ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第10話 ― 英領中国に

 「英領日本」、これは日本人には受け入れがたいものでしょう。しかし、中国がイギリスの植民地であったと言えばいかがでしょうか?
 インドは英国女王がインド皇帝になっていますから、表向きにもはっきりと英領でした。中国は表向きその全土は英領とはなっていません。しかしアヘン戦争等で敗戦し、散々蹂躙され、収奪され、主権を奪われているので、実質的にはイギリスなどの植民地であったことには否定されないででしょう。
 中国とは異なるとはいえ日本も同じような部分があり、日英修好通商条約が英領日本に当たる条約になっていると思っています。
 「本物黒酒」さんが提示されたそれを示す資料、1874年8月11日英国官報「英国女王陛下は、«中略»と日本の帝の領土における権限と管轄権を過去も現在も持っている」
 この «中略» 部分ですが、英国官報のガゼット紙の該当部分「Mikado of japan」の前に「Enperor of China」とあります。つまり正式には「英国女王陛下は、中国皇帝と日本の帝の領土における権限と管轄権を過去も現在も持っている」となるでしょう。
 1858年の日英修好通商条約締結の直前に、清国がイギリス側と締結させられた条約があります。天津条約です。英側からすれば天津条約と日英修好通商条約は、連動というかセットになっているのでしょう。別名「第2次アヘン戦争」ともいわれる英側から仕掛けられたアロー戦争によって天津条約が結ばれているのです。
 アロー戦争でイギリス軍を率いて天津条約を結ばせたのがジェイムズ・ブルース(エルギン伯爵)です。ジェイムズ・ブルースがその直後に軍艦を率いて江戸にやってきて、日英修好通商条約を結ばせているのです。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 明治編) ― 第10話 ― 英領中国に


仕掛けられた「第2次アヘン戦争」〜不法でっち上げのアロー号事件


すでにアヘン貿易で中国から富を収奪していたイギリス東インド会社(後の300人委員会)は、1839年に勃発させたアヘン戦争にて中国を蹂躙し、アヘン貿易等にてさらなる暴利を貪っていきます。アヘン戦争で香港島を英国女王に割譲させてもいます。

中国におけるインド産アヘンの輸入量の推移
Author:Philg88 [CC BY]

編集者註:グラフでは1835年以降アヘンの輸入量が急増。それに伴い、清とイギリスの間で1840年から2年間にわたり行われたのがアヘン戦争。
1856年から1860年にかけて、再び清とイギリス・フランス連合軍との間でアロー戦争(第2次アヘン戦争)が勃発。1860年の北京条約締結以降、一層アヘンの輸入量が増加。

アヘン戦争の主体者は大英帝国ではなく、悪魔崇拝海賊会社イギリス東インド会社のオーナーたちです。イギリス東インド会社のオーナー ≒イングランド銀行のオーナーでもあります。

幾度も見てきたように、1600年台をかけて英国は悪魔崇拝の海賊団たちに乗っ取られています。英国という国家の上に悪魔崇拝の海賊団が位置していて、彼らが世界中を植民地支配してきて、現地人の生き血を貪ってきたのです。

pixabay [CC0]
pixabay [CC0]
Wikimedia Commons [Public Domain]

香港島が英国女王に割譲されていますが、英国女王は悪魔崇拝海賊団の仲間であり、彼らの看板としての代表なのです。従って香港島の割譲にしても、英国女王を代表として悪魔崇拝海賊団が香港島を収奪しているのです。悪魔崇拝海賊団の大ボスの一人がロスチャイルドということでもあります。

アヘン戦争からの暴利、しかし彼らはこの莫大な収奪にも満足できていなかったのです。彼らは中国に当時の清朝に武力行使を仕掛ける機会を常に窺っていました。戦争に持ちこみ、さらなる収奪を加算できる条約締結を目論んでいたのです。そのような状況下に都合よく?中国で1851年大農民反乱「太平天国の乱」が起きます。これで1853年には南京を占領するなど中国内での独立国家を設立したのです。

この非常事態の対応に苦悶する清朝、イギリス側はこれを武力行使の絶好の好機と捕らえます。1856年にでっち上げの言いがかりのいちゃもんにて戦争の口実を作り上げます。これがアロー号事件です。アロー号事件を口実にイギリス側が清朝に卑劣に仕掛けた戦争がアロー戦争です。

アロー戦争とは別名「第2次アヘン戦争」です。イギリス軍を率いる司令官はジェイムズ・ブルース(エルギン伯爵)でした。またイギリス側はフランスのナポレオン3世に共同出兵を求め、英仏連合軍として清国に襲いかかり蹂躙したのです。

ジェイムズ・ブルース(第8代エルギン伯爵)
Wikimedia Commons [Public Domain]

なお、1858年に日英修好通商条約の前に日米修好通商条約が締結させられていますが、交渉に当たった米側のタウンゼンド・ハリスが江戸幕府を強請るネタに用いたのもこのアロー戦争だったのです。英国、米国、フランスなど国名は違いますがみんな「お仲間」と見たほうが早いでしょう。海賊団の仲間です。

さて、ジェイムズ・ブルースらが率いる連合軍は1857年末には広州を占領し、この地方の総督兼皇帝の特命大臣を捕縛します。そして翌1858年、再び北上して天津を占領し、清国に天津条約を締結させたのです。この締結直後にジェイムズ・ブルースが返す刀で艦隊を率いて江戸に襲来し、日本側に締結させた条約が日英修好通商条約だったのです。

江戸幕府と条約交渉を行うエルギン伯
Wikimedia Commons [Public Domain]

