ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝78 ― ジハード団の登場

 2000年代に入り、世界のメディアの間を騒がしく飛び交ったのが「ジハード」なる語でした。欧米のメディアは、「ジハード =(イスラム教の)聖戦」として報道してきました。
 2001年9月11日の「同時多発テロ」以降、米国は「対テロ戦争」を宣言し、世界を破壊していくのですが、911テロを起こした犯人が、欧米メディアの報道ではアルカイダを率いるオサマ・ビン・ラディンとされ、アルカイダは「ジハード団」と呼称されるのです。当時の米国とメディアは「対テロ戦争」の相手がジハード団、との仕立てにしようとしたのでしょう。
 事実、米国はアフガニスタンのタリバン政権がオサマ・ビン・ラディンを匿っている、として空爆を開始しました。そして、実際にイスラム過激戦闘集団とされるアルカイダやダーイッシュなどのジハード団が世界中で暴れまわり、残虐シーンが数多く放映されました。
 ジハードは、メディアではイスラム教の聖戦とされ、ジハード団は聖戦士とも訳されますが、例のごとくいつものごとくで、ジハード団はイスラム教から作られたわけではありません。ジハード団は、米国で頭角を現してきた稀代の戦略家とも表現できるであろうズビグネフ・ブレジンスキーが生み出したと言えるのでしょう。2017/05/28の竹下さんの記事に、以下のようにある通りです。
ブレジンスキーといえば、オサマ・ビン・ラディンを育て、ソ連を罠にかけ、アフガニスタンでのゲリラ戦を実行させた張本人です。彼がアルカイダやダーイシュを生み出したと言っても間違いではないでしょう。
 それにジハード団の主力は、元々から既におなじみになっている“あの集団”です。ブレジンスキーによって仕立て直されたといえるでしょう。
(seiryuu)
————————————————————————
ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝78 ― ジハード団の登場

ジミー・カーター退場に利用された事件


イラン-イスラム革命に付随して起きたイランアメリカ大使館人質事件、これが引き起こしたドラマは、ジミー・カーターの大統領からの退場でした。

ジミー・カーター大統領
flickr [Public Domain]

イラン-イスラム革命が成立した1979年、皇帝モハンマド・レザーは1月に国外退去、10月に米国に入国、米国入国に激怒したイラン国民によってイランのアメリカ大使館が11月に占拠され、大使館の人間などがモハンマド・レザーの引き換え要求としての人質に取られました。これがイランアメリカ大使館人質事件です。

テヘランのアメリカ大使館の塀を乗り越えるイスラム法学校の学生たち
Wikimedia Commons [Public Domain]

この後、カーター政権は大使館の人質開放のための作戦をことごとく失敗、これでカーター政権は批判の的となり、1980年11月の大統領選挙でジミー・カーターは敗退します。米大使館事件がカーター敗退の最大要因といってもよく、この事件は次のロナルド・レーガン就任と同時に解決しています。

そもそもカーターは、元イラン皇帝の米国入国には反対だった模様です。しかし、「パフラヴィー元皇帝の友人だったヘンリー・キッシンジャー元国務長官らの働きかけを受け、最終的に『人道的見地』から入国を認め」(ウィキペディア「イランアメリカ大使館人質事件」)、カーター自身の首を絞める事件へと発展していったのです。

ヘンリー・キッシンジャー
Wikimedia Commons [Public Domain]

ここでもやはりキッシンジャーです。イラン革命に付随する米大使館事件が、カーター大統領退場に利用されたとの見方も成立するでしょう。

ジミー・カーターは1977年に大統領に就任しています。カーター政権の外交政策は「人権外交」と呼ばれ、1978年には長年対立していたエジプトとイスラエルの間の和平協定「キャンプ・デービッド合意」を締結させています。

Wikimedia Commons [Public Domain]
編集者註:左からイスラエル首相ベギン、アメリカ大統領カーター、エジプト大統領サーダート。中東和平の枠組みとエジプト・イスラエル平和条約の枠組みからなる和平合意を米国のキャンプ・デービッドで交わした。

