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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝70 ― ケネディ大統領暗殺前夜4

 日本が独立国家でなくなったのが1858年、明治維新の10年前でした。第2次アヘン戦争とも言われるアロー戦争で、イギリス側が中国を蹂躙した返す刀で江戸に向かい、「日英修好通商講和条約」を結ばせ日本は英領となったのです。実態的には、日本はイギリス東インド会社のシマとさせられたということで、以来170年近くになります。最近はようやく自民党と統一教会とのただならぬ関係が認識され、日本民衆も日本が傀儡国家であったことの気づきが広がりつつあるでしょう。
 戦後の日本はCIAの支配下にあってアメリカの姿が前面に押し出され、私たちは日本を支配している者の姿がいよいよ見えないようにされていました。実はCIAの支配下にあったのは日本だけでなく、米国もそうだったのです。CIAはイギリス情報局の支配の道具だったのです。
 米国は、イギリス東インド会社からの支配から自由になるべく、革命(独立)戦争を1775年に起こすところからその歴史が始まっています。その米国は1913年に独立を失い、傀儡国家にさせられてしまいます。1913年にFRB法にサインし、憲法違反の第1次世界大戦に米国を参戦させたウッドロー・ウィルソン大統領以来、米国大統領はロスチャイルド一族らの操り人形となっていました。その中、再び米国を独立国家にすべく動いていったのがケネディ大統領だといえるでしょうが、ケネディ大統領は暗殺され、米国はやはり“闇の権力”の道具に…。
 国家が独立するには、その民衆が自分達の現実をあるがままに認識していくことが肝要なのでしょう。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝70 ― ケネディ大統領暗殺前夜4

「暗殺局」パーミンデクスの創設


前回、CIAもモサドも、MI6のサー・ウィリアム・スティーブンソンの手によって創設や再編集されたイギリス情報局の別働隊であったことを見ました。ド・ゴール大統領とケネディ大統領の暗殺の実行本部となることになったPERMINDEX(パーミンデクス)も、MI6ウィリアム・スティーブンソンの采配によって創設されたようです。

ジョン・コールマン博士は『新版 300人委員会』のp215に「ケネディを抹殺する仕事を与えられたのはイギリス超秘密情報機関MI6の元北米局長サー・ウィリアム・スティーブンソンだ。」と指摘した上で、続くp217〜219に以下のように記しています。

ケネディ暗殺を実行するにあたり、スティーブンソンはOSS時代の右腕で、自分と同じカナダ人のルイス・モーティマー・ブルームフィールド少佐という人物を起用した。ブルームフィールドは第2次世界大戦が終結するまで、これまた同姓のブルームフィールドに任命されて、防諜活動を行うFBI第5課を運営する任務に就いていた。(中略)スティーブンソンとブルームフィールドは互いに密接に協力しあいながら、ケネディ暗殺とその後の隠蔽工作を綿密に計画し、実行に移した。(中略)1956年、ブルームフィールドはモントリオールに再び配置され、秘密工作をになう新しい機関を立ち上げた。組織の名称は、常設産業提示社(パーマネント・インダストリアル・エキシビション=PERMINDEX)だ。ブルームフィールドはPERMINDEXをニューオーリンズのワールド・トレード・センターに設立し、同センターを所有・運営するクレイ・ショーを同社の役員にした。

PERMINDEX(パーミンデクス)を創設し、その理事長であったのがルイス・モーティマー・ブルームフィールドであったことは、『ユダヤの告白』『ケネディとユダヤの秘密戦争』の両方でも指摘され、その詳しい情報が記載されています。

ルイス・ブルームフィールド

ユダヤの告白』では、1982年初春のイスラエルによるレバノン侵攻の直前、この計画を実行に移すための一連の秘密会議が開催され、そのメンバーとしてアリエル・シャロンやヘンリー・A・キッシンジャーらと共にルイス・モーティマー・ブルームフィールドの名を挙げ、彼を以下のように紹介しています。

