アーカイブ: 福島原発事故

10年目の3月11日、東電と国の責任を鋭く問うた岩渕友議員 〜「故郷など守るに値しないもの」と被災者を切り捨てた東電

 東京電力は、毎年3月11日に福島第一原発で黙祷と社長訓示を行ない、その後、報道陣の取材に応じることを通例としてきました。口先だけであっても事故を教訓とし復興への思いを語ってきました。ところが10年目に当たる今年の3月11日は、コロナ感染防止を理由に小早川社長の訓示をオンラインに切り替え、福島県にも訪れることはなく、報道陣の取材も拒否しました。その横柄さに怒りを感じますが、福島の人々にとっては尚更に衝撃だったと思います。
その思いを代弁するように11日、岩渕友議員が静かな怒りを込めて質疑を行いました。自らも福島県出身の岩渕議員は「故郷を奪われるということ」の実例を紹介しながら、国と東電の責任を鋭く問いました。家屋を失っただけではない、慣れ親しんだ景色も変わり果て、豊かな自然も失い、地域の人々も仲間も居なくなった場所は帰れる故郷ではなくなってしまったのに、東電は「故郷の法益は存在しない、守るに値しないものだ」と被災者を切り捨てました。国も被災者を守るどころか卑怯にも責任から逃れる姿を国会で晒しました。
 10年目の311、改めて東電も、この国の政府も不要だと確信しました。
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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東京電力社長、3.11取材拒否 福島来県せず、訓示はオンライン
引用元)
 東京電力は10日、原発事故後に福島第1原発などで行ってきた3月11日の社長訓示について、今年はオンライン形式とし、終了後の報道陣の取材に応じないと公表した。原発事故後、東電の社長が3月11日に本県を訪れず、取材にも応じないのは初めて。原発事故から10年が経過する中、小早川智明社長自らが説明責任を放棄した形となり、東電の当事者としての責任感が薄れていることが浮き彫りになった
(中略)
 東電の社長は例年、3月11日に廃炉作業の最前線となる県内の各現場を訪れてきた。震災が起きた午後2時46分に黙とうし、事故の教訓や本県復興に向けた思いを社員に訓示した後、報道陣の取材に応じるのが通例だった。東電を巡っては、福島第1原発3号機の地震計を故障したまま放置するなど安全対策を軽視する動きも目立ってきている。
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配信元)

福島原発事故後の行政文書を続々廃棄処分に 〜 事故後の調査はずさん、残った資料は廃棄する日本は「311」を正しく検証できるのか

 「民の声新聞」では、福島原発事故以降の自治体の行政文書が続々廃棄処分にされていることを2019年から報じておられました。市民や議員の中には「後世への教訓として永年保存すべき」という声もあったものの、対応は各自治体の担当部局の判断に委ねられ、震災・原発事故対応の記録を「特別扱い」にはしない方針のようです。紙の状態での保存が前提のため保管場所の確保が困難だという自治体の切実な理由に対して、では「スキャンしてデータとして保存すれば良いのではないか」との記者の質問には「行政文書をデータベース化して保存するという動きはまだ具体的にない」と回答されたようです。いやしかし、シロウトが考えても311のあらゆる記録は、地域、医療、歴史、水害など各分野への貴重な財産になるはず。しかも国を挙げてデジタル庁だという時代に、被災直後の住民の様子がリアルに反映された資料をみすみす捨ててしまうとは。元記事は「これが10年目の現実だった。」と結んでありました。
 10年間、福島で取材をされているジャーナリストの烏賀陽弘道氏のツイートには、米ペンシルバニア州がスリーマイル島原発事故後、40年以上に渡って個人識別のデータを取り続ける疫学調査を行なっているとありました。ここまでやってようやく事実に近づくことが可能になるのだとしたら、今後の日本に検証能力はあるのか?
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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配信元)
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燃やされ消される「原発事故対応」】福島市「保存期限過ぎたので廃棄」 山形県に避難した市民説明会の記録 「保存場所無い」
引用元)
福島第一原発事故以降の行政文書が福島県や県内市町村で続々と廃棄処分されている問題で、福島県福島市が2011年12月、山形県山形市や米沢市に原発避難した市民を対象に開いた説明会の記録も、「保存期限を過ぎた」として廃棄されていた事が分かった。説明会でどのような質問や意見が出されたのか。当時の行政文書は原発事故の区域外避難者(いわゆる〝自主避難者〟)がどのような状況だったのか検証する材料になり得るが、市は特別扱いせず捨てていた。原発事故後の行政の対応が燃やされ消されていく実態が改めて浮き彫りになった。
(中略)
 場所の問題で廃棄さざるを得ないのであれば、スキャンしてデータとして保存すれば良いのではないか。この点についても担当者は「行政文書をデータベース化して保存するという動きはまだ、具体的にはありません」と話した。
(以下略)
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配信元)

