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ユダヤ問題のポイント ― 特別編(黄金の流出から)4 ― 水戸光圀の事業 ―
光圀の出生は影の事柄 〜光圀は楠木正成の子孫?
水戸光圀
Wikimedia Commons [Public Domain]
さて、ボチボチ出発としようか。今日は黄金の話に戻らなきゃね。
いや、ご隠居その前に…、水戸光圀のこと…。
光圀は楠木正儀から連なる摂津池田氏の出、だったんで?
光圀は楠木正儀から連なる摂津池田氏の出、だったんで?
ふむ、前回の続きだね。
そうだね。寄り道になるが、水戸光圀に触れないわけにもいかないようだね。
そうだね。寄り道になるが、水戸光圀に触れないわけにもいかないようだね。
へい。ご隠居は、光圀が摂津池田氏ならば色々なことの辻褄があうと語っていやしたが?
そうだね…、うーん、先ずだが、光圀の出生は通史上でもいわく因縁がらみなんだ。
へ? 光圀は確か徳川家康の孫でやしたね。
天下の将軍の孫の誕生が因縁がらみ?
天下の将軍の孫の誕生が因縁がらみ?
光圀の父は家康の11男の頼房、水戸初代藩主だ。母は久子で、光圀は頼房の三男として誕生している。
ところが、母の久子は頼房の正式な側室でもなかったようで、光圀の兄もそうだったのだが、光圀を身ごもった久子を堕胎させるよう頼房は家臣の三木仁兵衛夫妻に命じる。この主命に反して三木仁兵衛夫妻は自分の邸宅で久子に光圀を産ませている。
詳しくは徳川光圀のウィキペディア記事の幼年時代を見れば分かるよ。
ところが、母の久子は頼房の正式な側室でもなかったようで、光圀の兄もそうだったのだが、光圀を身ごもった久子を堕胎させるよう頼房は家臣の三木仁兵衛夫妻に命じる。この主命に反して三木仁兵衛夫妻は自分の邸宅で久子に光圀を産ませている。
詳しくは徳川光圀のウィキペディア記事の幼年時代を見れば分かるよ。
あ、ほんとでやすね。光圀もそうでやすが、兄も堕胎させるよう頼房は命じてやすね。これがホントだとすれば何とも薄情な父親だ。
で、兄も光圀も三木仁兵衛によって救われている。そして三木邸で出生した光圀は幼年期は三木邸で過ごしていやすね。それで光圀は4歳の時に水戸城に入城し、5歳で世子に決定したとありやすね。
ふーむ、しかし…、この話のたてつけなら、何とでも…。
で、兄も光圀も三木仁兵衛によって救われている。そして三木邸で出生した光圀は幼年期は三木邸で過ごしていやすね。それで光圀は4歳の時に水戸城に入城し、5歳で世子に決定したとありやすね。
ふーむ、しかし…、この話のたてつけなら、何とでも…。
そう、記事に「光圀になぜ堕胎の命が出されたかは不明」とあるが、家臣の邸宅で生まれ育ったと言うならば、光圀は本当に頼房の息子なのか? 確認は?
子供の入れ替えでも何でもできてしまいはするね。
子供の入れ替えでも何でもできてしまいはするね。
そうでやすね。
これが通史説で、落合氏説は光圀は三木邸で生まれ育ったのではなく、摂津池田氏の子息として生まれ育ち、光圀が4歳の時に水戸城に入城し、5歳の時に世子に決定したとしているんでやすね。
これが通史説で、落合氏説は光圀は三木邸で生まれ育ったのではなく、摂津池田氏の子息として生まれ育ち、光圀が4歳の時に水戸城に入城し、5歳の時に世子に決定したとしているんでやすね。
そういうことだね。落合説が事実か否かは分からんが。ただ通史の話もとってつけたような何とも言えない内容ではあるね。
いずれにしても、光圀の出生と幼年期は世間の目と日の当たらない影の事柄だ。
いずれにしても、光圀の出生と幼年期は世間の目と日の当たらない影の事柄だ。
ふーむ、そうでやすね。
何とも言えやせんが、落合説はありうる感はしやすね。そうだと裏で天海が動いていたということに…。
ご隠居、で、落合説が事実ならば色々と辻褄が合うという、その内容は?