ブロンフマン一家の利権を代表してこの会議に出席したモントリオールの弁護士。

第二次世界大戦中は極秘の英国特殊工作部隊(SOE)のスパイで、戦後設立された北米におけるイギリスの情報工作用出先機関ブリティッシュ・アメリカン・カナディアン・コーポレーションのパートナー。彼は一九五〇年代後半にパーミンデックス(「パーマネント・インダストリアル・エクスポジション(常設産業博覧会)」)・コーポレーションを設立。同社はジョン・F・ケネディ大統領暗殺と、シャルル・ドゴール仏大統領暗殺未遂の両事件に関与したとして非難された。

彼はエドガー・ブロンフマンの弁護士であるほか、国際信用銀行のオーナーであるタイバー・ローゼンバームとも親しい関係にあり、またパーミンデックス社の取締役会を通してユダヤ・ギャングの弁護士ロイ・コーンともつながっていた。


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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝69 ― ケネディ大統領暗殺前夜3

 『宗教学講座 中級コース 第69回』の目次の文中に「日本は戦後主権がなく、CIAによって支配されてきた国家である。」とあり、このことは日本や世界の動きに意識のある人々には常識でしょう。ただし、問題はこのCIAが実際には「何の組織か?」です。
 CIAはアメリカ中央情報局(Central Intelligence Agency)、ウィキペディアの同記事では、「アメリカ合衆国の対外情報機関」と規定されています。従って、CIAの支配下にある日本は米国の属領との認識となり、私もそうでした。しかし、この認識は間違っていなくとも不正確です。正確には「CIAは合衆国の機関ではなく、米国自体がCIAを通じて操作をされている」です。
 CIAの兄弟機関と言うべきがモサドです。ジョン・コールマン博士は以下の面白い指摘を。この記述の「アメリカ」を「日本」と読み替えれば、未だに続いている日本の現状が浮き彫りになるのが分るでしょう。
モサドはニセ情報を流すのがうまい。アメリカ「市場」にエサとして流し込まれたニセ情報の量はあきれるほどだが、もっとあきれるのは、そのすべてがまったく鵜呑みにされてしまっていることだ。
(『99年度版 300人委員会』p292)
 日本を支配しているのはCIAであり、モサドでもあります。また、CIAとモサドを操作する機関があります。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝69 ― ケネディ大統領暗殺前夜3

MI6サー・ウィリアム・スティーブンソン


ケネディ大統領暗殺とド・ゴール大統領暗殺問題の中核にあるのがPERMINDEX(パーミンデクス)です。端的には、ダミー国際企業のPERMINDEX(パーミンデクス)がケネディ大統領暗殺とド・ゴール大統領暗殺の実行本部となっていたのです。ジョン・コールマン博士の記述からは、パーミンデクスは「暗殺局」であることが読み取れ、そこにはイギリス情報局とモサドとCIAが入り込んでいるのが分かりました。

パーミンデクスを作った大元はイギリス情報局だったのですが、これらを理解するにはどうしても英国情報局とCIA、英国情報局とモサドとの関係を把握し、CIAとモサドの実体を知っておく必要があります。そして、この関係を知る上で外せない重要人物がいます。MI6のサー・ウィリアム・スティーブンソンがそうです。

編集者註:ジェームズ・ボンドのインスピレーションを与えた実在の人物として、ウィリアム・スティーブンソン卿を紹介しているCIA

ちなみに、イギリス情報局とは英国の情報局とは言えません。イギリス情報局に属し、その最上部に位置する最精鋭部隊はMI6、しかし、MI6は公的には存在しない部隊だからです。自身がMI6に所属の諜報員であったコールマン博士は次のように言及しています。

MI6の起源は、女王エリザベス1世の卑劣な裏活動の黒幕だったサー・フランシス・ウォルシンガムの頃まで遡る。以来、300年以上にわたって他の情報機関には真似すらできないような記録を打ち立ててきた。(中略)...もし公にされるようなことになれば、もっとも見識のある人々でさえ腰を抜かすようなもので、だからこそMI6は300人委員会でも最高位の情報機関として位置づけられているのだ。MI6は公式には存在しない。予算は女王の財布と「個人資産」から出されている...(以下略)

MI6は、300人委員会および300人委員会の長である英国女王の私兵で、卓越した情報組織ということです。このMI6のトップ諜報員であるサー・ウィリアム・スティーブンソンについて、ウィキペディア英語版記事翻訳では、以下のようにあります。彼が『007』のジェームズ・ボンドのモデルだったようです。

