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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 第6話 ― ユダヤ革命、ロマノフ王朝廃絶

 革命とは普通私たちは下から起こされると思っています。「暴君の圧政に苦しむ民衆たちが自由と解放を求めて結束し、力を合わせ遂に圧制者を打ち倒して新たな政権を打ち立てる。」これが革命だと思っています。そのように思い込まされてきたのです。歴史教科書によって、マスコミによってです。
 実際シリアの戦乱は日本のテレビではずっと必ず「内戦の続くシリアでは・・・」の枕詞のもと報道されてきました。「シリアの圧制者アサド政権に対し民衆が立ち上がった。」と、NHKを始めとした日本のマスコミ全てがこう報道してきたのです。
 もしもアサド政権が転覆していたならば、マスコミは蒙昧にも「解放を求めるシリア民衆の民主化運動による革命が成功した。」このように報じたことでしょう。
 事実は米国の支配者つまり「偽ユダヤ」のある一統の計画と指示による侵略戦争です。当初は反乱軍と名付けたISISなど侵略軍に莫大な資金や兵器そして軍事訓練がつぎ込まれています。一国の政権を侵略で転覆させるのです。その国の政権以上の力なくしては転覆させられるはずがないのです。革命は下から起きるのではなく、上から落とされるのです。その指示と誘導で起こされるのです。
 このことはもし私たちが日本で革命を起こそうとしたならばそれは可能か?想定してみればいいのです。革命を起こすには莫大な時間をかけ日本政府以上の資金力、情報力、人間の動員統率力等を有する必要があるでしょう。できますか?一般大衆が結束して革命を起こすなどとは到底無理なのです。
 ロシアにおける革命も同じ事です。ロシア革命は一般ロシア人民による革命などではありません。「偽ユダヤ」の計画と指示によってハザールマフィアというべきかハザールユダヤ人たちの実行による革命です。これによって遂にロシア国家は転覆しロマノフ王朝は廃絶されることになっていきます。
(seiryuu)
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ユダヤ問題のポイント(近・現代編) ― 第6話 ― ユダヤ革命、ロマノフ王朝廃絶

ロシア10月(ユダヤ)革命へ


アレクサンドル2世 [Public Domain]


19世紀の終わりからロシアは「内憂外患」にさらされ続けます。国家内部では革命運動という名の内乱、外的には日本とドイツとの戦争です。この絶え間ない波状攻撃その疲弊によってロシア国家は転覆させられていきます。

1881年のアレクサンドル二世暗殺以降ポグロムが続出する中、ロシア国家内ではハザールユダヤ人たちの大量海外移民、シオニスト運動が開始、それと共にハザールユダヤ青年層を中心とした革命運動が活発となり革命を喧伝する政党が次々に誕生します。1903年それらの多数派(ボリシェヴィキ)の指導者となったのがレーニンです。

一方1904年には日露戦争が勃発します。風刺画に描かれていますが日本にとっては、国力がまるで違うロシアが相手で、尻込みするのを英国と米国にけしかけられた戦争といえるでしょう。日本は開戦近くまで戦費の調達すらままならなかったのです。ところが予想外にも開戦から日本は連勝を続けます。しかし翌年には日本の体力は尽きてきていました。

そのような1905年、ロシア国内では1月のガポン神父率いるデモ隊への軍の発砲にて多数の死傷者がでた「血の日曜日事件」をきっかけとして、第一次ロシア革命が起こります。「日露戦争当時、ユダヤ人たちは『ロシア政府の敗北』というスローガンを掲げて革命運動を展開」「第一次ロシア革命の嵐がロシア全土を襲った」(イワノフ氏)のです。国内が荒れ不安定化したロシアは、既に体力の尽きた日本と不本意ながらも米国の仲介で9月に講和条約を結びます。


1906年疲弊し不安定化したロシアが巻き返しを図ります。「5月、ロシア政府はストルイピンを首相とする・・・強固な反ユダヤ的な政策をとって革命運動を鎮圧していった(そのためレーニンもジュネーブに亡命している)。ストルイピンは「強いロシアをつくろう」というスローガンを掲げて、今日のロシアの「改革」とはまったく異なる、ロシア人によるロシア人のための政治・経済改革を進めていった。」(イワノフ氏)。

ところがやはり、「しかし残念なことに、1911年9月、ストルイピン首相は暗殺されてしまった。・・・ボグロフというユダヤ人がいた。彼は反体制派、社会革命党の党員で政府の警察のエージェントでもあった。彼は・・・ピストルを2発、ストルイピンめがけて撃ったのである。ストルイピンが亡くなったことによって、ロシア人によるロシア人のための改革も終わってしまった。」(イワノフ氏)。

この後ロシアは第1次世界大戦でドイツとの戦争で苦戦。1917年、戦争による経済疲弊などで国民の不満は高まり2月革命が起こり、3月に皇帝ニコライ2世は退位し、11月にボリシェヴィキが政権を掌握するのでした。


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