ほとんどが史実に忠実だった上杉鷹山のドラマ
日本の著名人で、本当の意味で偉人と言える人はほとんどいません。歴史上の偉人のほとんどは、ペテン氏だと思っています。しかし、渋沢栄一氏や上杉鷹山氏など、ごく一部の人たちは真の偉人だったと思います。(
時事ブログ)

くろちゃ〜ん、ぼくのお勧めドラマ、YouTubeで見た?
上杉鷹山のドラマか? 見たことは見たが、あれ、ここで紹介しちゃマズいだろ? 著作権はNHKだぞ。

やっぱ、ダメかあ。上杉鷹山を知るためには、いいドラマだと思ったんだけどな。

いいドラマだとしても、原作小説がどこまでホントか、疑問に思う点もある。たとえば、上杉鷹山と黒木瞳が長時間見つめ合うシーン。あんなこと、実際にあったんか?

ああ〜、あれは2時間ドラマの尺稼ぎだよ。でもね、
見終わった後に、ウィキペディアで確かめてみたら、ほとんどが史実に忠実だったよ。

じゃあ、あの「号泣シーン」もか?

号泣シーン?

鷹山が、初めて米沢入りした時の、雪の野宿のシーン。

へええ? くろちゃん、あそこで泣いたの〜?

なっ!泣いてねえよ!ウルウルしただけだ。
お荷物を背負わされた鷹山

ぼくなんか、タオルがビショビショになったよ。まあ、あそこの号泣シーンのことはあとで説明するとして、
ウィキペディアを参考に、出羽国米沢藩9代藩主・上杉 治憲(うえすぎ はるのり)(1751〜1822年)、後の
上杉鷹山の生涯をおさらいしてみようか。
上杉鷹山

おう!

わかりやすくするために、「治憲」じゃなくて「鷹山」で行くよ。

お、おう!
鷹山は、1751年に日向国高鍋藩の江戸藩邸で生まれた。

日向だから、宮崎で生まれたと思ったら、江戸で生まれたんだ。

父親は高鍋藩の6代藩主・秋月種美(たねみつ)、母親は、筑前国秋月藩の4代藩主・黒田長貞の娘・春姫。春姫の母・豊姫は、米沢藩4代藩主・上杉綱憲(つなのり)の娘。

要するに、
鷹山のばあちゃんが米沢藩の上杉の血筋だったから、鷹山は米沢藩の養子になったんだな。

そう、鷹山は次男だったからね。
満10歳(1761年)の時、米沢藩8代藩主・上杉重定(しげさだ)の養子になり、上杉家桜田藩邸に引っ越した。

宮崎から米沢に婿養子に行ったのかと思ったら、江戸の屋敷を移動しただけだったのか。

米沢に行くのは、藩主になってからだよ。
鷹山は満13歳(1764年)の時、細井平州(ほそい へいしゅう)(1728年– 1801年)に教えを受けた。細井平州の主著「嚶鳴館遺草(おうめいかんいそう」の序文を読むと、鷹山がどんなことを学んでいたかがわかるよ。
君主は、臣民の父母であって、非常時に自ら節倹すべきことは、親が子に愛情を示すのと同じく為すべきことである。(
Wikipedia)

「節倹」とは「無駄を減らして質素に暮らすこと」。

そう言えば、あのドラマの冒頭で、寺尾 聰(てらお あきら)扮する細井平州が、幼い鷹山に「君主は臣民の父母」みたいなことを言ってたな。

細井平洲の私塾「嚶鳴館(おうめいかん)」では、武士だけでなく町民や農民にも学問を教えていた。後に、米沢で鷹山が再興した「興譲館(こうじょうかん)」は、ここをモデルにしているんだよ。

ドラマでは、飲み屋の女将の黒木瞳が「興譲館」で学んでいたな。

くろちゃん、さっきから黒木瞳のことばかり。もしかして、ファン?

まさか! まったく好みじゃねえよ!

ハハ!
鷹山は満16歳(1767年)で米沢藩9代藩主になった。その時、細井平洲が鷹山に贈った言葉が「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや(何をやるにしてもまず勇気が必要である)」と「先施の心(自分のして欲しいことを先に他人に対してすべきである)。」(
Wikipedia)

勇気と思いやり、どちらも藩主として必要だな。

だが、
養子に入った米沢藩は、借金まみれの火の車だった。今のお金に換算して、約150億から200億円の借金を抱えていたんだ。

200億!?