ウィリアム・サミュエル・スティーブンソン卿 CC MC DFC(1897年1月23日– 1989年1月31日)は、ウィリアム・サミュエル・クローストン・スタンガーとして生まれ、カナダの兵士、戦闘機のパイロット、ビジネスマン、スパイマスターであり、英国安全保障調整局(BSC)の上級代表を務めました。第二次世界大戦中の西側の同盟国。彼は戦時中のインテリジェンスコードネームであるイントレピッドで最もよく知られています。多くの人が彼をジェームズ・ボンドの現実のインスピレーションの1つだと考えています。イアン・フレミング 彼自身はかつて、「ジェームズ・ボンドは真のスパイの非常にロマンチックなバージョンです。本物は...ウィリアム・スティーブンソンです。」と書いたことがあります。
英国安全保障調整(BSC)の責任者として、スティーブンソンは英国の科学的秘密をフランクリンD.ルーズベルトに引き渡し、アメリカの秘密をウィンストンチャーチルに中継しました。さらに、スティーブンソンは、アメリカの世論を孤立主義的な立場から、第二次世界大戦へのアメリカの参入に関する支持的な傾向に変えたと信じられている。


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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝68 ― ケネディ大統領暗殺前夜2

 2017/10/23の竹下さんの記事では、「闇の権力がケネディ大統領をコントロールできなくなり、闇の権力に逆らった大統領がどうなるかという見せしめの意味での公開処刑だった」との見解を示されています。
 全くこの通りでしょうが、ケネディ大統領と同時期に同様に「闇の権力がそのコントロールが不能となり、暗殺司令を発した大統領」がいます。フランスのシャルル・ド・ゴール大統領がその人です。
 ケネディ大統領とド・ゴール大統領の暗殺作戦は、並行したような形で展開されていました。しかし結果としては、ケネディは公開処刑というべき形で暗殺、一方のド・ゴールは数十回にも渡る暗殺攻撃を“奇跡的”に逃れています。
 ケネディとド・ゴールの両者に共通する一つの態度は、当時のアルジェリア独立戦争に関してです。そして、両者の暗殺の中核になるキーワードがあります。PERMINDEX(パーミンデクス)がそれです。PERMINDEX(パーミンデクス)はコードネーム「ジャッカル」とも言えるでしょう。
 パーミンデクスを詳細に記した人物は『300人委員会』のジョン・コールマン博士、『ケネディとユダヤの秘密戦争』のマイケル・C・ハイパーの二人ぐらいでしょう。マイケル・C・ハイパーはどうもその犠牲になった模様でもあります。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝68 ― ケネディ大統領暗殺前夜2

ケネディ暗殺と重なるフランス大統領暗殺問題


「ジャッカルの日」という映画があります。1971年出版のフレデリック・フォーサイスの同名の小説を映画にしたものです。これのウィキペディア記事「作品概要」の冒頭には次のようにあります。

1960年代のフランスを舞台に、シャルル・ド・ゴール大統領暗殺を企てる武装組織「秘密軍事組織(OAS)」が雇ったプロの暗殺者「ジャッカル」と、大統領暗殺を阻止しようとするフランス官憲の追跡を描いたスリラー小説である。

これはこの通りで、この映画は実話に基づいたものです。1960年台、フランスの「秘密軍事組織(OAS)」は、幾度も自国の大統領となったシャルル・ド・ゴールの暗殺作戦を実行しますが、全てが失敗に終わっているのです。

ケネディ大統領の暗殺が1963年であり、ド・ゴールの暗殺問題と時期が重なり、ケネディ暗殺とド・ゴール暗殺問題は実は密接に繋がってもいるのです。

このフランス大統領暗殺問題のもとにあったのが、アルジェリア独立戦争でした。北アフリカに位置する仏領アルジェリアにて独立を求める闘争が勃発、1954年にはアルジェリア戦争にまで発展し、この戦争は泥沼化していきます。

