注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。
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福島取材① 双葉・大熊町のいま 6万7000人が故郷奪われ各地を転々
転載元)
長周新聞 21/3/9
(前略)
10年が経った今でも県内の各自治体が避難者とする総数は少なくとも6万7000人にのぼる。これだけもの人々が10年が経ってもなお、原発事故によって帰りたくてもふるさとに帰れないのだ。「復興五輪」など復興が叫ばれるなかで、原発の廃炉はいまだにめどが立たず、中間貯蔵施設として原発立地町の双葉、大熊両町に置かれている廃棄物の最終処分場はどうするのか、たまり続ける汚染水はどうするのか、などについて解決の糸口すら見つかっていない。(中略)
(中略)
双葉駅周辺は避難指示が解除されており、駅も駅前の道路も東京オリンピックの聖火リレーのために新しいものが建設され雰囲気は明るい。しかし双葉町はまだ一人も住民は帰ってきていない。(中略)町役場もいまだ遠く離れたいわき市に置かれており、駅前だけがぽっかりと浮かび上がっている。
(中略)
また住民は誰も戻ってきておらず家々は草が生い茂った廃屋ばかりなのに、比較的新しいお墓が多かったのが印象的だった。「お墓だけでも双葉に残しておかなければ双葉に戻ることがなくなってしまう」と、双葉にはもう戻らず避難した先で暮らしていくことを決めた人たちも、墓だけは双葉町内に建てることが多いのだという。墓参りに来る住民に向けて「ゴミは持ち帰りましょう」と書かれた看板のすぐ後ろでは、除染ゴミを詰めたフレコンバッグが山のように積み上げられていく。それこそゴミなのだ。「あまりにも皮肉でしょう」と大沼氏は話していた。
沿岸部に着くと、そこには先ほどまでの廃墟とフレコンバッグの山とはうって変わり、53億円をかけて建設されたガラス張りの立派な「東日本大震災・原子力災害伝承館」と「双葉町産業交流センター」が建っていた。その横では現在ビジネスホテルが建設中だ。産業交流センターの中には土産物屋やレストランのほかに、東電の福島復興本社と復興事業に携わるゼネコンの事業所がずらりと入っていた。
産業交流センターの屋上に上ると双葉町一帯が見渡せる。沿岸部には現在「復興祈念公園」が建設されており、綺麗に芝生が植えられ整備されている。しかしその一方で産業交流センターを挟んで反対側には瓦礫や汚染土が詰められたフレコンバッグが山のように積み上げられており、ダンプカーが土埃を上げて走っている。それ以外は何もない。
この差は一体何なのだろうかと唖然としてしまった。また「復興シンボル軸」という名の常磐自動車道常磐双葉ICから双葉駅周辺市街地を通り、伝承館が建つ沿岸部までを結ぶ延長7・1㌔㍍の巨大なバイパス道路も建設中だ。いまだ住民は誰も戻れないのに、一体誰が通るための道路なのか。誰のための復興事業なのか。いまだふるさとに戻れない住民をよそにしたゼネコンの遊び場としか思えない実態に愕然とした。
(中略)
大熊町の復興住宅に住む80代の男性は、「これまで7カ所も避難先を転々としてきて、ここが8カ所目だ」と話す。去年の5月に復興住宅に来るまでは、会津若松市の仮設住宅に長年住んでいた。「絶対大熊の自宅に戻りたいと思っていたから、避難先で家を建てたりもせず居られるだけ仮設に居て、復興住宅ができてすぐに申し込んだ」という。元の自宅は避難指示解除準備区域で、今年の9月にようやく家の解体が始まる。今はまだ水道も通っておらず、同じ部落だった人たちが避難先から帰ってくるのかもわからない。震災前は大熊に住んでいた息子は今千葉に家を建てて住んでおり、千葉に来いといわれたが断ったという。