ただし問題になるのが、ウィキペディアの「ジミー・カーター」記事の「外交政策」欄の次の記述です。

1977年3月16日にマサチューセッツ州クリントンで行われたタウンミーティングにおいて、アメリカ大統領として初めてパレスチナ人国家建設を容認する発言をした(しかしながら、この発言がユダヤ系アメリカ人の反感を買い、先に述べた1980年アメリカ合衆国大統領選挙の敗北の一因となった)。

『櫻井ジャーナル』2017.05.30記事では、「1976年の大統領選挙で勝ったジミー・カーターはブレジンスキーとデイビッド・ロックフェラーが後ろ盾になっていた人物。」との指摘があり、同記事にはそのカーター政権の安全保障補佐官となったズビグネフ・ブレジンスキーについて次の記述があります。

ズビグネフ・ブレジンスキー
Wikimedia Commons [Public Domain]

ハーバード大学で博士号を取得、後にコロンビア大学で教えるようになる。このころかCIAと関係ができたと見られているが、その一方でデイビッド・ロックフェラーと親しくなる。

カーターは、ロックフェラーらの思惑で大統領に就任するも、イスラエルのパレスチナ問題などで彼らの思惑に外れた行為をとっため、イランの米大使館事件を起こされ、更迭されたというの本筋でしょう。


ソ連を引き込んだブレジンスキーの戦略


イラン-イスラム革命は第2次オイルショックを誘発し、ペトロダラー・システム構築に関与した者たちに莫大な利益をもたらした上に、そのシステム強化も果たす役割を果たしました。

そして、そのペトロダラー・システム構築のロックフェラーらが、気に入らなくなったカーター大統領を政治的に葬るのにも、イラン-イスラム革命に付随するイランアメリカ大使館人質事件を利用しています。イランアメリカ大使館人質事件自体が、キッシンジャーによって誘導されているのです。こう見ると、1979年のイラン-イスラム革命はやはり英米の思惑で成立したと見るほうが自然でしょう。

更にイラン-イスラム革命は、これらと異なった世界戦略の役割として利用もされています。日本で言うソ連のアフガニスタン侵攻です。

ソ連とアフガニスタン
Author:Fobos92 [CC BY-SA]

ソ連は1979年12月にアフガニスタン軍事介入に踏み切り、その要因はイランのイスラム革命のアフガニスタンへの伝播によるイスラム武装蜂起とされます。ここから1989年のソ連軍がアフガニスタン撤退までの10年に渡る戦闘、これにてソ連はすっかりと疲弊・弱体化してしまいました。ウィキペディアの「アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)」記事ではソ連軍介入の前段として、以下の記載があります。

1978年にアフガニスタンでは、共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党による政権が成立したが、これに対抗する武装勢力の蜂起が、春頃からすでに始まっていた。ほぼ全土が抵抗運動の支配下に落ちたため、人民民主党政権はソビエト連邦に軍事介入を要請した。

アフガニスタン紛争についてわかりやすく解説します
✅ 0:00〜:アフガニスタン情勢①
  • 無血クーデターにより、アフガニスタン王国(王政)➡︎アフガニスタン共和国(共和制)成立
  • 共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党のクーデターにより、アフガニスタン民主共和国成立
  • 宗教弾圧の開始 ➡︎ 共産主義政権に対するムジャーヒディーンの武装蜂起
  • 1979年イラン-イスラム革命が成立、11月イランアメリカ大使館人質事件勃発
  • 12月ソ連軍がアフガニスタンに侵攻
✅ 2:37〜:アフガニスタン情勢②
  • ソ連軍撤退後のアフガニスタン内戦とソ連の崩壊
  • タリバンの結成とタリバンによるアフガニスタン・イスラム首長国の成立
  • アルカイダと創始者オサマ・ビン・ラディン
  • 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件発生と米国のアフガニスタンへの軍事介入