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そのような中でフランスでは、1958年10月にド・ゴールが大統領に就任し、第五共和政が開始されました。ド・ゴールは将軍として第2次世界大戦中はナチスドイツによって敗退したフランス軍をレジスタンス部隊(自由フランス軍)として率いて北アフリカ戦線で戦い、ノルマンディー上陸作戦後は祖国に戻って連合国と共に戦って1944年8月にはパリを開放した人物です。

左からアンリ・ジロー、フランクリン・ルーズベルト、ド・ゴール、ウィンストン・チャーチル(1943年)
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「フランスのアルジェリア」を信じて戦う現地駐留軍やフランス人入植者の末裔コロン、またはピエ・ノワールらの期待を一身に背負って大統領に就任したのがド・ゴールだったのです。しかし一方で、フランス国内では厭戦気分が蔓延し、アルジェリア独立を容認する国民が大多数を占めている現実もありました。

さて、1959年9月、ド・ゴールはアルジェリア人に民族自決を認めると発言したのです。アルジェリア駐留軍や入植者の末裔(コロン)たちにすれば、これは大いなる「裏切り」であり、彼らは大反発し叛乱を起こしていきます。ド・ゴールのウィキペディア記事に次のようにある通りです。

コロンは激しく反発し、1960年1月にアルジェ市でバリゲードの1週間と呼ばれる反乱を起こした。1961年4月にアンドレ・ゼレール、ラウル・サラン、モーリス・シャール、エドモン・ジュオーの4人が反乱し、ド・ゴールが速やかに鎮圧した(将軍達の反乱)。右翼組織OASもテロによりアルジェリア領有の継続を主張したが、1962年にド・ゴールは独立を承認した。ド・ゴールはこの間に度々OASのテロと暗殺の標的となった。

「バリケードの1週間」(1961年)
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しかし、仕掛けたOASの暗殺は全て失敗、OASは弱体化、そのOASが組織外から「ジャッカル」のコードネームで呼ばれる超一流の狙撃手で、要人暗殺もビジネスとするプロの暗殺者を雇う、これが映画のストーリーでした。


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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝64 ― 犯罪シンジケート(総括)

 4/21の竹下さんの記事で、
「ウクライナ危機を利用した新たなゴールドラッシュを掴んだ国防総省の業者たち」として、レイセオンとロッキード・マーティンを挙げています。
とあります。
 ウクライナ危機、それを利して新たなゴールドラッシュを掴んだレイセオンとロッキード・マーティンら軍事企業、この背景にあって莫大な収益を手にしていたのは、情報は出ませんがアイゼンベルグ社ではなかったか?と思います。
 レイセオンとロッキード・マーティンのキーマンは、ブッシュ Jr.政権副大統領ディック・チェイニーです。チェイニー元副大統領はレイセオン社の取締役、その夫人リン・チェイニーは94年から01年までロッキード・マーティン社の重役を務めたようです。
 オルタナティブ通信からの情報では、チェイニーはアイゼンベルグ社の大株主。またショール・アイゼンベルグの遺産相続人と結婚していたマーク・リッチがチェイニーを支配し、「リッチは自分の顧問弁護士ルイス・リビーをチェイニーの主席補佐官とし、24時間体制でチェイニーを監視」ともあります。こういった情報はなかなか裏が取れないのですが、“当たらずといえども遠からず”ではあるでしょう。
 イラン・イラク戦争でイラクを利用していたのは米国でしたが、イラン・イラク戦争を支配していたのはアイゼンベルグでした。そして「イラン・コントラ事件」で明らかなように、アイゼンベルグが米国政府を支配していました。当時はレーガン政権でしたが、イランとコントラの両方の窓口だったのがブッシュ Sr.副大統領であり、アイゼンベルグと最も深く関わったはずです。その後にブッシュ Sr.は91年に湾岸戦争を引き起こしますが、その背後にはアイゼンベルグがあったでしょう。それ以前の段階でも63年のケネディ大統領暗殺で、アイゼンベルグと当時CIA職員ブッシュ Sr.は深く絡んでいるのです。
 ブッシュ親子、ディック・チェイニーらネオコンの背後にアイゼンベルグ一族があるのです。犯罪シンジケートの暴力支配の流れが現在にまで続いているのです。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝64 ― 犯罪シンジケート(総括)

