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「適切な判断ができない」はずの安倍首相が「敵基地攻撃能力」を保有しようと画策している

 安倍首相に「お疲れ様」と言ってしまった人々がズッコケルような展開です。「体調が悪すぎて適切な判断ができない」はずの安倍晋三が、国家の安全保障政策を勝手に進めようとしています。あとどのくらい在任するつもりか知りませんが、新たに「敵基地攻撃能力」を保有しようとする方針で、記事では頓挫したイージス・アショア計画の代替案として打ち出すとあります。国民にとってはすでに「過去の人」なのに、まさか近い将来3度目の首相を狙っているのではあるまいな。ネット上では当然のごとく各界から「専守防衛から逸脱する」「事実上の改憲」「職務放棄した者が勝手に決めるな」「国会を開け」などの意見が上がっています。メディアが総裁選一色になっている裏で、このような憲法無視を最後の最後までやり抜くつもりのようですが、それだけでなく他にも「日英FTAが急ピッチで進められている」との情報もあります。片足を半分監獄に突っ込んだような者に、今後の日本の重要な政策を決めてほしくはありません。
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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首相、在任中に敵基地攻撃方向性 与党幹部へ伝達、9月前半NSC
引用元)
安倍晋三首相が自身の在任中に敵基地攻撃能力保有の方向性を示す意向を固め、与党幹部に伝えていたことが31日、分かった。秋田と山口への配備を断念した地上配備型迎撃システム「イージス・アショア」計画の代替案の考え方も同時に打ち出す。(中略)
次期自民党総裁が選出される前の9月前半に国家安全保障会議(NSC)を開き、安全保障政策の新方針に向けた協議推進を確認する見通しだ
(以下略)
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配信元)

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第34話 ― 後戻りできない道へ

1906年、日本の中国への進出をめぐり日本と米英は対立しています。すでに真珠湾への道が敷かれています。(『日米開戦の正体』p163)

孫崎享氏の指摘です。孫崎氏は「伊藤博文暗殺が日米開戦の遠因」との見解です。

 分水嶺という言葉があります。山の頂などで雨水など水の流れが別れる地点を指します。分水嶺を通過した水の流れはもう一定方向にしか進まず、後戻りや方向転換はできなくなります。孫崎氏の見解もそうですが、私も伊藤暗殺が分水嶺になっていたと見えます。泥沼の日中戦争、そして悲惨な太平洋戦争にまっしぐらに突き進む流れ、これが決してしまい、後戻りできなくなったのが伊藤暗殺と見えるのです。
 日本がそこに至っていく大きな流れは既にありました。少なくとも「一視同仁」の世界をつくるため1777年に客家系の華人によって蘭芳公司が建てられ、「四海同胞」の理想の下、日本から大量に流出した黄金が欧州にもたらされるようになった(2019/12/26竹下さん記事)時にはこの流れは既に発動していたでしょう。
 日本からの大量の黄金がフランス革命など世界革命に用いられ、世界潮流を発生させているので、日本がこの渦の中に巻き込まれるのは必然とも言えるのです。しかし伊藤暗殺までは、まだ日本は悲惨で泥沼の戦争にいたる流れに引き込まれるのを踏みとどまる余地はあったでしょう。
 さて、伊藤暗殺の黒幕には諸説あります。それを細かく見ていくと迷路になりますが、大きな視点でハイアラーキーの計画の上に伊藤暗殺があったと見るのが間違いのない見方だと思えます。日本を中心とするハルマゲドン計画の地上での推進の中核が結社八咫烏でしょう。玄洋社もその組織の一部です。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第34話 ― 後戻りできない道へ

「満州問題に関する協議会」〜児玉を圧倒した伊藤


1906年5月22日、首相官邸において元老および閣僚たち、更に軍部の主立った者がすべて一堂に会します。「満州問題に関する協議会が開かれたのです。この模様を孫崎享氏の『日米開戦の正体』から見ます。

p164 、この協議会は、日露戦争後に顕著になった満州を我が物にしようとする軍部の動きに懸念を持つ伊藤博文の要請によって開催されたものでした。一方この伊藤博文と対立、会議上でも満州を我が物にしようとの姿勢を見せたのが、長州閥の陸軍参謀総長児玉源太郎です。

p165、伊藤はこの児玉源太郎の主張に対し反論、その難詰は次のようなものでした。

満州方面における日本の権利は、講和条約によって露国から譲り受けたもの、即ち遼東半島租借地と鉄道の外には何物も無いのである。(中略)...商人なども仕切りに満州経営を説くけれども、満州は決して我国の属国では無い。純然たる清国領土の一部である。属地でも無い場所に、我が主権の行はるる道理はない。(『伊藤博文秘録』)

