侵攻を開始させたのです。サダム・フセインはアメリカの罠に嵌ってしまったのです。サダム・フセインのイラクは侵攻即日のうちにクウェート全土を占領します。しかしこれに対するブッシュSr. 大統領と国連の対応も即座の迅速さでした。
上のように「クウェート侵攻」ウィキペディア記事の「国際社会の反応」欄にある通りです。文字通りブッシュSr. らは“それを待ち構えていた”と見て間違いありません。
そして、ブッシュSr. は同年9月11日に連邦議会にて『新世界秩序へ向けて(Toward a New World Order)』というスピーチを行うのでした。日付に注目です。この11年後の9月11日に何が起きたかはご承知のとおりです。
100世代にわたってこのつかみどころのない平和への道を模索してきた一方で、人類の努力の範囲を超えて1000の戦争が猛威を振るい、そして今日、その新しい世界が生まれようともがいています。私たちが知っている世界とは全く違う世界。法の支配がジャングルの支配に取って代わる世界。各国が自由と正義に対する共通の責任を認識する世界。強者が弱者の権利を尊重する世界が。
このスピーチをうけて1991年1月17日「湾岸戦争」が開始されました。この日付も注目です。この4年後の1月17日に阪神・淡路大震災が起きます。これは偶然か否か?
冷戦終了後の平和とは、平和は平和でも「米国の一極支配による平和」つまりパクス・アメリカーナであり、その実現の手始めが湾岸戦争との計画だったはずです。「クウェート侵攻」がその開始合図でした。
東側諸国の共産主義体制が崩壊し米ソ冷戦が終了していく際に、西側のメディアは「平和な世界が到来」と吹聴しました。しかしその平和とは、普通の世界民衆の持っているイメージ、つまり私達一人ひとりが豊かで安心して暮らせることのできる平和な世界とは全く異なっていたのです。彼らの指す平和とは「新世界秩序」つまり「NWOによる平和」を意味していたのです。
実際にウィキペディアの「新世界秩序」記事の冒頭には「新世界秩序(しんせかいちつじょ、英: New World Order、略称:NWO)とは、国際政治学の用語としては、ポスト冷戦体制の国際秩序を指す。」として次のようにも記載しています。