アフガニスタンで武装蜂起したのがムジャーヒディーンとされます。ムジャーヒディーンとは、アラビア語で「ジハードを遂行する者」の意味です。アフガニスタンの共産主義政権へのムジャーヒディーンの武装蜂起によって、アフガニスタンはほぼ全土がその支配下に。それでソ連軍はやむなく軍事介入となるのですが、このムジャーヒディーンがソ連軍とも戦っていきます。このアフガニスタンの政権を転覆させた武装蜂起と対ソ連戦への工作は、ブレジンスキーの指示によるようです。

ムジャーヒディーン
Author:erwinlux [CC BY-SA]

先に見た『櫻井ジャーナル』記事では、以下の記述もあります。

1978年にCIAとイランの情報機関SAVAKはエージェントをアフガニスタンへ派遣、軍内部の左派将校を排除し、左翼政党を弾圧するように工作
(中略)
こうした工作が功を奏し、1979年12月にソ連の機甲部隊がブレジンスキーの思惑通りに軍事介入してくる。そのソ連軍と戦わせるために彼はCIAに戦闘員を訓練させているが、その戦闘員を雇っていたのがサウジアラビア。

ブレジンスキーはイラン-イスラム革命を利しての、アフガニスタン共産主義政権の武装攻撃による転覆およびソ連のアフガニスタンへの軍事介入への引き込みの戦略をたて、それの実施をCIAなどに指示して成功させたということのようです。

この戦略に協力していたのがペトロダラー・システムの中東での主役サウジアラビア、サウジアラビアが雇った武装集団にCIAはソ連と戦わせるための軍事訓練をも施し、戦闘集団に仕立てたということです。


ドンメーがジハード団主力へと


ソ連のアフガニスタンへの軍事介入への引き込みのため、ブレジンスキーの戦略から作られたムジャーヒディーン戦闘集団、これが後のアルカイダとなります。

先にアルカイダについてですが、2015.04.03の『櫻井ジャーナル』で以下のように説明されているとおりです。

アル・カイダについて、1997年から2001年までイギリスの外相を務めたロビン・クックは、CIAに雇われて訓練を受けた数千人におよぶ「ムジャヒディン」のコンピュータ・ファイルだとしている。「プロジェクト」が企画されると、そのファイルの中から戦闘員が選ばれて派遣されるということだろう。

アル・カイダとはアラビア語で「ベース」を意味、「基地」と表現することもできるが、実態は「データベース」だということだ。

『櫻井ジャーナル』は、アルカイダなどブレジンスキーの戦略から作られたアラブ人戦闘集団を「ジハード傭兵」、プロジェクトに従ってこのアラブ人戦闘集団が展開するのを「ジハード戦術」と呼んでいます。このジハード傭兵の源流と、そのジハード戦士の超有名人のオサマ・ビン・ラディンにも以下のように触れています。

戦闘員をアフガニスタンへ送り込む仕事をしていたひとりがオサマ・ビン・ラディンにほかならないのだが、この人物をジハード(聖戦)の世界へ引き込んだのはムスリム同胞団のアブドゥラ・アッザムだと言われている。1984年にアッザムとビン・ラディンはパキスタンにMAK(マクタブ・アル・ヒダマト/礼拝事務局)のオフィスを開設した。このMAKがアル・カイダの源流だと言われている。
(『櫻井ジャーナル』2020.11.01記事より)

『櫻井ジャーナル』は、ジハード傭兵の主力を「サラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団」と指摘しています。

サラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)は、要するに過激なイスラム原理主義で、その創始者アブドル・ワッハーブは、トルコのドンメーユダヤ族出身であることを近・現代編 第19話で見ました。つまり、ジハード傭兵の主力は「成りすましイスラムのユダヤ人」のドンメー、サバタイ-ツヴィの弟子団ということになります。彼らが改めてブレジンスキーの戦略から、ジハード団に仕立て直されたということです。


スファラディ系(有色人種)・アシュケナジ系(白色人種)ユダヤ人の分布
〜「成りすまし・乗っ取り」の系譜と建国されたドンメー国家
Author:The Emirr [CC BY-SA]
Wikimedia_Commons [Public Domain]
Wikimedia_Commons [Public Domain]


Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

これまでのseiryuu氏の寄稿記事はこちら


Comments are closed.