平成の松下村塾 [Public Domain]
平成の松下村塾 [Public Domain]
セリフはこちらを参考

また更に伊藤は、満州に権益を拡大する動きには次の危険が内蔵していることを指摘。

①日本が独占的地位を占めようとすることに対する米英の反発
中国国内で必ず抵抗運動が出てくる。

この協議会で伊藤は児玉源太郎を圧倒、この結果この会議の席上、日本軍の満州駐屯を排することになります。

これまで見てきたように、陸軍の児玉源太郎のバックには盟友の杉山茂丸がいたわけですが、彼らは海外拡大路線であって、満州に対しては「閉鎖主義」、つまり日本以外の外国勢力を排除し、満州の植民地化を進めようとする姿勢で動いており、満州に日本の軍隊を駐屯させていたのです。

左が杉山茂丸、右が児玉源太郎

この「満州を我が物にしようとの姿勢」に伊藤は真っ向から反対したのです。満州は清国の領土であって日本はその兵を撤退しなければいけないとの伊藤の主張は 、1905年の日露講和条約(ポーツマス条約)の内容骨子に「日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。」が入っており、至極当然でもっともなのです。


また伊藤は「日本が満州に権益を拡大する動きには、①日本が独占的地位を占めようとすることに対する米英の反発。②中国国内で必ず抵抗運動が出てくる。とその危険が内蔵していることを指摘」とありますが、この伊藤の懸念憂慮も当然だったのです。

そして不幸なことに、伊藤の懸念・憂慮がその後ことごとく現実化していくのは皆様のよく知るとおりです。


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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第33話 ― 伊藤博文暗殺の伏線

 前回、白龍会総裁、玄洋社の杉山茂丸と伊藤博文が奇妙で深い因縁の関係にあったことを見ました。また、ハルピン駅での伊藤博文暗殺が日本の韓国併合に繋がっていたのでした。
 杉山茂丸と伊藤博文の海外に対する方針姿勢は相容れないものでした。「日本の(武力行使を含めた)積極的海外進出」を主張していた玄洋社の韓国への主張は「日韓合邦」(日韓併合ではない)でしたが、これにしても元来の伊藤博文の姿勢とは相容れないものでした。
 そして対ロシアの方針は玄洋社と伊藤のそれは全く相容れないものでした。日露開戦を強く訴えていた玄洋社、それに対して伊藤はロシアとの戦争回避の協商路線を模索していたのです。
 更にあります。今回はその詳細を見る余裕はありませんが、日露戦争後の満州に対する方針は、玄洋社の杉山茂丸とその盟友である陸軍の児玉源太郎たちと、伊藤のそれとはこれも完全に相容れないものだったのです。
 日本は日露戦争後のポーツマス講和によって満鉄の権利を得ました。杉山たちはこの満鉄を満州の「植民地経営を具体化」に利用する方針で設立、この姿勢を憂慮した伊藤はこれを真っ向から反対したのでした。
 伊藤博文暗殺は韓国併合に繋がりましたが、それだけではなく満州国設立にも繋がっています。更には伊藤暗殺は日米開戦の遠因との指摘もあるのです。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第33話 ― 伊藤博文暗殺の伏線

杉山茂丸の出自 〜符合してくる事柄


杉山茂丸は、ウィキペディアの記事によると「戦国大名・龍造寺隆信の末裔」と記されています。ところが落合莞爾氏は杉山茂丸について、確かに「杉山家の家系は龍造寺氏の男系」としながらも更に次のようにも記述しています。

茂丸の実父が黒田藩主黒田長溥であることは、7歳時に長溥にお目通りして茂丸の名を頂いた話しで十分判ります。したがって茂丸の実の祖父は黒田長溥の実父の薩摩藩主島津重豪なのです。(『ワンワールドと明治日本』p286)