もともとはナシ農家で三町歩ほどの果樹園を営んでいた。「この果樹園は分家だった俺に親が苦労して買ってくれた土地と家だ。それをぶん投げて千葉には行けない」と穏やかに話した。除染のさいに100年くらいの大きなナシの木を3本だけ頼み込んで残してもらった。自宅周辺も避難指示が解除になったら、小さな家を建てて残った畑でナシや野菜などを少しずつ育てていくつもりだという。
男性が住む復興団地は50軒ほど軒を並べているが、夫婦で住んでいるのはわずか5軒ほどで、あとはみんな高齢者の一人暮らしだという。「引っ越してくる前の説明では買い物する場所も心配ないといわれてきたが、いつまで経っても店はできないし、コンテナみたいなコンビニが一つあるだけだ。買い物に行くには富岡まで行かなければならないし、タクシーで行くには往復で8000円もかかる。だから85歳にもなるのにいつまでも免許が手放せない」と話していた。病院は週に1回午前中だけ、診療所に南相馬から医者が来るだけだ。
それでも「綺麗な家もできたけど復興なんて全然進んでいない。大熊の人は東電関連で働いている人が多かったし、学校も公民館も全部東電の金で建てた。財源もたっぷりあったし裕福な町として有名だったが、原発事故でどん底に落ちて何もなくなってしまった。廃炉なんていつになるかわからないし、今でも終わりが見えない。それでも俺は最後まで大熊にいる」と語る男性の言葉には力がこもっていた。
(中略)
大熊町議である木幡ますみ氏は「原発事故によって国民同士、県民同士、町民同士での分断が起きている。原発も“お金をもらっただろ”といわれ、受け入れた住民のせいになる。中間貯蔵施設の地権者も住民も他に汚染土を持って行く所なんてないから、受け入れなければならないとみんな我慢している。原発を建設したのも、故郷に住めなくしたのも国と東電だ。それなのに国も東電も被災者たちをお金目当てのようにいう。だから世論もそのようになってしまう。私は国と東電に対して腹が立って仕方がない」と怒りを語る。
(中略)
そして今大きな問題となっているのは復興住宅などの孤独死だ。復興住宅は家族を亡くした人、家族と離れて暮らしている人が多い。そのため大熊に限らず福島県内各地で孤独死が起きている。なかには数カ月もの間、誰にも気付かれなかった人もいる。木幡氏は、「震災にあって、原発のせいで家にも帰れず各地を転々として、狭くて寒い仮設で暮らして、ようやく復興住宅に住めるようになったのに、誰にも看取られることなく一人で亡くなってしまう。こんな最期はあんまりだ。こんな悲しいことがあっていいのか」と訴える。コロナ禍もあり、これまで以上に住民同士の集まりなどがなくなって孤独死が増えているという。
「こんな状況にしたのは国と東電だ。東電社員も若くして急性白血病や心筋梗塞で何人も亡くなっているという。原発は国が進めてきた政策だから、最後まで国が責任を持たないといけない。綺麗な建物ができることが復興ではない。住民がふるさとに戻り、安心・安全に暮らしていけることこそが本当の復興だ。しかもこれほどの事故を起こしているのに、国はまだ原発を再稼働させようとしている。再稼働などもってのほかだが、原発再稼働や廃棄物、汚染水の問題も福島だけの問題にするのではなく、もっと国民的な議論にする必要がある」と訴えていた。(つづく)
10年が経った今でも県内の各自治体が避難者とする総数は少なくとも6万7000人にのぼる。これだけもの人々が10年が経ってもなお、原発事故によって帰りたくてもふるさとに帰れないのだ。「復興五輪」など復興が叫ばれるなかで、原発の廃炉はいまだにめどが立たず、中間貯蔵施設として原発立地町の双葉、大熊両町に置かれている廃棄物の最終処分場はどうするのか、たまり続ける汚染水はどうするのか、などについて解決の糸口すら見つかっていない。(中略)
