ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第54話 ― 占領下の“独立日本”2

 「昭和の妖怪」岸信介。巨大な存在に映るのに掴みどころがなく得体がしれない、それでアベシの祖父の彼はこのように称されていたのでしょう。言い得て妙だと思います。
 田布施族、李氏朝鮮の李一族、表明治天皇の大室寅之祐の縁戚、東大法学部トップの秀才、満州国の設計者にて実質の行政トップとして満州国を運営、アヘン王・里見甫の人脈、金脈を引き継いだ人物、太平洋戦争開戦時の東條内閣の重要閣僚、巣鴨プリズン収監のA級戦犯、裏天皇・堀川辰吉郎の直接の部下、CIA工作員、自民党の立ち上げ人、日本国首相、自民党CIA資金の窓口、統一教会の文鮮明と笹川良一そして児玉誉士夫と共同での国際勝共連合の立ち上げ人、これら全てが岸信介という一人の人物の属性となっているのです。「大妖怪」と表現してもいいでしょう。
 1957年に日本国首相に就任した岸信介はその政権の仕事として、国民健康保険法の改正による国民皆保険、最低賃金法と国民年金法の制定を行っています。意外かもしれませんが、岸政権は日本の社会保障に着手し、国民生活の安定に大きく寄与してもいるのです。
 この岸政権がその始まりから本腰を入れた仕事が、安保条約の全面見直し・改定でした。岸信介は米国による日本の軍事占領を再度確定させた日米行政協定の改定をも見越し、「新安保条約」構想を打ち出していきます。ところがここに、岸政権に対し日本史上まれに見る激しい安保闘争が巻き上がり、日本はその大渦の中に飲み込まれていくのです。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(日本 昭和編) ― 第54話 ― 占領下の“独立日本”2

60年安保闘争の通説


今日にまで至る戦後日本における史上最大の激しいデモの抗争となったのが、「60年安保闘争」と伝えられています。この「60年安保闘争」の主人公と言うべきか、悲劇のヒロインとなったのが、東大女子学生の樺美智子さんという女性です。樺美智子さんはこの安保闘争デモで、警察隊と衝突の中で死亡。ただし、樺美智子さんの死については、転倒が原因の圧死説や機動隊の暴行による死亡説などがありますが、死因は確定されていません。

ともあれ、この樺美智子さんの死が、当時の岸政権への強い反発の激甚な運動の盛り上がりとなって、岸信介は首相から退陣することになります。


岸政権が米国と結ぶ「新安保条約」とそれに関わる「60年安保闘争」、この様相がいかに伝えられ、日本の民衆に認識されているのかは、概ねとしては『47news』の2020/02/26記事の以下のようになると思われます。

 岸信介が首相に就任したのは1957年2月。3年後には民意を踏みにじって米国と強引に新安保条約を結ぶことになる。これに反対する闘争の中で、伝説的人物として語られる樺(かんば)美智子が、東大に入学するのは57年4月。その月のうちに「原水爆実験反対」のデモに参加している。
 岸内閣が退陣に追い込まれたのは3年半後の60年7月であり、樺美智子が22年の生涯を閉じるのは60年6月だった。現実には決して交わることのなかった2人だが、登場と退場の符節は一致する。痛み分けとするには、断たれた彼女の未来があまりにも惜しい。

記事には、「民意を踏みにじって米国と強引に新安保条約を結ぶ」のが岸政権ということになっています。この岸政権の新安保条約を破棄させようとの抗争が「60年安保闘争」、これが日本における通常の認識、通説ということになっているようです。

…しかし違和感があります。新安保条約が民意を踏みにじったものなのか? これが大いに疑問なのです。

岸政権が「米国と強引に新安保条約を結ぶ」、これは事実です。そして日本の民衆が、岸政権への懸念と危惧を抱いていたのも事実でしょう。先の記事の続きには「岸信介のほうは首相就任後まもなく、自衛のための核兵器保有は憲法解釈上、禁じられていないという趣旨の答弁で物議をかもす。」とあります。これでは岸政権へ米国の属国としての帝国主義、戦争国家に日本が変じることへの危惧を持って当然でしょう。ましてや、岸信介がCIA工作員であったことは知らなくても、岸信介が東條英機内閣の太平洋戦争開戦時の重要閣僚で、A級戦犯被疑者であったことは多くの人々も知っていたことですから。

しかし、それでもなお、新安保条約が民意を踏みにじったものなのか?は大いに疑問です。そして「60年安保闘争」も、本当に新安保条約に反対する運動闘争であったのか?も大いに疑問なのです。


新安保反対の闘争ではなかった


先の記事では、安保闘争について以下のように記しています。

 安保反対運動をリードしたのは、社会党や総評を中心とする安保条約改定阻止国民会議(国民会議)だった。しかし、その傘下団体である全日本学生自治会総連合(全学連)の主導権を握ったのは、共産党を離党した学生らによって58年11月に結成された前衛党・共産主義者同盟(ブント)である。樺美智子も早い時期からブントに加盟し、書記局を支えている。 
 ブントは日本帝国主義打倒を掲げた。安保条約を葬ることを目標とし、より先鋭な運動方針を打ち出す。これに対して共産党系の学生らは、全学連の反主流派として、ゆるやかなデモ行進から流れ解散で抗議の意志を示した。