15万石に転落した米沢藩は、上杉謙信が健在だった120万石時代にしがみついて、プライドだけは高い。でも、プライドじゃ家臣6千人は養って行けない。人件費だけで潰れてしまう。かと言って、身内をリストラする勇気もない。
八方ふさがりになった前藩主・重定は、領地を幕府に返上することまで考えていた。

鷹山は、そんなお荷物を背負わされたのか。

でもね、
鷹山はよそ者だから、クールにリストラもしたし、「大倹約令」も発布した。具体的には藩主の生活費を1500両から209両に減らす、一汁一菜の徹底、衣服は木綿のみ、奥女中は50名から9名に削減など、藩主自らが率先して実行した。(
BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン))

トップがやるなら下々は従うしかない。だが、ふつうはトップは特別扱いだよな。
ですから、君主という尊い立場で、国民と苦労をともにして、自分の身の回りのことをはぶいて費用がかからないようになされれば、命令しなくても国民はつき従い、国のおきてを守るのでございます。これは非常(常のことではなく)のことでして、これまで見たこともなく、聞いたこともないことを行うことなので、人々がみな関心して従いますので、お考えどおりの政治を行うことができましょう。(嚶鳴館遺草巻一 野芹16p)

だが、古参の家老連中は我慢できないぞ。
鷹山の人柄と治世

それが後々、お家騒動につながるんだけど、その話はもうちょっと後でするよ。話を戻すと、
満18歳で藩士になった鷹山は、米沢藩主・重定の娘・幸姫(よしひめ)と結婚した。でもね、幸姫(よしひめ)には脳障害、発育障害があったんだ。

へえ〜、でも、あの時代は、いくらでも側室を持てるだろ?

だけど実際、鷹山は1人しか側室を持たなかった。しかも、
彼は幸姫(よしひめ)を「天女」と呼び、会いに行くのを楽しみにしていたそうだ。

なるほど、敵に囲まれている鷹山にとって、姫は癒やしの存在だったかもしれないな。
幸姫(よしひめ)が30歳で亡くなった後、姫の父・重定は、いかに姫が大切にされていたかを知って、鷹山に感謝したと言う。

フィルターをかけずに人を見る。なかなかできることじゃない。

そして、同じ年、
いよいよ鷹山は、米沢の地に足を踏み入れる。この時のエピソードが、くろちゃんの「号泣シーン」だね。

だから、ウルウルしただけだって。
江戸から新しい藩主が来たというのに、雪の米沢の出迎えはひどいものだった。一泊しようにも、住人はみな土地を捨てて逃げ出し、村は荒れ果て、
藩主が泊まれる宿なんか1件もない。結局、藩主に野宿させることになるんだけど、鷹山は手持ちの酒を部下に配り、吹雪の夜を明かす決意をする。この時、宿の手配ができなかった責任者の藩士は切腹を覚悟するが、鷹山は彼に酒盃を渡し、絶対に切腹など考えるなと部下に告げさせる。以来、その藩士は鷹山の忠実な部下となる。

ここ、ドラマだとわかっていても、泣かせるよな。しかし、江戸育ちのお坊っちゃんが、雪の中の野宿、よく風邪引かなかったな。
鷹山は21歳(1772年)で藩政改革に取り掛かる。「会計一円帳」を作成して、これまで公開しなかった藩財政の収支を公開し、米沢の遠山村で、藩主自らがクワを取って畑を耕し祖先に加護を祈るという、古代中国の「籍田(せきでん)の礼」を行った。