何とも言えやせんが、落合説はありうる感はしやすね。そうだと裏で天海が動いていたということに…。
ご隠居、で、落合説が事実ならば色々と辻褄が合うという、その内容は?
落合史観による水戸光圀の系図
楠木正成の子孫…、あっそうか、湊川神社だ。
明治早々に、神戸に楠木正成を神として祀る湊川神社が創建されていやすが、本編の第2話で「光圀が南朝の忠臣であった楠木正成を讃えたのが湊川神社創設の伏線」とありやした。
またこの第2話では「『南朝正統』の光圀の提唱が水戸学となり」とも指摘していやすね。
明治早々に、神戸に楠木正成を神として祀る湊川神社が創建されていやすが、本編の第2話で「光圀が南朝の忠臣であった楠木正成を讃えたのが湊川神社創設の伏線」とありやした。
またこの第2話では「『南朝正統』の光圀の提唱が水戸学となり」とも指摘していやすね。
その通り。光圀に対する落合説には2つのポイントがある。
一つは光圀が楠木正成の子孫であること。もう一つが光圀が水戸藩の世子に決定したのは天海の差配によること。つまり、光圀は最初から天海の陰謀グループに所属していた、ということさ。
整理すると、
①光圀は楠木正成の子孫
②光圀は陰謀団に所属
これが落合説から見える光圀像の2つのポイントとなる。
一つは光圀が楠木正成の子孫であること。もう一つが光圀が水戸藩の世子に決定したのは天海の差配によること。つまり、光圀は最初から天海の陰謀グループに所属していた、ということさ。
整理すると、
①光圀は楠木正成の子孫
②光圀は陰謀団に所属
これが落合説から見える光圀像の2つのポイントとなる。
光圀の事業の狙い 〜「南朝正統」提唱が水戸学に
なるほど。湊川神社の祭祀は“①光圀は楠木正成の子孫”に繋がる内容でやすね。
ウィキペディアの湊川神社記事には「元禄5年(1692年)になり徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した石碑を建立した」、また「以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された」とありやすね。
ウィキペディアの湊川神社記事には「元禄5年(1692年)になり徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した石碑を建立した」、また「以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された」とありやすね。
さて、今日は1701年に徳川光圀が亡くなった日。水戸黄門でおなじみのご老公様です。水戸藩主だった人物ですが、その像が神戸にもあります。場所は湊川神社。光圀がこの地に「嗚呼忠臣楠子之墓」と刻んだ石碑を立て、楠木正成の墓所の建立に関係したことにちなみます。 pic.twitter.com/n333bE36sV
— 神戸新聞総合出版センター (@kobe_np_syuppan) December 6, 2018
江戸時代の天皇は北朝だ。南朝の将であった楠木正成は北朝側から朝敵にされていた。光圀が墓碑を献上した当時の楠木正成は、第2話にあるように朝敵は外されてはいたが大悪人扱いだった。
当時、大悪人の楠木正成を讃仰した墓碑を献上するという行為は、全く特異な行為というわけでやすね。
そういうことさ。
徳川の人間がなぜわざわざそのような特異な行為をするのかは説明がつかない。しかし光圀が楠木正成の子孫であったのならば、なるほど、と合点はいくね。
徳川の人間がなぜわざわざそのような特異な行為をするのかは説明がつかない。しかし光圀が楠木正成の子孫であったのならば、なるほど、と合点はいくね。
そうでやすね。それに光圀が「南朝が正統」と提唱し、その説に基づき始めたのが水戸学。当時北朝天皇なのに「南朝が正統」などと提唱するのは、朝廷に弓を引くような異様な行為では?