(中略)
双葉駅周辺は避難指示が解除されており、駅も駅前の道路も東京オリンピックの聖火リレーのために新しいものが建設され雰囲気は明るい。しかし双葉町はまだ一人も住民は帰ってきていない。(中略)町役場もいまだ遠く離れたいわき市に置かれており、駅前だけがぽっかりと浮かび上がっている。
(中略)
また住民は誰も戻ってきておらず家々は草が生い茂った廃屋ばかりなのに、比較的新しいお墓が多かったのが印象的だった。「お墓だけでも双葉に残しておかなければ双葉に戻ることがなくなってしまう」と、双葉にはもう戻らず避難した先で暮らしていくことを決めた人たちも、墓だけは双葉町内に建てることが多いのだという。墓参りに来る住民に向けて「ゴミは持ち帰りましょう」と書かれた看板のすぐ後ろでは、除染ゴミを詰めたフレコンバッグが山のように積み上げられていく。それこそゴミなのだ。「あまりにも皮肉でしょう」と大沼氏は話していた。
沿岸部に着くと、そこには先ほどまでの廃墟とフレコンバッグの山とはうって変わり、53億円をかけて建設されたガラス張りの立派な「東日本大震災・原子力災害伝承館」と「双葉町産業交流センター」が建っていた。その横では現在ビジネスホテルが建設中だ。産業交流センターの中には土産物屋やレストランのほかに、東電の福島復興本社と復興事業に携わるゼネコンの事業所がずらりと入っていた。
産業交流センターの屋上に上ると双葉町一帯が見渡せる。沿岸部には現在「復興祈念公園」が建設されており、綺麗に芝生が植えられ整備されている。しかしその一方で産業交流センターを挟んで反対側には瓦礫や汚染土が詰められたフレコンバッグが山のように積み上げられており、ダンプカーが土埃を上げて走っている。それ以外は何もない。
この差は一体何なのだろうかと唖然としてしまった。また「復興シンボル軸」という名の常磐自動車道常磐双葉ICから双葉駅周辺市街地を通り、伝承館が建つ沿岸部までを結ぶ延長7・1㌔㍍の巨大なバイパス道路も建設中だ。いまだ住民は誰も戻れないのに、一体誰が通るための道路なのか。誰のための復興事業なのか。いまだふるさとに戻れない住民をよそにしたゼネコンの遊び場としか思えない実態に愕然とした。
(中略)
大熊町の復興住宅に住む80代の男性は、「これまで7カ所も避難先を転々としてきて、ここが8カ所目だ」と話す。去年の5月に復興住宅に来るまでは、会津若松市の仮設住宅に長年住んでいた。「絶対大熊の自宅に戻りたいと思っていたから、避難先で家を建てたりもせず居られるだけ仮設に居て、復興住宅ができてすぐに申し込んだ」という。元の自宅は避難指示解除準備区域で、今年の9月にようやく家の解体が始まる。今はまだ水道も通っておらず、同じ部落だった人たちが避難先から帰ってくるのかもわからない。震災前は大熊に住んでいた息子は今千葉に家を建てて住んでおり、千葉に来いといわれたが断ったという。
もともとはナシ農家で三町歩ほどの果樹園を営んでいた。「この果樹園は分家だった俺に親が苦労して買ってくれた土地と家だ。それをぶん投げて千葉には行けない」と穏やかに話した。除染のさいに100年くらいの大きなナシの木を3本だけ頼み込んで残してもらった。自宅周辺も避難指示が解除になったら、小さな家を建てて残った畑でナシや野菜などを少しずつ育てていくつもりだという。
男性が住む復興団地は50軒ほど軒を並べているが、夫婦で住んでいるのはわずか5軒ほどで、あとはみんな高齢者の一人暮らしだという。「引っ越してくる前の説明では買い物する場所も心配ないといわれてきたが、いつまで経っても店はできないし、コンテナみたいなコンビニが一つあるだけだ。買い物に行くには富岡まで行かなければならないし、タクシーで行くには往復で8000円もかかる。だから85歳にもなるのにいつまでも免許が手放せない」と話していた。病院は週に1回午前中だけ、診療所に南相馬から医者が来るだけだ。
