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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第35話 ― 終わらぬ戦争
特殊任務を命じられていた小野田少尉
1974(昭和49)年、一躍「時の人」になった方がいます。小野田寛郎元少尉です。戦後29年近く経過し、最後には一人となってもフィリピンのルバング島で大東亜戦争の任務を続行した方です。小野田少尉は1974(昭和49)年にその生存が確認され日本で大騒ぎとなり、同年の3月に現地で任務解除されフィリピン軍に投降という経緯を通した後に、日本に帰国されたのでした。1945(昭和20)年8月15日は小野田少尉の終戦ではなく、29年後がその終戦となったのでした。
【きょうの出来事・3月12日】小野田元少尉 30年ぶりの帰国(1974年)▶3月12日、元陸軍少尉・小野田寛郎さんが30年ぶりにフィリピン・ルバング島から帰国した。出迎えた母親は「よう生きて帰ってくれた。あなたはえらい。」とわが子を……続きは https://t.co/wVR4n5kwxx #3月12日 #今日は何の日
— NHKアーカイブス (@nhk_archives) March 11, 2021
なぜここまでの長期に渡り、小野田少尉の戦争は続行していたのか?
小野田少尉は陸軍中野学校出身の情報将校でした。そして、小野田寛郎ウィキペディア記事に「残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられフィリピンに派遣」とあります。小野田少尉は「残置諜者」と「遊撃指揮」という特殊任務を受けてフィリピンに派遣されていたのです。
「残置諜者」とは「敵の占領地内に残留して 味方の反撃に備え各種の情報を収集しておく情報員」のことで、「遊撃指揮」とは要するにゲリラ戦の指揮です。ウィキペディア記事によると、
師団長横山静雄陸軍中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と日本軍の戦陣訓を全否定する訓示を受けている。
とあります。
一般的な軍人とは異なり、小野田少尉の場合は直接上官からの命令がないと任務が解除されない状態にあったわけで、小野田少尉の受けた任務の指揮命令系統が、通常の日本軍のそれではない特殊なものであったことが窺えます。
フィリピンのルバング島の山中で、中野学校出身のスパイである小野田少尉は「残置諜者」「遊撃指揮」として何の任務に当たっていたのか?
小野田少尉のキーワードとなっていたのは「フィリピン」「陸軍中野学校」「残置諜者」「遊撃指揮」です。このキーワードから必然的に出てくるワードが「黄金の百合」であり、結論としては、小野田少尉は「黄金の百合(一部)」の監視と守備を命じられていたと見て間違いないでしょう。
日本軍によって、中国を始めアジアから略奪した黄金財宝はフィリピンに集められ、この「黄金の百合」は戦局の悪化でその多くがフィリピンの山中に隠されたのです。
この「黄金の百合」の隠蔽工作に関して2016.07.25の《櫻井ジャーナル》では次のように記しています。
隠匿工作を実行したのは第14軍/第14方面軍で、司令官は1942年8月から43年5月までが田中静壱、43年5月から44年9月までが黒田重徳、そして最後が山下奉文だ。(中略)... 指揮していたのは秩父宮雍仁、その補佐役は竹田宮恒徳だったとされている。
小野田少尉がフィリピンでの任務開始に当たったのは1944年12月、第14方面軍情報部付としてです。
陸軍中野学校の性質
小野田少尉のキーワード「陸軍中野学校」「残置諜者」「遊撃指揮」。先に「残置諜者」「遊撃指揮」ですが、日本の「残置諜者」のルーツは明石元二郎といえるでしょう。日露戦争の影の立役者で、敵国のロシアの内部からスパイとして各種工作で大いなる成果をあげたのが玄洋社(白龍会)社員であった明石元二郎でした。
そして、この明石のスパイ工作と呼応して「遊撃指揮」、つまりロシア軍を後方から撹乱のゲリラ戦を展開したのが満洲馬賊を率いた満州義軍でした。満州義軍もまた玄洋社(白龍会)関係者でした。
玄洋社(白龍会)の頭山満、そして杉山茂丸が裏天皇堀川辰吉郎の後見人でした。
裏天皇 堀川辰吉郎
次いで「陸軍中野学校」ですが、そもそも「陸軍中野学校」開校の目的は、第二第三の明石元二郎を生み出すことでした。中野学校の「ウィキペディア」記事では次のようにあります。
錬成要領の中に「外なる天業恢弘の範を明石大佐にとる」という言葉があるように、明石元二郎(大佐は日露戦争当時の階級)の報告書『革命のしをり』を基本教材とし、神(アマテラス)の意志にもとづいて世界人類の平和を確立する諜報工作戦士を養成していた。
更に次のように続きます。
八紘一宇、大東亜共栄圏といったスローガンは一顧だにされず、「戦時中で最も自由主義的ではなかったか」と回顧する出身者もいる。また、天皇に対する見方も自由であり、学生や教官の間で天皇の是非が討論される事もしばしばだったという。敵性語たる英語使用の自粛も全く行われず、むしろ諜報能力を養成する関係から外国語の技能は必須であり、英会話することを推奨された。
スパイを養成(もっと正確には忍者養成といったほうが良いでしょうが)の中野学校は陸軍の名を冠してはいますが、公的正規の日本軍部の学校ではなく、当時において昭和天皇に忠誠を誓ってもいないのです。裏天皇堀川辰吉郎に仕える諜報工作戦士(忍者)を養成していたのが中野学校だったはずなのです。この中野学校の後継が現在は赤龍会に所属の「別班」です。