落合氏の説によると杉山茂丸は黒田藩主の息子であり、更に血統的には薩摩島津氏の流れとなります。蘭癖大名で有名だったのが薩摩藩主島津重豪とその息子の黒田藩主黒田長溥であり、杉山茂丸はこの血族だということになります。そして留意点があって、それは薩摩島津氏は秦氏であることです。

落合氏の説に基づく杉山茂丸の系図


この杉山茂丸に対する落合氏の見解は事実と思えます。なぜならば落合氏の説に基づくならば幾つもの事柄が「ああ、なるほど、それで」と符合してくるからです。見ていきましょう。

玄洋社の墓は黒田氏の菩提寺である博多の崇福寺にありました。これは杉山茂丸が玄洋社の実質社主であり、黒田藩主の息子であるなら「ああ、なるほど、それで」となります。

②ウィキペディアの「玄洋社」記事には次の記述があります。

 多くの玄洋社の運動家を輩出した福岡藩の藩校である修猷館

玄洋社の社員で日露戦争の影の立役者であった明石元二郎は修猷館(しゅうゆうかん)の出身でした。

また里見甫(さとみ はじめ、1896年1月22日 - 1965年3月21日)という非常に重要な人物がいました。彼は現在の電通の前身である満州国通信社の社長兼主筆を勤め、更にアヘン貿易の里見機関の主でアヘン王と称された人物です。この里見甫も玄洋社の関係者で修猷館を卒業しています。


このように元々黒田藩の藩校であった修猷館が「多くの玄洋社の運動家を輩出」し、玄洋社と非常に縁が深かったのも、玄洋社の社主杉山茂丸が黒田藩主の息子ならば「ああ、なるほど、それで」となります。

修猷館の徽章:六光星
日清戦争直後の1894年に制定。
Wikimedia Commons [Public Domain]
編集者註:六芒星についてはこちらを参照。

前回、杉山茂丸と伊藤博文が非常に奇妙で深い因縁にあったことを見ました。杉山茂丸が伊藤博文を暗殺しようとしたのが縁の始まりで、杉山は日露関係などを巡り伊藤博文を謀殺しようとしていた模様でした。

こういった背景には何があったのか? 杉山茂丸が血統としては島津氏つまり秦氏の血流だと知れば「ああ、なるほど、それで」の部分もでてきます。

八咫烏は秦氏を中心とする秘密結社です。その八咫烏は明治維新の際には長州の田布施一族と確かに手を組みました。それで薩長を主力とした勢力が成立し明治維新は成功しました。

その後ですが、明治政府は長州田布施出身の大室寅之祐を明治天皇として戴いており、薩長勢力の中でも明治政府の中で実権を握っていったのは伊藤博文を中心にした田布施一族であったといえるでしょう。

さて、明治維新で手を握った秦氏と田布施一族でしたが、しかし元々は秦氏と田布施一族は仇敵の関係にあったはずなのです。杉山茂丸は秦氏の血流であり、伊藤博文は田布施一族であって、秦氏と田布施一族が仇敵の関係にあったことを踏まえれば、伊藤博文に対する杉山茂丸の行動がある程度は理解できるのです。

1858年の日英修好通商条約以降の日本における2つの支配構造

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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第30話 ― 日露戦争の影の立役者