計画に基づく支配体制の完成


1913年末、ロスチャイルドの大番頭であるジェイコブ・シフが中心となる勢力が米国に中央銀行FRBを創設、米国が私人によって金融支配される体制は完成しました。

これに先立ち、すでにロスチャイルドは通信社など情報世界を押さえていました。所有してもいないお金を貸出しで作り出したことにして利息を複利でむしり取る信用創造、この金融はいわば「盗み」であり、それを成立・継続させるには民衆を騙し通す情報統制が必須なのです。

FRB創設以降に情報統制の役割を果たしていくのがADL(ユダヤ名誉毀損防止同盟)であり、このADLもFRB創設の前にやはりジェイコブ・シフらによってブナイ・ブリスの下部機関として創設されています。

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ADLは「いわゆるユダヤ、国際金融」に都合の悪い相手に「反ユダヤ主義」のレッテルを貼り、社会的に抹殺する言論統制の情報支配を実施していくのですが、これの裏には暴力の実力行使の暴力支配があったのでした。米国1900年台に移民貧民街に勃興していたハザール・ユダヤ系とイタリア・シシリー系のギャング団が、1920年台の「禁酒法」施行によって急速にその勢力を大拡大したのです。

ADLはこのギャング団たちを支援育成しながら一体となって活動していき、やがてハザール・ユダヤ系ギャング団たちがイタリア系ギャング団を取り込み「殺人株式会社」を設立、更には1930年代始めに北米のギャング団が統一された「全米犯罪シンジケート」が成立します。

この全米マフィアの統一を完成させたのがマイヤー・ランスキーでした。マイヤー・ランスキーのギャング団は、1920年台には中国の阿片ネットワークともコネクションを築いてもいました。ランスキーの事業パートナーだったのがカナダを根城とするギャング団のブロンフマン一族でもありました。

マイヤー・ランスキー
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サミュエル・ブロンフマン
エドガー・ブロンフマン

「全米犯罪シンジケート」成立によって、北米に金融支配、情報支配、暴力支配並びにそれが継続される体制が完成したと言えるでしょう。

情報支配の側面で付け足すと、情報支配で重要になっていったのが映像であり、それを受け持ったハリウッドもユダヤ系ギャングにより作られたと言えて、映像世界とマフィアは切っても切れない仲なのです。

こうして完成した北米における金融支配、情報支配、暴力支配の全ての元にあったのが、1881年のロシア皇帝暗殺から始まったポグロムからのハザール・ユダヤ人の米国への大量移民です。それに加えるならば、1880年台のイタリア南部からの移民です。イタリア統一から弾かれた南部の人々が米国に大量移民したのです。

1880年台初期からのユダヤ系とイタリア系の大量移民 ➡ ギャング団の派生 ➡ ADLとFRBの成立 ➡ 禁酒法による不法時代 ➡ ギャング団の勢力拡大シンジケート化 ➡ 1930年台初期「全米犯罪シンジケート」成立

この一連の動きが偶発的自然的に成立したのでしょうか?

全てが計算と計画に基づくものでしょう。1880年初期から僅か半世紀の1930年初期に米国社会は完全に一転しているのです。

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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝63 ― 犯罪シンジケートの継承者 〜 アイゼンベルグ5