安保闘争をリードしたのは社会党と総評、特に重要なのが、全学連を率いた共産党を離脱した前衛党・共産主義者同盟(ブント)とのことで、このブントに樺美智子さんも加盟し、運動を支えていた模様です。この総評やブントがリードする安保闘争は、規模と内容において非常に激しく大きなもので、百万人を超える国民がデモに参加したとのことです。

✅ 7:23〜:樺美智子さんが死亡する原因となった警察隊と学生の乱闘の様子(1960年6月15日)

しかし、そもそも新安保に反対するならば、もともとの吉田茂が調印した1951年の安保条約と、1952年に締結された行政協定のことを知り理解していなければいけません。この上で旧安保条約と比較して新安保条約がより一層に酷い内容だ、こう判断することで安保反対闘争を激化していくのなら分かります。これは理性的で能動としての活動になります。

しかし、旧安保条約は「闇の条約」であって、この内容を知る日本国民は皆無に近かったでしょう。それはブントの学生たちも同様であり、特に彼らにしても1952年に締結された行政協定の内容を理解していたとは思えないのです。

日米安全保障条約に調印する吉田茂首相
Wikimedia Commons [Public Domain]

『戦後史の正体』p201には次のようにあります。

全学連運動の中心人物であった西部邁は『六〇年安保−センチメンタル・ジャーニー』(文藝春秋)で次のように書いています。「総じていえば 六〇年安保闘争は安保反対の闘争などではなかった。闘争参加者のほとんどが国際政治および国際軍事に無知であり無関心ですらあった」

この西部邁氏の述懐は事実だったでしょう。1951年の安保条約、ましてや1952年の日米行政協定の内容など日本人には知らされていないのですから。

そして、留意すべきは資金面です。大掛かりなデモを動員するには大きな資金も必要です。全学連を率いたブントなどはお金など持っていません。彼らは安保闘争を展開するのに、資金提供を受けていたのです。『戦後史の正体』p202~204には、右翼活動家の田中清玄を通じてなどとして、財界からブントに資金提供されている様子が記されています。ブントが全学連を率いて安保闘争をリードできたのは、財界から資金提供を受けていたからになるでしょう。ここには、財界の資金注入の目的は「打倒岸」だと記されています。

整理しますと、「60年安保闘争」とは新安保反対の能動的国民運動に見せられていますが、新安保反対ではなく打倒岸政権のための運動であり、資金注入を受けたいわば「踊らされた闘争」でもあったのです。


CIAに倒された岸政権


「打倒岸」で安保闘争を煽り民衆を踊らせたのは、財界の資金注入の他の大きな一つには、当時の新聞報道があります。彼らは新安保条約の内容解説は省くも、その締結への危惧を謳いつつ「打倒岸」への世論を作っていきます。ここで「打倒岸」の 決定打となったのが、樺美智子さんの死去だったのです。


彼女の死は1960年6月15日、「その3日後の18日には、日本政治史上最大のデモが国会・首相官邸付近をとりまきます。総数50万人の労働者が参加し、それとほぼ同数の市民団体が加わっていました。学生だけでも5万人を超えていました。」(『戦後史の正体』p200)という様相。

国会を取り囲んだデモ隊(1960年6月18日)
Wikimedia Commons [Public Domain]

新安保条約は6月19日に成立、6月23日には岸首相は辞意を表明。新安保条約は成立し、その上で岸政権は打倒されたことになります。

さて、「打倒岸」で大きな役割を果たしていたのが財界であり、メディアでもあったのですが、彼らがそれぞれ単独で「打倒岸」に動くはずがありません。岸政権以上の大きな権力の意向なしには、彼らがそのように動けるはずもないのです。当然ながら、財界やメディアの背後にあって彼らを動かしたのはCIAです。『戦後史の正体』p217〜218には、1960年夏の国家安全保障会議での当時のアイゼンハワー大統領やアレン・ダレスCIA長官の発言が記載されています。そこに次の発言があります。

「6月8日の国家安全保障会議でCIA長官は『日本のために望ましいのは岸が辞任し、できれば吉田に代わることだ』とのべた」

「CIAは自民党に対する財政的影響力を利用して、早急に岸をより穏便な保守党の政治家に代えようとした」

そして、6月23日の岸首相の辞意表明を受けて7月19日に池田内閣の誕生、これは米国の意向を踏まえて行われたことだと指摘されています。

岸信介はCIA工作員であり、自民党とCIAをつなぐ窓口であり、CIAからの資金提供担当者でした。CIAが望むことによって岸政権は誕生してもいます。

その岸信介をなぜCIAは打倒に動いたのか?

あにはからんや首相に就任した岸信介は早々に対米自主路線の具現化に動いていったのです。安保条約見直し・改定とは、その動きだったのです。

『戦後史の正体』p188に次の指摘があります。

首相就任2ヶ月後の1957年4月19日には、すでに参議院内閣委員会で「安保条約、行政協定は全面的に改定すべき時代に来ている」と答えています。ここで岸が安保条約というだけでなく、わざわざ行政協定の改定にも言及していることに注目してください。


Writer

seiryuu様プロフィール

seiryuu

・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった。)
・基本、暇人。(したくないことはしない。)
・特徴、酒飲み。アルコールには強い。
・歯が32本全て生えそろっている(親不知全て)原始人並み。

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