古参の家老一族の妨害に合いながらも、自ら耕し、神に祈る。ドラマでもあったな。

22歳(1773年)の時、古参の家老一族の「七家騒動」があった。
米沢城の堀

ドラマでは、締め切った部屋で、鷹山と供の者1名が悪役家老ら7名と対峙する。あわや、と言う時に大殿・重定が登場して、諌めるシーンだったな。

この事件で、鷹山は7名のうち2名に切腹を命じた。

「やる時はやる」を見せておかないと、だな。しかし、よく決断した。

でも、根は優しい人だと思う。たとえば、「籍田(せきでん)の礼」を行った遠山村の「ヒデヨ」というおばあちゃんが、嫁ぎ先の娘に宛てて書いた手紙が今も残されている。
ある日、
干した稲束を取り入れていたら、夕立が降りそうになった。手が足りなくて困っていたら、通りすがりの武士が2人、手伝ってくれた。取り入れの手伝いのお礼には、新米でついた餅をお返しにするのがならわしだったので、武士たちに「お礼に伺いたい」と言ったところ、「殿様がいる米沢城の北門に来い、門番に話しておくから」と言う。早速、
おばあちゃんがお礼の福田餅33個を持って行くと、通された先にいたのは藩主・鷹山だった。お侍どころかお殿様だったので、腰が抜けるばかりにたまげ果てた。その上、勤勉さを褒められて、褒美に銀5枚までいただいた。その御恩を忘れないために、家族や孫たちに特製の足袋を贈ることにした。(
Wikipedia)

なんか、「日本むかし話」にありそうな美談だな。だが、おれが意外に思ったのは、何歳か知らんが、「ヒデヨ」ばあちゃんに字が書けたことだ。

そう、
鷹山は教育にも熱心だった。さっきも話したけど、鷹山は
満25歳(1776年)の時、4代藩主・綱憲(つなのり)が創設したけど閉鎖された、学問所を再興して、細井平洲に「興譲館(こうじょうかん)」と命名してもらった。

そこで、「ヒデヨ」ばあちゃんも勉強したのか。

ところが、
鷹山が満31〜35歳(1782〜 1786年)の時、「天明の大飢饉」が起きて藩政改革どころじゃなくなる。鷹山は「かてもの」に代表される非常食を広め、藩士・農民に倹約をすすめ、自らもお粥を食べて倹約を実行した。満33歳の時には、
謙信公御堂にこもって断食祈願したこともある。
他藩から米を借り入れ、藩の米倉庫も領民に開放して、餓死者をほとんど出さなかったのはすばらしい。

満34歳(1785年)の時、
鷹山は前の藩士・重定の息子・治広(はるひろ)に家督を継がせて隠居した。この時、治広に贈った藩主の心得「伝国の辞(でんごくのじ)」がすばらしい。
一、国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我(藩主)の私物ではない。
一、民(領民)は国(藩)に属しているものであり、我(藩主)の私物ではない。
一、国(藩)・民(領民)のために存在・行動するのが君主(藩主)であり、“君主のために存在・行動する国・国民”ではない。
この三ヶ条を心に留め、忘れることなきように。

情けなや・・今の日本は「国と民を売るために存在・行動するの政治家」で満ち溢れている。

そして満51歳(1802年)、「鷹山」と称するようになる。「かてもの」を刊行したのも、この頃だよ。
鷹山は満71歳で逝去したが、翌年(1823年)、米沢藩はすべての借財を返済し終えた。(
Wikipedia)

お見事、あっぱれな一生だ。
名君を続々と輩出した秋月家

鷹山は、理想の藩主像を可能な限り実現した人だね。だけど、
こんな名君の鷹山も、お兄さんにはかなわないと言っているんだ。
兄は僻遠(中央から離れた)の藩主ゆえ名を知られていないが、
もし兄が ( 私に替わって ) 米沢の藩主になっていたなら、米沢は今よりもずっと繁栄していただろう。(
Wikipedia)

へええ? どんな兄さんだったんだろう?
お兄さんは、日向国高鍋藩7代藩主・秋月種茂(あきづきたねしげ)。1743年生まれだから、鷹山より8歳年上。
「早くから聡明で学問を好み、情け深く、よく人の意見を聞き入れ高鍋藩の全盛期を実現させました」と言われている。(
嚶鳴協議会)

ほお、兄貴もりっぱな人物だったんだな。

鷹山が米沢藩の養子に入った同じ頃、
高鍋藩主になった種茂は、有能だが家柄が低いために下の位にいた、新進気鋭の人材を登用したり、慣例にとらわれない斬新な発想と周到な計画によって、高鍋藩の財政再建と発展に力を尽くした。たとえば「児童手当制度」を作ったり。(
嚶鳴協議会)