 今後も必然的にアイゼンベルグは登場しますが、詳細はキリがないのでアイゼンベルグを題の記事は今回で終了します。

 建国間もないイスラエルでは、建設、金融、造船、自動車、機械、軍事、航空、食糧、化学等のあらゆる産業は、アイゼンベルグ社が創立し、事業が軌道に乗ると民間に払い下げるという形で産業復興が行われていた。
イスラエルの全産業は、事実上アイゼンベルグ社の子会社であった。このイスラエル国家そのものであるアイゼンベルグ社、建国の原動力であるアイゼンベルグ社を優遇し、アイゼンベルグの全活動を無税にするという、「アイゼンベルグ法」という法律がイスラエルにはあった。アイゼンベルグにだけ適用される、アイゼンベルグのためだけの法律であった。
上のオルタナティブ通信の情報に接して「一体何を言っているのか?」と戸惑っていました。イスラエル独立宣言は1948年、その当時ショール・アイゼンベルグは20代なかば、1947年末に東京にアイゼンベルグ商会を設立したばかり。
  • アイゼンベルグがイスラエルを建国?
  • イスラエルの全産業はアイゼンベルグが創立し、事実上の子会社?
  • アイゼンベルグがイスラエル国家そのもの?
  • 「アイゼンベルグ法」?
しかし、イスラエル・コーポレーション記事を見つけ、『ユダヤの告白』を読み直し、上の内容がかなり事実に近いのが見えてきました。
 1948年ではありませんが、1968年にアイゼンベルグによってイスラエル・コーポレーションが創立され、その「この会社の所有者の30年間の税免除と、他に利益の受け取りを保証する」取り決めは、確かに「アイゼンベルグ法」でした。そして、イスラエル・コーポレーションがイスラエルの殆どの企業を支配下に置いたのも、どうも事実に近いようです。
 また、本人というよりもアイゼンベルグが継承した犯罪シンジケートが、イスラエル建国の原動力であったのも事実でした。犯罪シンジケートがイスラエルを乗っ取ったとも言えるし、アイゼンベルグが1948年から僅か20年で犯罪帝国世界本部の帝王になったとも言い得るでしょう。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 外伝63 ― 犯罪シンジケートの継承者 〜 アイゼンベルグ5

「イラン・コントラ事件」の黒幕


1986年、米国レーガン政権下にて「イラン・コントラ事件」が発覚し、世界で大騒ぎになりました。「イラン・コントラ事件」とは、ウィキペディア記事の冒頭部分で次のようにある通りです。

ロナルド・レーガン政権が、レバノンでシーア派テロリスト集団に捕らえられているアメリカ人の解放を目的としてイランと裏取引をした上に、アメリカ国家安全保障会議から同国へ武器を売却し、さらにその代金をニカラグアの反共右派ゲリラ「コントラ」の援助に流用していた事件。1986年に発覚するや、アメリカ国内のみならず世界を巻き込む政治的スキャンダルに発展した。イランゲート(Irangate)といわれた。

この事件の当時、イラン・イラク戦争(1980~1988年)の中でした。米国はサダム・フセイン率いるイラクを(利用という方が正確ですが)支援し、イランはいわば敵国扱いとしていたのです。ところが米国は、そのイランに武器を裏取引で売却していたのです。おまけにそのイランへの武器売却の代金を、これも秘密裏に反共右派ゲリラ「コントラ」の援助に流用していたのです。この問題点の一端をウィキペディア記事では以下のように記載しています。

イランへの武器輸出と、反共ゲリラへの資金流用というそれぞれの行為は、本来なら必要である議会の了解を取っていなかったばかりか、当時民主党が多数を占めた議会の議決に完全に反していた。
また、この時、アメリカのイランとコントラの双方の交渉窓口は、ロナルド・レーガン政権において副大統領だったジョージ・H・W・ブッシュ(後の大統領)であったとされ、このブッシュの関与が、後の民主党政権下の連邦議会における公聴会で取りあげられたが、その真相はいまもってうやむやである。

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この「イラン・コントラ事件」の中心的な役割の黒幕の一人は、「それが公にされることは決してなかった」がショール・アイゼンベルグである、と『ユダヤの告白』第5章の最後部は指摘しています。これはこの通りでしょう。

「イラン・コントラ事件」のウィキペディア記事では、以下の記載内容があります。
  • イラン・イラク戦争が始まるや、イスラエルが本来的には敵国ながらイランに武器を売却。
  • そこに米国が乗って、米国の武器をイスラエルを通じて売却し、人質解放に役立てた。
  • しかし、やがてイスラエルがこの米国とイランとの間接貿易の代理人であることを渋る。
  • そのため、米国はイランに直接武器を密輸出するようになり、これが発覚し事件となった。

また「イラン・コントラ事件」発覚以前に、ニカラグアの「コントラ」など反共ゲリラに対して、イスラエルが米国の代理人として米国の最新兵器を輸出していたとも記載されています。

「イラン・コントラ事件」は、米国政府がイスラエルに鼻面を引き回された事件とも言えるでしょうが、その黒幕はイスラエルのほとんどの企業を、とりわけ軍事産業を完全掌握していたショール・アイゼンベルグと見るのが当然なのです。

ショール・アイゼンベルグ


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