それでも「綺麗な家もできたけど復興なんて全然進んでいない。大熊の人は東電関連で働いている人が多かったし、学校も公民館も全部東電の金で建てた。財源もたっぷりあったし裕福な町として有名だったが、原発事故でどん底に落ちて何もなくなってしまった。廃炉なんていつになるかわからないし、今でも終わりが見えない。それでも俺は最後まで大熊にいる」と語る男性の言葉には力がこもっていた。
(中略)
大熊町議である木幡ますみ氏は「原発事故によって国民同士、県民同士、町民同士での分断が起きている。原発も“お金をもらっただろ”といわれ、受け入れた住民のせいになる。中間貯蔵施設の地権者も住民も他に汚染土を持って行く所なんてないから、受け入れなければならないとみんな我慢している。原発を建設したのも、故郷に住めなくしたのも国と東電だ。それなのに国も東電も被災者たちをお金目当てのようにいう。だから世論もそのようになってしまう。私は国と東電に対して腹が立って仕方がない」と怒りを語る。
(中略)
そして今大きな問題となっているのは復興住宅などの孤独死だ。復興住宅は家族を亡くした人、家族と離れて暮らしている人が多い。そのため大熊に限らず福島県内各地で孤独死が起きている。なかには数カ月もの間、誰にも気付かれなかった人もいる。木幡氏は、「震災にあって、原発のせいで家にも帰れず各地を転々として、狭くて寒い仮設で暮らして、ようやく復興住宅に住めるようになったのに、誰にも看取られることなく一人で亡くなってしまう。こんな最期はあんまりだ。こんな悲しいことがあっていいのか」と訴える。コロナ禍もあり、これまで以上に住民同士の集まりなどがなくなって孤独死が増えているという。
「こんな状況にしたのは国と東電だ。東電社員も若くして急性白血病や心筋梗塞で何人も亡くなっているという。原発は国が進めてきた政策だから、最後まで国が責任を持たないといけない。綺麗な建物ができることが復興ではない。住民がふるさとに戻り、安心・安全に暮らしていけることこそが本当の復興だ。しかもこれほどの事故を起こしているのに、国はまだ原発を再稼働させようとしている。再稼働などもってのほかだが、原発再稼働や廃棄物、汚染水の問題も福島だけの問題にするのではなく、もっと国民的な議論にする必要がある」と訴えていた。(つづく)
長周新聞でも10年目の福島を取材され、淡々とした記事の中から10年間の苦しみを浮き彫りにされていました。印象的なところを取り上げさせていただきましたが、元記事では、冷たく整備された「福島」の、生き物や自然の息吹を感じない異様な様子が写し出されています。
国のもたらした復興は、無人の街を造る「ゼネコンの遊び場」。帰りたくても帰れない人々がせめて「お墓だけでも故郷に」と新しい墓地が多い双葉町。「ゴミを持ち帰りましょう」の立て札の後ろの黒々としたフレコンバックの山。そして胸が締め付けられたのは大熊町の80代男性の語りでした。どうしても帰りたいと切望され、誰も帰還しない無人の街であっても、放射能の不安があっても「自宅周辺が避難指示解除になったら、小さな家を建てて残った畑で梨や野菜を少しずつ育てたい」と7ヶ所も避難所を転々とされてきたそうです。自宅の梨畑は親御さんの想いが詰まった土地で、他の土地では代わりにならないものだったのです。今後、彼の願いは叶わないかもしれない。せめて可能な限り安らかな暮らしを整えてあげるべきなのに。しかし国や東電が目論むのは、声なき声を無視し、住民同士をお金で分断させることでした。長周新聞の記事は、10年経った今も被災者が犠牲者のままだと訴えています。