自民党プロジェクトチームが食品のセシウム基準値を引き上げる提言、キノコは1000ベクレル以下に 〜 「みんなのデータサイト」さんが反対の署名キャンペーンを開始

 現在の食品の放射性セシウム基準値は1kgあたり100ベクレルです。「福島原発事故前は日本のほとんどの食品は1kgあたり0.1ベクレル程度」だったと小出先生はおっしゃっていました。事故後はなし崩しに基準値が跳ね上がりましたが、たとえ1kgあたり10ベクレルであっても危険なことには違いなく、そのレベルが異なるだけです。10年目の今、自民党のプロジェクトチームは、この100ベクレルを下げるどころか消費量の少ないとされる食品、例えばキノコ、山菜などの基準値を10倍に引き上げるつもりです。つまりキノコなどは1000ベクレル以下であれば流通に乗ります。
かつてボランティアの人々が各地の土壌の放射能を測定してマップ化した「みんなのデータサイト」さんがこんな暴挙はやめてほしいと声をあげられました。「線量の高い食品を出荷できるようにするのが福島の復興につながるという論理は非常におかしい」「基準値を上げても風評被害は払拭されない」と訴え、また決して現在の100ベクレルを許容しているわけではなく、これ以上規制値を緩めないでほしいという主旨の署名キャンペーンを開始されています。
 それにしても、ほんと自民党ってロクなことをしないわね。
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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【食品の規制基準値を今の10倍の1,000 Bq/kgに変更するのが最終目標と判明!】
配信元)

【食品の規制基準値を今の10倍の1,000 Bq/kgに変更するのが最終目標と判明!】

みんなのデータサイトが入手した自民党のプロジェクトチームの資料によれば、食品の基準値変更は段階を追って、最終的には「CODEXの基準値1,000...

みんなのデータサイトさんの投稿 2021年3月5日金曜日
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放射性セシウムの食品基準値と出荷制限の在り方検討 自民PT初会合
引用元)
東京電力福島第1原発事故後に設定された食品中の放射性セシウム基準値(一般食品で1キログラム当たり100ベクレル)に関し、自民党の東日本大震災復興加速化本部は基準値による出荷制限の在り方を検討するプロジェクトチームを設置した。風評被害の一因と指摘される基準値の妥当性も議論し、科学的で合理的な規制の運用を目指す。
(中略)
国の放射線審議会は19年、基準値が過剰に安全側に立っているとの見方を示し、「モニタリングの根拠として使い続ける必要性を説明できない状況」と指摘した。
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食品出荷基準「科学的に検証」
引用元)
(前略)
自民党のプロジェクトチームは、8日、現在も広く出荷が制限されている食品について、合理的な基準を検討することなどを盛り込んだ政府への提言をまとめました。
提言では、地域の直売所や観光など、なりわいに大きな影響が出ていると指摘したうえで、野生のきのこや山菜といった、消費量の少ない食品は、国際的な食品規格では、基準が一般の食品の10倍とされていることを例に挙げ、データに基づいて合理的な基準を検討すべきだとしています
さらに、出荷制限の解除にあたっても、3年間で60検体を検査し、基準値の半分以下になっていることを確認する現在の方法を、柔軟な運用に見直すことを求めています。
(以下略)
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食品の放射線基準の緩和に反対し市民団体が署名を開始
配信元)

10年目の福島を伝える長周新聞の記事 〜 異様に整備された無人の街にフレコンバックの山、避難者の声も想いも届かないまま

 ぴょんぴょん先生が「311」から10年目の今、私たちが認識すべきことを的確に伝えて下さいました。「ふっこー」の掛け声ばかりがもてはやされる裏で、癒えない悲しみや解決できない原発、被曝問題は今も置き去りです。
 長周新聞でも10年目の福島を取材され、淡々とした記事の中から10年間の苦しみを浮き彫りにされていました。印象的なところを取り上げさせていただきましたが、元記事では、冷たく整備された「福島」の、生き物や自然の息吹を感じない異様な様子が写し出されています。
国のもたらした復興は、無人の街を造る「ゼネコンの遊び場」。帰りたくても帰れない人々がせめて「お墓だけでも故郷に」と新しい墓地が多い双葉町。「ゴミを持ち帰りましょう」の立て札の後ろの黒々としたフレコンバックの山。そして胸が締め付けられたのは大熊町の80代男性の語りでした。どうしても帰りたいと切望され、誰も帰還しない無人の街であっても、放射能の不安があっても「自宅周辺が避難指示解除になったら、小さな家を建てて残った畑で梨や野菜を少しずつ育てたい」と7ヶ所も避難所を転々とされてきたそうです。自宅の梨畑は親御さんの想いが詰まった土地で、他の土地では代わりにならないものだったのです。今後、彼の願いは叶わないかもしれない。せめて可能な限り安らかな暮らしを整えてあげるべきなのに。しかし国や東電が目論むのは、声なき声を無視し、住民同士をお金で分断させることでした。長周新聞の記事は、10年経った今も被災者が犠牲者のままだと訴えています。
(まのじ)

