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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第9話 ― 英領日本へ
徳川の生き残り戦略 〜徳川三代のブレーン天海
水戸徳川が、水戸徳川出身の最後の将軍徳川慶喜が、倒幕と明治維新の切り札というか決め手になったのは間違いありません。
しかし、水戸徳川が倒幕の最大の力になったとはいえ、もちろん水戸徳川が徳川家を滅ぼすために倒幕運動を展開したわけではありません。逆です。徳川家が日本の支配者として長く存続できるように水戸徳川は倒幕運動を展開したのです。そして現に明治維新から今日に至るまで、徳川家は日本支配層のトップにしっかりと食い込んでいます。
水戸徳川は徳川幕府の後見人の役割を担っていたのですが、徳川家を存続させるため、場合によっては徳川自身が徳川幕府を止める戦略構想は家康自体が持っていたと「るいネット」の記事は次のように記しています。
この記事では「家康は、朝廷の盲点を見抜いていて、朝廷が、幕府の意向を聞かないときは、南朝を持ち出して、朝廷を揺さぶることを念頭においていた」とし、その南朝系天皇を「当時は、玉(ぎょく)といっていたようで、幕府が隠しもっていたのが、後の東北連合の熊沢天皇だった」と記しています。
徳川家はいざとなった時には生き残るために南朝を立てる戦略を持ち、そのために熊沢天皇を匿っていたとするのですが、さもありなん、との感もします。
徳川幕府を開いた家康は天皇を廃止しなかっただけでなく、「徳川幕府が時代の要請にあわなくなったら、密かに南朝の天皇家を皇位に立て、そのもとで徳川家の存続を図る」という有事の際の南朝革命戦略をも持ちあわせて、政権を後世に引き継いだ。その書が「公家法度」で、水戸藩による南朝革命は、この「公家法度」を源流にしている。
この記事では「家康は、朝廷の盲点を見抜いていて、朝廷が、幕府の意向を聞かないときは、南朝を持ち出して、朝廷を揺さぶることを念頭においていた」とし、その南朝系天皇を「当時は、玉(ぎょく)といっていたようで、幕府が隠しもっていたのが、後の東北連合の熊沢天皇だった」と記しています。
家康は暴力と権謀術数の嵐だった戦国時代をサバイバルして、生き残り勝ち残ってきた人物です。大変な超リアリストで、実務的に幾重もの生き残りのための防護線は引いていたでしょう。
そして側近の存在です。生き残り戦略の南朝革命の源になったとされる「公家法度」を創案した家康の側近は「黒衣の宰相」の異名を持つ金地院崇伝ですが、そのライバルだったのが南光坊天海です。
天海は江戸を陰陽道・風水の観点から設計し、家康の死後の神号である東照大権現を決めたとされます。ウィキペディアでは「徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した」とあります。家康に南朝を立てて生き残る戦略を提唱したのは天海であった可能性は高いです。
いずれ改めて取り上げますが、日本中心のハルマゲドン・NWO計画の書となっているのが、大本教系の岡本天明が自動書記で綴った「日月神示」です。この日月神示を降ろした霊が天海であると竹下さんが明かされています。
要は天海はミトラ・マイトレーヤたちのホワイト・ロッジのメンバーであり、彼らの計画に基づいて徳川を動かしてきたということでしょう。天海は家康、秀忠、家光という徳川三代のブレーンでした。
イギリス東インド会社アメリカ支店の襲来
徳川家が匿っていた南朝天皇の筋の玉は熊沢天皇でした。ただし、自身の生き残りのため、もしくは天下取りのために玉を隠し持っていたのは徳川だけではなく、他の大大名にもいたのです。
彼らも戦国時代を生き残ってきた知恵を有していたのです。幕末から明治、大正、昭和の独自の歴史観(落合史観)を展開している落合莞爾氏は次のように見ているようです。
大室寅之助(編集者註:正しくは「寅之祐」)と似た事例はこの他にもあり、熊沢天皇(水戸藩)、小野寺天皇(仙台藩)、三浦天皇(井伊藩)、井口天皇(紀州藩)、朝里天皇(紀州藩)などを、各地の雄藩が天下を取った時に担ぎ上げる“隠し玉”として匿っていました(“後南朝七家”)。
(ブログ「誰も語れなかった驚愕の日本史」)
冒頭に出てくる大室寅之祐こそが、ネット世界ではほぼ常識になっている「明治天皇すり替え問題」で、睦仁親王からすり替わって明治天皇となったとされる本人です。
大室寅之祐自身は養子であり大室家の血統は継いでいないのですが、大室家は南朝天皇の血統として西国の大大名大内氏の時代から長州で匿われていたのです。大内氏は百済の聖明王の子孫と自称し、朝鮮、中国といった東アジアとの交易交流を握っていた点は留意が必要かも知れません。
さて、家康が懸念していた「徳川幕府が時代の要請にあわなくなった」事態が到来したようです。ペリーの東インド艦隊の襲来です。イギリス東インド会社アメリカ支店の襲来です。バックには黒い貴族が、イギリス女王が、ロスチャイルドがいます。
ペリーの襲来自体は江戸幕府はよく分かっていました。オランダ東インド会社から情報を得ていたのです。そして英国(本当はイギリス東インド会社)によってアジアの超大国インドが、中国が完全に蹂躙されていたことも。
分かってはいたが、いやむしろ分かっているからこそ、江戸幕府はこの事態に対処するのに苦渋したでしょう。