自衛隊に「中野学校」が復活していた! 『自衛隊の闇組織』 | J-CAST BOOKウォッチ
— 人類の敵、目玉カルト粉砕 (@someone5963) June 17, 2019
別班DITについて詳しく知りたい人向け。 https://t.co/PHHdN6U2S5
また、この中野学校の兄弟機関が「陸軍登戸研究所」です。第29話で見たように、日本の秘密兵器開発行っていた秘密研究所です。
中野学校のウィキペディア記事では「謀略機材の研究をしていた登戸研究所から特殊爆弾や偽造紙幣の製造法等を学んでいた。」とあります。登戸研究所では大量の偽札も作られ、それを使った中国での工作が「杉作戦」であり、特務機関の「松機関」がそれを担当しましたが、偽札の運搬や取り仕切を行ったのが中野学校の人間だったようです。
以前に裏天皇の実行部隊が特務機関と指摘しました。特務機関を取り仕切り、そこへ工作員や資材を送り込んだのが中野学校であり登戸研究所という構図です。中野学校の兄弟機関には、登戸研究所の他に毒ガス研究の習志野学校、そして生物兵器研究の731部隊も入ってきます。
終戦を迎えなかった人々
裏天皇グループの司令を受けてフィリピンで特殊任務に当たっていたであろう小野田少尉、彼とその命令者、そして小野田少尉帰国のその後に関しては「マヨの備忘録」で次のものがあります。
小野田さんに指令を出したのは竹田宮だった、それは竹田宮の従者だったフィリピン人のベン・バルモアが証言している。彼はルパング島で小野田を見ていると言う。そして、竹田宮はベンを連れてルパング島で略奪財宝の隠匿を指示していた。
終戦後、財宝を探しに来る者達から財宝を守るために派遣されていた特殊工作員が小野田たちだった。(当時、その島には三人の日本兵が派遣された。)
だから、彼が発見されたあと、日本は任務解除に谷口義美元大佐を派遣した。その一団の中にこっそり竹田宮が入っている、それはベンがテレビ映像で確認している。つまり、竹田が解除命令を出さなければならなかった。
秘密を握っている小野田は帰国後即座にブラジルへ送られ、ルバング島の発掘が終了するまで護衛に守られていた。(監視されていたと言うべきか。)
ルバング島の発掘は笹川良一だ。彼はマルコスと契約してルバング・リゾート開発をした。どのぐらいの回収をしたのかは不明だが、マルコスはそれを知らなかったと言う。笹川はそれを船舶振興会でロンダリングして自分たちの基金に入れた。
終戦後、財宝を探しに来る者達から財宝を守るために派遣されていた特殊工作員が小野田たちだった。(当時、その島には三人の日本兵が派遣された。)
だから、彼が発見されたあと、日本は任務解除に谷口義美元大佐を派遣した。その一団の中にこっそり竹田宮が入っている、それはベンがテレビ映像で確認している。つまり、竹田が解除命令を出さなければならなかった。
秘密を握っている小野田は帰国後即座にブラジルへ送られ、ルバング島の発掘が終了するまで護衛に守られていた。(監視されていたと言うべきか。)
ルバング島の発掘は笹川良一だ。彼はマルコスと契約してルバング・リゾート開発をした。どのぐらいの回収をしたのかは不明だが、マルコスはそれを知らなかったと言う。笹川はそれを船舶振興会でロンダリングして自分たちの基金に入れた。
記載の内容は、竹田宮恒徳が小野田少尉に特殊任務の命令を出し、かつ解除した。監視されていたルバング島の「黄金の百合」の掘り出しを行ったのは笹川良一。
この内容には矛盾するところはありません。竹田宮恒徳は「黄金の百合」の指揮補佐官であり、笹川良一は部下の児玉誉士夫らと共に黄金・財宝略奪の実行部隊を勤めていました。そして「ルバング・リゾート開発」の名で掘り出しを行った頃には、笹川良一は緑龍会の総裁だったはずです。
記載内容が全て事実なのかは確認しようもありませんが、少なくともその内容に矛盾はなく、極めて自然であることは否定のしようもないのです。記載内容はほぼ事実と見ても大きな問題はないように思えます。
今回は有名人ということで小野田少尉を取り上げました。ただし、終戦後も内地もそうですが、外地でも戦争継続というべきか工作任務を継続した人たちは小野田少尉以外にも多数存在します。そして、その動きは戦後日本を構築するのに重要なものでもあったのです。
#小野田寛夫さんは英雄ではなかった 今夜のニュースウオッチ9、えらい報道をしましたね。戦争が終わったのも知らず、フィリピンの密林に数十年潜んで救出された小野田少尉。実は潜伏中、住民を殺したり略奪したり悪事を働いていたんですね。 pic.twitter.com/Z6jem3VdLa
— 雪之丞 (@aoitori2011) July 25, 2016
いまNHKのニュース9で「秘史 小野田さん帰国」なる小特集を放送していた。彼が敗戦後もルパング島民を殺傷していたことはよく知られていると思うが、被害者や遺族による訴訟を回避するために日本政府が「見舞金」3億円を払った経緯を示す外交文書が開示されたとのこと。
— 能川元一 (@nogawam) July 25, 2016
各国の「長老」とは、第2次世界大戦後に東アジア諸国が独立するのに尽力した人物を指すようです。「残置諜者」という言葉があり、この言葉が正確適用なのかはともかく、終戦後も外地各国に残留して種々の工作を実行し、その国の独立に導いた日本人たちがいるようです。
板垣英憲氏は近頃は自らを「八咫烏」と名乗っていますから、その「長老」たちも八咫烏関係者のような気がします。「板垣英憲氏は近頃は自らを「八咫烏」と名乗っています」は誤りですので、お詫びいたします。