天津条約の内容 〜日英修好通商条約の先取り


ジェイムズ・ブルースと調印した日英修好通商条約についての詳細情報はほぼ皆無なのですが、唯一weblio辞書の「日英修好通商条約とは何?」にかなり詳しい情報が記されています。これによると以下のようあります。

日英条約は全二四条で、江戸での交渉以前に下田でハリスから日米条約を示されていたので、その諸規定を多くの場合言葉づかいまでも踏襲した。それゆえ日米条約と大きな差異はないが、領事裁判権はより精密広範で、天津条約のそれとまったく同一である。

また日米条約では最恵国条項を欠いていたが、日英条約では明記しており、これも天津条約と同文である。これらの条項に英国の当初の意図が反映され、これ以前の三か国との条約に比較して不平等条約としての性格がさらに強くなった。貿易条項では日米条約に比べて開港場での自由貿易を明確にうたっており、これもいっそう完全なものになった。

要は、日英修好通商条約は日米修好通商条約よりなお一層日本側に不都合な不平等条約であること、また天津条約とかなり重なる部分があるということです。

記事には「英本国は対日条約について、軍事的圧力下で締結した天津条約と同一原則を適用しようと意図していた。」ともあります。つまり、天津条約の内容を見れば日英修好通商条約もその概略も見えてきそうです。

天津条約の締結の様子
Wikimedia Commons [Public Domain]

天津条約についてウィキペディア記事では「この条約は広範囲な外国の特権を規定しており、それ以後の不平等条約の根幹となった。」とした上でそ の主な内容は次の通りとしています。

1. 軍事費の賠償(イギリスに対し400万両、フランスに対し200万両の銀)
2. 外交官の北京駐在
3. 外国人の中国での旅行と貿易の自由、治外法権
4. 外国艦船の揚子江通行の権利保障
5. キリスト教布教の自由と宣教師の保護
6. 牛荘(満州)、登州(山東)、漢口(長江沿岸)、九江(長江沿岸)、鎮江(長江沿岸)、台南(台湾)、淡水(台湾)、潮州(広東省東部、後に同地方の汕頭に変更)、瓊州(海南島)、南京(長江沿岸)の10港を開港
7. 公文書における西洋官吏に対して「夷」(蛮族を指す)の文字を使用しない

この条約内容、清朝には屈辱以外ありません。賠償金の支払いなどは逆でしょう。アロー戦争は不法な捏造の言いがかりで、イギリス海賊団が一方的に仕掛け、さんざん清国を蹂躙したのですから、公平に見れば海賊団のほうが清朝に賠償金を支払わなくてはいけません。

そしてこの条約はここには記されていませんが、中国全土でのアヘン貿易を公的合法としてもいます。それほどの一方的収奪条約なのですが、一番のキモになるのは「外交官の北京駐在」となるでしょう。

北京に入城するエルギン伯
Wikimedia Commons [Public Domain]


主権を奪われた清朝 〜帝都に外交官が常駐の意味


外国の軍隊がその国に駐留しているならば、その国は外国に軍事的に占領されている植民地であることを指します。現在の日本ももちろこれに該当します。天津条約の「外交官の北京駐在」とは、中国皇帝がイギリス側によってその喉元に匕首(あいくち)を突きつけられた状態になることを意味します。

北京は皇帝の住まう帝都です。中国の多くの港に外国船が集結し、外国艦船が自由に揚子江を往来できる状況で帝都に外国官が常駐するならば、悪魔崇拝海賊団の意図通りに、外国勢力がいつでも自由に中国皇帝に軍事行動に打って出ることができます。中国皇帝は自分の喉元に突きつけられた匕首で、外国勢力の注文通りに動かざるを得なくなります。

これは傀儡政権であり、外国勢力の直接支配ではなく間接支配の方法です。日本でも日英修好通商条約にて首都の江戸にイギリス外交官が常駐できるようになり、「江戸・大阪(両都)の開市と新潟・兵庫(両港)の開港を約束していた」(ウィキペディア「両都両港開市開港延期問題」)のです。

これは清朝と同様に江戸の将軍、そして京都の天皇の喉元に匕首を突きつけられる事態です。それが故に朝廷側はこの幕府の約束に猛反対し「両都両港開市開港」は延期となったのです。日英修好通商条約は天皇の勅許を得ていませんでした。しかし条約が調印されたことも事実でした。

中国の方も天津条約の内容は受け入れがたいもので、『世界史の窓』の「天津条約(1858年)」には以下のようにあります。

「しかし清朝内部には条約の批准に消極的な意見が強く、特に北京への外国使節の駐在は、皇帝の居城近くに夷狄が入ることになるとして反発した。清朝政府はその声に押され、英仏使節の北京入りを拒否した。

そのような清に圧力をかけるため、イギリス艦隊は天津の外港である大沽で示威行動を行った。反発した清側が発砲し、戦闘が再開された。英仏は報復と称して1860年秋に北京を攻撃し、円明園を破壊するなどの暴行を加え、その結果、同年10月に天津条約の批准書交換がようやく実行された。

さらに英仏両国は天津条約に加え、より有利な北京条約を締結することに成功する。天津条約が批准成立したことによって、外国公使(外交官)が北京に駐在することとなったため、翌1861年に清朝政府ではじめて外交を管掌する官庁として総理各国事務衙門が設けられた。」

アロー戦争で清朝は屈辱の「天津条約」を締結されます。そして清朝のそれへの反発でアロー戦争は再開され、清朝は更に破壊され、その主権を奪われたのです。

1880年頃の清のアヘン中毒者
Wikimedia Commons [Public Domain]


Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

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