人々の欲望を刺激する広告の存在が、生活の満足度や精神的な幸福度の低下をもたらしている / 幸せに生きるために何が大切なのか?

竹下雅敏氏からの情報です。
 動画の5分58秒のところで「ソーシャルメディアが人々の幸福度を下げることを示した研究」について触れています。
 “例えばInstagramを利用する頻度が高い若者は、不安感や孤独感、外見上の劣等感など、否定的な影響を受ける傾向があることを示した研究もあります。特に思春期の女性はInstagramを通じて、他の美しい女性や華やかな生活を目にすることで自己肯定感が低下すると言われています。ハーバード大学の調査によるとInstagramやその他のソーシャルメディアに頻繁にさらされることは、特に思春期の女性において自身の体に対する不満や摂食障害のリスクを高め、重大なメンタルヘルスの問題、例えばうつ病や自殺行動につながる可能性があると報告されているのです。”とあります。
 「幸せの国ブータン」では、近年、テレビやスマートフォンなどが普及し、広告や情報に触れることで幸福度の低下が引き起こされているということです。人々の欲望を刺激する広告の存在が、生活の満足度や精神的な幸福度の低下をもたらしているということです。
 動画の9分50秒で、「最後に一つ、皆さんと考えたい問いがあります。幸せに生きるためには、何が大切だと思いますか? この問いも非常に壮大で、簡単に答えが出るものではありません。しかし、人間として生きる上で究極的な問いであることも間違いありません」と言っています。
 これは確かに「究極的な問い」であり、最も重要な問いであるにもかかわらず、真の哲学者、思想家、そして詩人以外は誰も立ち止まって探求しようとはしない問いです。
 「幸せに生きるためには、何が大切だと思いますか?」という問いかけに、「愛です」と答える人と、「智慧です」と答える人がいるかも知れません。これは正解なのですが、ここでの「愛」は永遠のもので、「智慧」は究極のものです。
 「智慧」に関しては、ヨーガ・スートラ1・48に「内面の清澄のなかに、真理のみを保持する智慧が生まれる」と記されているもので、仏教ではこれを「般若波羅蜜多」と呼んでいます。
 「般若(プラジュニャー)」とは、“全ての事物や道理を明らかに見抜く深い智慧のこと”を意味しますが、そうした中での「究極の智慧」を般若波羅蜜多といいます。
 そして、その究極の智慧である「般若波羅蜜多」を発現させる真言(マントラ)が『般若心経』の末尾に記されている陀羅尼(だらに)なのです。
 陀羅尼はそれを伝える資格を持った人物から、正確な抑揚を学ばなければなりません。私はその資格を持っており、先の陀羅尼を映像配信『宗教学講座 初級コース 第100回 大乗仏教(般若心経:般若心経のマントラ)』で公開していますので参照してください。
 「般若(プラジュニャー)」が科学などの日常レベルの知恵とは異なるように、「愛」は永遠のものであり、一時的な愛情や愛着とは別物です。もしもあなたの中で、愛がはかないものだと錯覚しているなら、それは「愛」を愛情や愛着と混同しているのです。
 実のところ、ほとんどすべての地球人は「愛」をまったく知らないし、体験したこともありません。天の裁きによって「魂」が滅びていなければ、あなたのハートには魂(ジーヴァ)が鎮座しています。それは、「私」と言いながら自分自身を人差し指で示す位置にあります。
 ジーヴァとは個我を意味するのですが、これは転生の主体となるもので、真我(アートマン)がコーザル界(原因界)にあらわれたものです。簡単に言えば、「神」の分け御霊のことです。
 そして、魂(ジーヴァ)の光が「智慧(般若波羅蜜多)」であり、ヴァイブレーションが「愛」なのです。従って、あなたが真の意味で「般若波羅蜜多」を知っている(体現している)とか、「愛」を知っている(体現している)ということになると、進化段階は4.0以上ということになり、インドの宗教では「解放に到達した者」とよばれ、仏教では「阿羅漢(アラハン)」と呼ばれる聖者を意味することになるのです。
 「幸せに生きるためには、何が大切だと思いますか?」という問いかけの答えは「愛」と「智慧」なのですが、それを体現している地球人はほとんど居ません。しかし、それを体現するための入口であり出口なのが「禁戒(ヤマ)と勧戒(ニヤマ)」なのだということを知っておいてください。
 あなたが本当の「幸せ」を手にするには、「禁戒(ヤマ)と勧戒(ニヤマ)」を守り、徳を積むこと。そしてガヤトリー・マントラによって「波動」を上げる事を心掛けて下さい。あなたの願望はいつの間にか叶うようになってくるでしょう。
 子供には「遊び」や「おもちゃ」が必要です。しかし、大人になってもこれらが必要であれば、それは精神的に未熟であることを意味します。人々が享楽をもとめ、「幸福」を求めないのは幼いからなのです。逆説的ですが、子どもの頃に十分に愛され、遊んだ人は精神的に早く成長するようです。
 この意味で、地球が平和に、そして人々が幸せになるための最短の道は「家庭の平和」にあると言えます。そして「家庭の平和」の中核にあるのが、夫婦の愛(性の一致)なのです。
 現代の社会は、夫婦の愛を破壊する思想や言動に満ち溢れています。混乱に巻き込まれて、「魂」を失わないようにして下さい。
(竹下雅敏)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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「幸せの国ブータン」が不幸になった理由がヤバすぎる
配信元)
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幸福
幸福とは、が満ち足りていること。幸せ(しあわせ)ともいう。人間は古来、幸福であるための方法に深い関心を寄せてきた。
哲学、思想、宗教における考え