ペリーはインドと中国の例を挙げて脅迫・恐喝、幕府はこれに屈せざるを得なかったのです。幕藩体制下の武力では外国艦隊に太刀打ちできないのは明白だったのです。
1854年に日米和親条約に引き続き日英和親条約も結ばれ、1858年に日米修好通商条約が結ばれます。この時交渉に当たったのが老中堀田正睦、「正睦は孝明天皇の勅許を得て世論を納得させた上での通商条約締結を企図した。 」(ウィキペディア「日米修好通商条約」)とあります。
堀田正睦
Wikimedia_Commons [Public Domain]
これは前代未聞の異例なことだったのです、それまで幕府は朝廷には全て事後承諾で勅許を求めることなど無かったのです。このあたりで尋常ならざることが進展していたはずです。
日英修好商条約とその意味 〜ガゼット紙(英国官報)の情報
1858年には日米修好通商条約だけではなく、実は砲艦外交による脅迫で、日本は日英修好通商条約をも結ばされています。このことは歴史としてスポットが当たることはないのですが、ウィキペディアの「ジェイムズ・ブルース」の記事に以下の記述があります。
1857年には特命全権使節として中国へ派遣され、アロー戦争で英軍を指揮して清軍を撃破し、1858年に天津へ進撃して天津条約を締結。その直後に日本にも軍艦を率いて現れ日英修好通商条約を締結した。
日英修好通商条約は歴史の舞台から隠されており、隠されているということは、日米修好通商条約以上にこちらが重大だと考えたほうがよいでしょうが、それはとりあえずさておき、日米修好通商条約に際し、幕府が天皇に勅許を求める行動はこれまた前代未聞の副作用を生みます。
「中山忠能・岩倉具視ら中級・下級公家88人が抗議の座り込みを行う(廷臣八十八卿列参事件)など攘夷派の少壮公家が抵抗した」という事件です。この抗議の座り込みを行う中級・下級公家の行為は「先祖は御所のウォーリアーズ」さんが述べられていますが「ありえない」行動だったのです。
この1858年の春には日米修好通商条約、夏には日英修好通商条約が結ばれ、これらに関し幕府と朝廷側双方が前代未聞の行動を取ったのですが、本当はどのような事態が?何があったのか?
「本物黒酒」さんのツイートに以下の情報が今年6月に挙げられました。
日本初公開第一級史料
— 本物黒酒 (@honest_kuroki) 2019年6月28日
日本が英領である証拠➡1874年8月11日英国官報「英国女王陛下は、«中略»と日本の帝の領土における権限と管轄権を過去も現在も持っている」(Her Majesty has had and now has power and jurisdiction in... and in the dominions of the Mikado of Japan) https://t.co/1w4CXqgW4K pic.twitter.com/XQDgGwfbLu
この情報は、ガゼット紙という英国の官報、つまり公的情報です。そうである以上はこちらが否定しようがありません。
英国女王が「日本の帝の領土における権限と管轄権を過去も現在も持っている」。これは日本が英領になったということでしょう。それはいつか? 1858年夏の日英修好通商条約がそれだとすれば辻褄があいます。
水面下にあったこの日本が英領にされる話、これはさすがに幕府だけでは了承できません。幕府と朝廷双方の異様な行動の裏には日米修好通商条約だけでなく、英領日本の情報が届いていたのでは?とも思えます。
そして私自身は英領日本の情報は当初ショックでしたが「なるほど」と納得できもします。英国女王とはイギリス東インド会社の代表です。300人委員会の長です。日本は英国という国家というよりは、300人委員会の管轄となったということなら自然な流れでもあるからです。
三百人委員会=オリンピアンズ(オリュンポス十二神)
— ken (@kenkatap) 2014年5月21日
【日本プロファイル研究所 http://t.co/vHnXodQVIS
▼1727年、東インド会社300人会議を元に、英貴族設立
▼フリーメイソン第33階級、最高大総監
▼33位、森喜朗
▼32位、安倍
▼30位、C・ケネディー
この乖離は、3万人は厚生省で自殺と確定された数字、しかし何で亡くなったか不明の変死者が毎年約15万人いるところにあります。変死者のその半数を自殺とカウントすると11万人の数字になるのです。付け加えると日本では毎年約8万人の行方不明者が発生しているようです。いずれも異様な数字です。
更に深刻なのは、この少子化の現状で未成年者の自殺率が毎年上昇していることです。文字通りに「生命」が、「未来」がこの日本で奪われているのです。これが現実です。奪われるということは奪っている人間がいるのです。
先日、残念ながら日米貿易協定の名の不平等条約の日米FTAが成立しました。日本人の生命・財産・健康をグローバル企業に差し出す条約です。奪っているのはグローバル企業のオーナー、つまり大銀行のオーナーであるのは明瞭でしょう。
そしてその一般日本人と国際銀行家の間にあって、日本人の生命・財産・健康をせっせと差し出し、そのおこぼれで肥太ろうとするのがアベシでしょう。
つくづく、日本は属国というか奴隷扱いされいるとも感じますが、これはどのように始まったのか?
今回は、私自身は全く準備不足ながら(日本編)に向かうことになった大きな要因である「英領日本」にまで触れたいと考えています。