 自ら望んで「護国の鬼」となったある人物がいます。その人物の名前は明石元二郎ウィキペディア記事によると台湾総督に就任し、台湾軍の初代司令官も兼務し、周囲からは次の総理大臣を期待される中の1919年10月、志し半ばで郷里の福岡で55歳で死去したのが明石元二郎です。
 彼は死に際し「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。いまだ実行の方針を確立せずして、中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらざるべからず」と遺言したとのこと。
 この遺言に従い、彼の遺骸は福岡から台湾に移され埋葬されたとあります。激烈な生涯を遂げたであろう明石元二郎は別のことで有名でもあります。日露戦争における諜報工作で、明石元二郎の諜報戦によって日露戦争で日本は勝利を得たともされるのです。日露戦争の影の立役者です。
 日清戦争が終結したのは1895年、日露戦争が開戦したのは1904年です。この間僅かで10年も経っていません。日本とロシア、その国力には大きな開きがあり、普通に見れば日本にとって日露戦争は無謀な戦争といえるでしょう。日露戦争で日本が有利に戦局を進められると見ていた国家はほぼ皆無だったのです。その中、意外にも日本は善戦をします。
 ただし、開戦の翌年には日本の戦闘体力はつきようとしていました。その状況下で、ロシアが日本に有利な講和に応じざるを得なかったのはロシアの国内事情からです。革命運動の激化による国内不安がそれで、これを喚起させたのが明石元二郎とされるのです。
 もともと日露戦争を強く誘導したのはロスチャイルドです。ロスチャイルドの帝政ロシア打倒作戦の一端が日露戦争だったのです。それと日本国内にも日露戦争を強く推し進める勢力がありました。それが福岡を本拠とする玄洋社です。明石元二郎も玄洋社の社員だったのです。
 玄洋社は八咫烏の政治組織です。自ら望んで「護国の鬼」となった明石元二郎は八咫烏の一人だったのでしょう。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第30話 ― 日露戦争の影の立役者

日露戦争の帰趨を決めたロシア国内事情 〜戦闘では敗北していた日本


明石元二郎
Wikimedia Commons [Public Domain]

明石元二郎1904年に始まった日露戦争における日本側の最重要人物が彼でしょう。明石元二郎の諜報戦の働きによって日露戦争で日本の勝利が導かれた、ともされているのです。

日露戦争は、一応は日本が勝利したことになっています。しかし少なくとも、それはいろんな意味で「苦い勝利」と言わなければならないでしょう。

一例を上げます。戦死者数です。「人間自然科学研究所」のデータによると日露戦争の戦死者は日本側は11万5600人、ロシア側は4万2600人となっています。意外なことに日本はロシアの3倍近い戦死者をだしているのです。

戦死者の数を比較し戦闘という観点に絞って見るならば、敗者は明らかに日本側です。日本側は自国兵士を消耗品として扱った大苦戦のすえにようやくロシアとの講和に持ち込んだのです。前回リンク資料とした藤原彰氏著『天皇の軍隊と日中戦争』では次にある通りです。

兵士の生命を尊重せず、生命を守る配慮に極端に欠けていたのが日本軍隊の特徴であった。(中略)...日露戦争の場合は兵士を肉弾として戦い、膨大な犠牲を出した。火力装備の劣る日本軍は、白兵突撃に頼るばかりで、ロシア軍の砲弾の集中と、機関銃の斉射になぎ倒された。(中略)...旅順だけでなく、遼陽や奉天の会戦でも、日本軍は肉弾突撃をくりかえし、莫大な犠牲を払ってようやく勝利を得ている。

大国ロシアを相手の日本の戦争はやはり無理があったのです。

第一軍司令部と観戦武官
Wikimedia Commons [Public Domain]

しかし、日本が苦戦を強いられながらもロシア相手に有利な講和条約にこぎつけられた、これはロシア国内の革命運動による国内不安からだったのです。近・現代編の第6話に次のように記した通りです。

1904年には日露戦争が勃発します。風刺画に描かれていますが日本にとっては、国力がまるで違うロシアが相手で、尻込みするのを英国と米国にけしかけられた戦争といえるでしょう。日本は開戦近くまで戦費の調達すらままならなかったのです。ところが予想外にも開戦から日本は連勝を続けます。しかし翌年には日本の体力は尽きてきていました。

そのような1905年、ロシア国内では1月のガポン神父率いるデモ隊への軍の発砲にて多数の死傷者がでた「血の日曜日事件」をきっかけとして、第一次ロシア革命が起こります。「日露戦争当時、ユダヤ人たちは『ロシア政府の敗北』というスローガンを掲げて革命運動を展開」「第一次ロシア革命の嵐がロシア全土を襲った」(イワノフ氏)のです。国内が荒れ不安定化したロシアは、既に体力の尽きた日本と不本意ながらも米国の仲介で9月に講和条約を結びます。


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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第29話 ― 日清戦争の背後