全くそうだね。
光圀の正室は近衛信尋の次女・尋子(泰姫)だ。尋子(泰姫)の父の近衛信尋とは、近衞家の養子に入った後陽成天皇の第四皇子だ。つまり尋子(泰姫)は後陽成天皇の外孫だ。従ってその夫の光圀も皇室関係者となる。
その光圀が「南朝正統」を提唱し、水戸学を始めている。これは偶然などでなく意図的な狙いがあっただろう。
光圀の正室は近衛信尋の次女・尋子(泰姫)だ。尋子(泰姫)の父の近衛信尋とは、近衞家の養子に入った後陽成天皇の第四皇子だ。つまり尋子(泰姫)は後陽成天皇の外孫だ。従ってその夫の光圀も皇室関係者となる。
その光圀が「南朝正統」を提唱し、水戸学を始めている。これは偶然などでなく意図的な狙いがあっただろう。
水戸光圀と近衛家の関係
ふーむ、“②光圀は陰謀団に所属”に連なる内容でやすね。「南朝が正統」と提唱した光圀は最初から陰謀団に所属していたと見受けられる。しかもその光圀のもとに天皇の外孫で近衛家の娘が嫁いでいる。
ふーむ、皇室関係者や公家の中にも陰謀団の仲間がはびこっていた?ということでやすか?
ふーむ、皇室関係者や公家の中にも陰謀団の仲間がはびこっていた?ということでやすか?
そういうことになるだろうね。
前回に見た丹波桑田郡の安藤家に入った伏見宮家の邦茂王(安藤惟実)、その後裔が水戸藩に仕えた安藤為実と為章の兄弟。これは事実だろう。
伏見宮家の血流の安藤為実と為章の兄弟が光圀と共に始めたのが「大日本史」や水戸学に連なる事業だ。伏見宮と水戸徳川のタッグ事業だ。
前回に見た丹波桑田郡の安藤家に入った伏見宮家の邦茂王(安藤惟実)、その後裔が水戸藩に仕えた安藤為実と為章の兄弟。これは事実だろう。
伏見宮家の血流の安藤為実と為章の兄弟が光圀と共に始めたのが「大日本史」や水戸学に連なる事業だ。伏見宮と水戸徳川のタッグ事業だ。
ああ、そうか。
この水戸学については、本編第8話では既に「水戸学が目指していたのは、日本でのユダヤ王の誕生でしょう」とその狙いを明らかにしていやすね。水戸学が鑑にしていたのはホツマツタヱでなく古事記・日本書紀…。
この水戸学については、本編第8話では既に「水戸学が目指していたのは、日本でのユダヤ王の誕生でしょう」とその狙いを明らかにしていやすね。水戸学が鑑にしていたのはホツマツタヱでなく古事記・日本書紀…。
そう、まさにハルマゲドン計画を実現させるための歴史と思想の工作が「大日本史」、水戸学だね。
そういうことだね。
光圀に関連する陰謀団の仲間では京都社寺勢、堀川通りにあった本圀寺もあるね。
光圀に関連する陰謀団の仲間では京都社寺勢、堀川通りにあった本圀寺もあるね。
本圀寺跡 堀川六条 日蓮宗の六条門流の総本山。1970年に山科に移るまでこの地にあった。元は本国寺。豊臣秀吉の姉・日秀尼や加藤清正によって再興。次いで江戸時代には水戸光圀の外護をうけ再興したため、寺名が「国」から「圀」へ改まる。#日蓮宗 #豊臣秀吉 #加藤清正 #水戸光圀 pic.twitter.com/9oFnzdqywo
— 京都_寺社_仏閣_kyoto_temple_shrine 松田貴史 (@CafeTemple) July 31, 2018
京都堀川の本圀寺? …えっと、確か表舞台から退去し、裏に回られた孝明天皇、そして睦仁親王が移った堀川御所と呼ばれた寺が本圀寺でありやしたね?