すごい! 児童手当制度だって?
具体的には、農民の間引きを禁止し、3人目の子どもから、1日につき米2合または麦3合を支給した。また、優秀な産婆を大阪から招いて出生率を高め、薬が買えない貧しい領民に、領地で栽培した朝鮮人参を配った。(
嚶鳴協議会)

弱いものに優しい藩主だったんだ。

さらに、
飢饉に備えて籾を貯蓄したことで、大飢饉のときも餓死者は出なかったし、全国的に広がった農民一揆も起こらなかった。それどころか、凶作の年は地税を免除したことで、2万5千人の農民が感謝して、奉仕を申し出たと言う。(
嚶鳴協議会)

米沢藩だけじゃなく、高鍋藩も飢饉に備えていたのか。
種茂は、教育にも力を注いだ。米沢の「興譲館」のように、藩士だけじゃなく、
町民や農民も入学できる藩校「明倫堂(めいりんどう)」を設立した。(
嚶鳴協議会)

子どもや老人や農民を大事にする。教育に重きをおく。飢饉に備える。なんか、鷹山とよく似てるな。これが、秋月家の遺伝子か?

実は、
種茂の息子で、福岡藩の支藩、秋月藩8代藩主として迎えられた、黒田長舒(ながのぶ)も似ているんだ。

長舒(ながのぶ)は鷹山の甥っ子だな。
長舒(ながのぶ)も父・種茂のように、子どもの間引きを禁止し、子育ての困難な家庭に養育米を与えた。秋月藩の藩校「稽古館」に亀井南冥ら学者を招き、学問を奨励した。また、藩財政の立直しのために、桑の栽培や養蚕を奨励した。(
朝倉市)

ドラマでは、鷹山も城内で桑を育てていたな。

そう、
鷹山は桑だけじゃなく、カラムシも育てて、糸にして米沢織りを盛んにした。長舒(ながのぶ)も、葛や川苔、茶、桑、楮(こうぞ)、櫨(はぜ)など多岐にわたる産業を奨励し、藩財政の立直しを図った。中でも葛は今でも、秋月藩が治めた福岡県朝倉市の名産品だよ。

「葛」と言えば「かてもの」に載っていたな。
葛

そうだね。「かてもの」の本も、互いに貸し借りしていたかもしれない。

鷹山、種茂、長舒(ながのぶ)には共通点がたくさんある。兄と弟、叔父と甥だからなあ。江戸でよく会っていたんじゃないか?
上杉家の公的な記録資料をまとめた『上杉家御年譜』には3人の交流の記録はないとしたものの、江戸の住まいはお互いに約1キロから3キロしか離れておらず、私的な行き来は可能だったとしました。天明の大飢饉を経てからの3人の動きには共通性があるとし、特に藩政改革を行うに際しては人材育成に着眼して、まず藩校を開校しているほか、鷹山、種茂は隠居して参覲交代を免じられ、藩政改革を本格化し、種茂、鷹山兄弟の父、秋月種美(たねみつ)が没した天明7年(1787)に兄弟は藩政改革に向けて、心を一つにして別れただろうと
(後略)。(
米沢日報デジタル)

こんな名君を続々と輩出した秋月家。すばらしいなあ。いったい、どんな子育てをしていたんだろう?

そうだね。でも、ここで、ガッカリなお知らせがある。

?
種茂の4代くらい後の秋月種英(たねひで)。この方の娘さんが武見太郎の奥さん。つまり、武見敬三のお母さんなんだよ。

ウソだろ〜?! 3名君を輩出した秋月家のDNAを、武見敬三が受け継いでいるだと?!

きっと今ごろ、鷹山・種茂・長舒(ながのぶ)も大ショックだよ。
Writer
ぴょんぴょん
1955年、大阪生まれ。うお座。
幼少期から学生時代を東京で過ごす。1979年東京女子医大卒業。
1985年、大分県別府市に移住。
1988年、別府市で、はくちょう会クリニックを開業。
以後26年半、主に漢方診療に携わった。
(クリニックは2014年11月末に閉院)
体癖7-3。エニアグラム4番(芸術家)
実はこの言葉、鷹山が隠居する際に、次の藩主・治広(はるひろ)に贈られた言葉でした。
領民のための政治をした鷹山。彼を輩出した秋月家について調べていくと、兄も甥も名君だったことがわかりました。優秀な家系があるもんだと感心していたら、まさかのラストに武見敬三?