 行為者に対して、どうしても「それを断ることができない」状況に置いておきながら、「自らが誓った」形にてその行為をさせるのが日本社会ではよく見られるよう感じます。実質は行為の強要なのに、行為の実行を自ら誓わせているのです。
 「自らが誓った」というのがミソで、その行為によってどのような酷い結果となったところで、その責任は自ら誓ってその行為を為した者にのみ負わされます。実質的に追い込み、強要させた側は責任追求を逃れます。支配する側と支配される側でこの関係が成立しており、支配する側の狡猾で卑劣な行状でしょう。
 実際日本の支配層は、上に行けば行くほど責任が追求されないシステムになっているのです。何か事があってもその真相は明らかにされず闇に葬り去られ、上は責任を取らずトカゲの尻尾切りで事は済まされます。
 日本の今日ではこの光景を目にするのは日常茶飯事です。為政者が当然責任を負わなければならないことを、すべからく国民の「自己責任」にしているなどです。
 なぜこのような虚偽隠蔽が横行するようになったのか? 一つの原点は間違いなく日本の大陸進出からの戦争と敗戦の事実の隠蔽でしょう。
 日本が大陸に進出していき日清・日露戦争、韓国併合に突き進み、最後は日中戦争から太平洋戦争で敗北に至ったこと、この全容は日本国民に対して闇にふされたまま全体の総括、責任の所在が全く明らかにされず現在にまで至っているのです。
 その闇にふされていた戦争の亡霊たちが再び復活してきたのが安倍政権ともいえるでしょう。彼らの体質は昔と同じままでした。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第29話 ― 日清戦争の背後


国民の生と死まで支配管理する国家神道 〜実験カルト国家皇国日本


改めて、の内容をしばし記します。

死して護国の鬼と誓いし…」、このフレーズが入った軍歌「元寇」は1894年から始まった日清戦争の少し前に作られ、戦意向上のため戦時中に盛んに歌われたとされます。

「死して護国の鬼となる」。これは皇国日本における美しいフレーズとして日本国民に刷り込まれたものですが、美しいどころか非常に恐ろしいフレーズです。

「護国の鬼」とは辞書に「国をまもるために命をすてた人。戦死した人」とあります。国のため戦死することを「自ら誓う」という形にして、国民に戦死という最大限の犠牲を強いる歌詞なのです。

それだけではなく「鬼」とは「鬼神」のことです。日本 明治編第1話に記しましたが、鬼神とは成仏させてもらえない「荒御魂」で招魂祭と一体です。非業の戦死をした「荒ぶる魂」を招魂 し、「護国の鬼神」となすのがこの歌詞の意味です。


日本国民に生前はその生命を「お国のため」として戦死の犠牲を強いる。しかも死後も鬼神として自らの都合の良いように利用するのです。

この国民犠牲からの利益を得るのは国家を管理する支配者達です。国家の支配層が日本の国民を生きている時のみならず、死んでからも永遠に支配管理する、これが皇国日本の思想だったのです。

明治早々に建設されていった東京招魂社(後の靖国神社)を代表とする「護国神社」群、これによって成立した国家神道皇国日本、それに軍国主義日本帝国は一体のものです。

靖国神社など招魂社をもとにする護国神社は、それまでの伝統的神道の神社とは全く異質なものです。国家神道とは新興宗教であり、カルトといって差し支えないでしょう。日本国民の生と死までも支配管理するのです。日本国家そのものがカルトに嵌まり込んだのです。

事実として、日本ほど自国兵士の生命を極端に軽視して、使い捨ての消耗品とした国は無いでしょう。そうやって国民の生命とその死さえも利用管理しようとしてきたこの国家姿勢、並びに日本支配層の本音は、決して単に過去のものではないことは多くの方が気づいてきている通りです。

近・現代編の第3話第4話第5話で、ナチス・ファシズム、ソ連革命共産主義、イスラエル建国のそれぞれが、世界統一政府樹立に向けた実験だったと記しました。この実験によって無数の悲惨な犠牲者が生まれました。しかしその凄惨な犠牲者たちであってさえも、死後までは支配管理の檻の中に閉じ込められはしなかったでしょう。

Wikimedia_Commons [Public Domain]
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ところが日本は違っていたのです。明治以降の日本も世界統一政府樹立に向けた実験国家であった点は同じでしょうが、日本の場合は悲惨な犠牲者を出しただけでなく、その死さえも管理・利用したのです。

日清戦争の日本兵(1895年)
Wikimedia_Commons [Public Domain]

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