その通り。孝明天皇そして初代裏天皇の睦仁親王の住居となったのが本圀寺。
陰謀のど真ん中の舞台になったのが本圀寺なのだから、本圀寺は京都社寺勢の中でも特別な存在と言えるだろう。
陰謀のど真ん中の舞台になったのが本圀寺なのだから、本圀寺は京都社寺勢の中でも特別な存在と言えるだろう。
その本圀寺は光圀とはどういう関係であったんでやすか?
本圀寺の“圀”は、もとは普通に“国”という字だった、本国寺だね。
ところが光圀が母の法要をこの本国寺で行って以来、本国寺は光圀の“圀”をもらって“本圀寺”と改名しているんだ。
ところが光圀が母の法要をこの本国寺で行って以来、本国寺は光圀の“圀”をもらって“本圀寺”と改名しているんだ。
陰謀ど真ん中の舞台の寺が、光圀の名の文字で改名か。…どうも光圀は陰謀団の仲間内中でも特別な存在だったようでやすね。
ところで光圀といえば定番の諸国漫遊でやすが、これは?
ところで光圀といえば定番の諸国漫遊でやすが、これは?
陰謀団メンバーの広がり 〜明白な工作事実と人脈
ふむ、漫遊はもちろんフィクションだが、こういったものには幾許かの真理が含まれていたりする…。
と、いいやすと?
光圀自身が日本全国を巡るはずはないが、忍者を使い諸国を探らせていたのは事実だろう。光圀に仕えたとされる安藤為実と為章の兄弟がここでも一つのミソとなる…。
安藤兄弟、安藤家? …うん、待てよ、安藤家は丹波桑田郡、そして忍者と言えばアヤタチ上田サンカ、上田サンカの本拠地も丹波で穴太村だったはずでは?
ご名答。安藤家も上田サンカも丹波の旧南桑田郡だ。地図で見れば安藤家の小口村と上田サンカの穴太村は近所だ。徒歩でも行き来できる。安藤家と上田サンカは古くから交流があったと見るのが当然だ。
その安藤家が光圀に仕えてタッグを組んでいる。それなのに上田サンカが噛まないと見るほうが…。
うわー、安藤家には伏見宮の血流が入り、水戸徳川とタッグの共同事業。その安藤家は古くからの上田サンカとの交流関係。
一方、上田サンカは皇室や公家のスパイ稼業。そして天海が安藤家に入った伏見宮の邦茂王(安藤惟実)の息子ならば、当然ながら上田サンカに繋がる。
更に光圀が摂津池田氏ならば、そこに楠木正成の末裔たちも連なる。
陰謀団のメンバーがどんどん繋がっていきやすね。
一方、上田サンカは皇室や公家のスパイ稼業。そして天海が安藤家に入った伏見宮の邦茂王(安藤惟実)の息子ならば、当然ながら上田サンカに繋がる。
更に光圀が摂津池田氏ならば、そこに楠木正成の末裔たちも連なる。
陰謀団のメンバーがどんどん繋がっていきやすね。
そういうことだね。
光圀の諸国漫遊に戻すと、光圀が日本全国を探らせた忍者団の頭が上田サンカだったろう。そしてこの忍者団の調査報告は皇室や伏見宮家、そして近衛家などの公卿たちにも届けられていただろう。
皇室の中、伏見宮家、近衛家、水戸徳川、上田サンカ、その他もあるが、これらが全て陰謀団のメンバーとして連なっている。
光圀の諸国漫遊に戻すと、光圀が日本全国を探らせた忍者団の頭が上田サンカだったろう。そしてこの忍者団の調査報告は皇室や伏見宮家、そして近衛家などの公卿たちにも届けられていただろう。
皇室の中、伏見宮家、近衛家、水戸徳川、上田サンカ、その他もあるが、これらが全て陰謀団のメンバーとして連なっている。
ふーむ、皇室関係や公家などは、京都の俗世とは隔絶した場所、いわば世間からはつんぼ桟敷の浮世離れの暇を持て余した生活をしていた。これがあっしらの感覚であったんでやすが…、そうではなかったんでやすね。
一般世間には全く知られないような情報を集め、暗躍や裏工作を行っていた?
一般世間には全く知られないような情報を集め、暗躍や裏工作を行っていた?