ソクラテス

ソクラテス(469?~399 B.C.)
Wikipedia[Public Domain]

ソクラテスは、「生きること」以上に「よく生きること」を重視し、正しく知ることが重要であると説いた。

アリストテレス

アリストテレス(384~322 B.C.)
Wikipedia[Public Domain]

アリストテレスニコマコス倫理学』において、幸福とはだれもが求める目標である、その特徴は、それが究極目標であること、つまりもはやそれが何かほかのものの手段にはなりえない、という点にある、と述べた。つまり幸福は、それ自体のために求められる最高善であるとし、自足的で永続的な状態である、と見なした。幸福が最高目標、永続的であるのに対して、実生活の具体的な活動の過程で得られる快は安定性も永続性も欠いている、とし、幸福主義を唱えた。

またアリストテレスは、幸福とは、政治を実践し、または人間のプシュケー(=霊魂)の固有の形相である理性を発展させることであるとした。


ヘレニズム期の考え方

ヘレニズム期の哲学においては、幸福について考えが分かれる二つの学派があったとされる。ストア派エピクロス派である。

ストア派

ストア派では、宇宙全体を貫くロゴスとの合一に幸福の理想が求められ、理性に従い欲望を制御して、どんなことがあっても動じない状態、即ちアパテイアが幸福であるとした。

ストア派は理性に従いを高めることが幸福であるとする一種の主知主義の立場である、ともされる。

エピクロス派

エピクロス派は「快楽を得ることが幸福であるとした」などとされ、快楽主義などと表現される。ただし、エピクロス自身が言っていたことは、現代人がつい思い描いてしまうような、単純に享楽を求めるような"快楽主義"ではない。

エピクロス自身は、快を「感覚的な快」と、「精神的な快」に分けて考えていた。前者は生き物に共通の反応ではあるが、人間あるいは賢者にとっての幸福というのは、精神的な快であるとし、アタラクシアである、としていたのである。アタラクシアとは、静かな心の平安、あらゆる苦痛と混乱を免れた精神の安定した境地のことである。ヘレニズム期の幸福論を考察する時に、両派は対比され、一般にストア派は「禁欲主義」、エピクロス派は「快楽主義」と呼ばれてはいるが、このように静かな心の穏やかさを目指した面では軌を一にしている。

ブレーズ・パスカル

ブレーズ・パスカル(1623~1662)
Wikimedia_Commons[Public Domain]

ブレーズ・パスカルは『パンセ』において幸福にも言及している。

誰もが幸福になりたいと思っている。そこに例外はない.....。これこそが、首を吊ろうとする人をもふくめて、あらゆる人間のあらゆる行為の動機である。(『パンセ』425)

絶えず幸福になろうとしている状態にあるかぎり、われわれはけっして幸福になることがない。(『パンセ』172)

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