注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。

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福島取材① 双葉・大熊町のいま 6万7000人が故郷奪われ各地を転々
転載元)
(前略)

10年が経った今でも県内の各自治体が避難者とする総数は少なくとも6万7000人にのぼる。これだけもの人々が10年が経ってもなお、原発事故によって帰りたくてもふるさとに帰れないのだ。「復興五輪」など復興が叫ばれるなかで、原発の廃炉はいまだにめどが立たず、中間貯蔵施設として原発立地町の双葉、大熊両町に置かれている廃棄物の最終処分場はどうするのか、たまり続ける汚染水はどうするのか、などについて解決の糸口すら見つかっていない(中略)
(中略)

 双葉駅周辺は避難指示が解除されており、駅も駅前の道路も東京オリンピックの聖火リレーのために新しいものが建設され雰囲気は明るい。しかし双葉町はまだ一人も住民は帰ってきていない(中略)町役場もいまだ遠く離れたいわき市に置かれており、駅前だけがぽっかりと浮かび上がっている。
(中略)

 また住民は誰も戻ってきておらず家々は草が生い茂った廃屋ばかりなのに、比較的新しいお墓が多かったのが印象的だった。「お墓だけでも双葉に残しておかなければ双葉に戻ることがなくなってしまう」と、双葉にはもう戻らず避難した先で暮らしていくことを決めた人たちも、墓だけは双葉町内に建てることが多いのだという。墓参りに来る住民に向けて「ゴミは持ち帰りましょう」と書かれた看板のすぐ後ろでは、除染ゴミを詰めたフレコンバッグが山のように積み上げられていく。それこそゴミなのだ。「あまりにも皮肉でしょう」と大沼氏は話していた。

 沿岸部に着くと、そこには先ほどまでの廃墟とフレコンバッグの山とはうって変わり、53億円をかけて建設されたガラス張りの立派な「東日本大震災・原子力災害伝承館」と「双葉町産業交流センター」が建っていた。その横では現在ビジネスホテルが建設中だ。産業交流センターの中には土産物屋やレストランのほかに、東電の福島復興本社と復興事業に携わるゼネコンの事業所がずらりと入っていた。



 産業交流センターの屋上に上ると双葉町一帯が見渡せる。沿岸部には現在「復興祈念公園」が建設されており、綺麗に芝生が植えられ整備されている。しかしその一方で産業交流センターを挟んで反対側には瓦礫や汚染土が詰められたフレコンバッグが山のように積み上げられており、ダンプカーが土埃を上げて走っている。それ以外は何もない

 この差は一体何なのだろうかと唖然としてしまった。また「復興シンボル軸」という名の常磐自動車道常磐双葉ICから双葉駅周辺市街地を通り、伝承館が建つ沿岸部までを結ぶ延長7・1㌔㍍の巨大なバイパス道路も建設中だ。いまだ住民は誰も戻れないのに、一体誰が通るための道路なのか。誰のための復興事業なのか。いまだふるさとに戻れない住民をよそにしたゼネコンの遊び場としか思えない実態に愕然とした

(中略)

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ぴょんぴょんの「あれから10年」 〜311を振り返る

忘れようったって忘れられない311から、10年。
主犯者たちはいつ罰せられるのでしょうか?
はあ〜〜〜〜😥
(ぴょんぴょん)
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ぴょんぴょんの「あれから10年」 〜311を振り返る


東日本大震災直後の記録「すべてを変えた あの日…」


こないだ、ある人の書いた東日本大震災直後の記録「すべてを変えた あの日…」に心を打たれたよ。

Wikimedia_Commons[Public Domain]

ふうん。

書いたのは、フリーランス写真家を主人にもつ、詩人の妻。
ご夫婦は、埼玉の自宅で311の地震の直後、いても立ってもいられなくなり、現地へ飛んでったそうだ。
それから、何回か被災地を往復したときの記録が、ここに公開されている。

どれどれ?

ご主人は本職の写真を撮る。
奥さんは現地の様子や、被災した人々との会話を、こと細かにメモしている。
奥さんの文章は、現地の状況がありありと目に浮かぶような文章なんだよ。
たとえば、被災直後の宮古、山田町の様子、
「戦場だ…。爆弾が落とされたようだ…。ここは日本なのか…。」note

うん、わかるぞ・・見てないけど、感じるぞ。

陸前高田では消毒液の臭い、土の上にポツンと立つ線香、疲れ切った警察官たちの姿。そして、山のふもとにあった高田高校は波に飲まれ、山の上の高田小学校は避難所として残っている。
「この数メートルの差の光景はまるで天からカーテンを降ろされたように天国と地獄を見たようだった。」
note

Author:Mitsukuni Sato[CC BY]

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