ふむ、浮世離れして暇を持て余していた、この部分もあるだろう。しかし昔から皇室や公家の世界は、権力・勢力争いで暗躍・暗闘・秘密工作は常にあった。これは彼らの拭いきれない“習い性”だね。
ふーむ、あっしは今日唸ってばかりでやすが、ハルマゲドン計画の中に日本を中心としたヴァージョンもあり、この陰謀団の中核に皇室関係や公卿がいたわけでやすね。
そして江戸時代初期にその工作を行った中心人物に天海がいて水戸光圀がいた。こういうわけでやすね?
そして江戸時代初期にその工作を行った中心人物に天海がいて水戸光圀がいた。こういうわけでやすね?
そうだね。それでいいだろう。
天海が伏見宮の邦茂王(安藤惟実)の息子なのか?否か?の確認は取れない。同様に水戸光圀が楠木正成の子孫であったか?否か?も確認はできない。
しかし明白なのは、事実として天海が、そして光圀が、陰謀計画実現のため工作を実施していたことさ。
天海が伏見宮の邦茂王(安藤惟実)の息子なのか?否か?の確認は取れない。同様に水戸光圀が楠木正成の子孫であったか?否か?も確認はできない。
しかし明白なのは、事実として天海が、そして光圀が、陰謀計画実現のため工作を実施していたことさ。
そうでやすね。工作の事実と陰謀に連なる人脈は否定しようもありやせんからね。
そう。人脈関係では、特に大事なのが後年に天海が日月神示を降ろした相手だ。
ここを探ると日本だけではなく、外国勢力との人脈の連なりも浮き彫りとなりそうなんだ。
ここを探ると日本だけではなく、外国勢力との人脈の連なりも浮き彫りとなりそうなんだ。
日月神示…、大本教関係者の岡本天命が自動書記で記したものでやすね。
大本教といえば出口なおもそうでやすが、出口王仁三郎こと上田鬼三郎、つまり上田サンカの流れでやしたね。
大本教といえば出口なおもそうでやすが、出口王仁三郎こと上田鬼三郎、つまり上田サンカの流れでやしたね。
そう。2014/12/23の記事で竹下さんは次のコメントを出されている。
裏天皇、大本教・出口王仁三郎、日月神示は、一連の流れの中にあるものです。日本を中心とするNWO(新世界秩序)が彼らの野望でした。これはデイヴィッド・ロックフェラーの米国を中心とするNWOと対立します。彼らは互いの野望の実現に向けて、激しく対立し争っていたわけです。
ふーむ、「一連の流れの中にある」…人脈か。
さて、どのような人脈が?
さて、どのような人脈が?
記事の光圀の人物像に「肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した生類憐れみの令を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていた。」とあり、後世の蘭癖大名を彷彿させます。光圀はノーマルな徳川の人間の枠に全くはまらないタイプでした。
前回紹介した落合氏の説では、光圀は楠木正儀からの血流の摂津池田氏、天海の差配で水戸徳川の世子に繋がったとしています。この説が事実かどうかは分かりません。しかし事実として光圀が実施した事業は、陰謀計画実現に向けた工作になっています。
また光圀が楠木正成の子孫だとすれば、彼の行動に納得がいくところも大なのです。光圀で特記すべきは「南朝が正統」と提唱し「大日本史」の編纂を始めたことです。
江戸時代は代々北朝天皇で、光圀自身が皇室関係者であったのにも関わらずの、「南朝が正統」との光圀の提唱。これが水戸学になっているのです。
ウィキペディアの記事を読めば、水戸藩は財政難にあったのに「大日本史」そして水戸学に、財政が傾くほどの莫大な資金を投入しているのが分かります。光圀から始まる水戸学が明確な狙いを持っていたのが明白です。
水戸学のベースは朱子学でありミトラ教でした。天海と同様に光圀の出生がどうかは分かりません。しかしこれも天海と同様に、光圀が陰謀団に所属の中心人物であったことは間違いないでしょう。